チューリップの花を見るとします。
ぼくら凡人は「あ、チューリップの花だ」とその経験を言語化し、言語化することでその経験を完了させます。
でも、禅の世界では、その言語化する過程を排除します。
チューリップの花は、チューリップの花と名づける前に、そこにあるものです。
赤と呼ばれる色彩の花を持ち、緑と呼ばれる色彩の葉を持ちます。
チューリップ、赤、緑というような名詞、あるいはキレイ、カワイイという形容詞を使わないで、チューリップを経験しろと、
禅はいいます。
あるものをあるがままに経験しろということです。
ぼくら凡人はあらゆるもの、ことを言葉でレッテルを貼り、分析し、言葉の理解で分かったつもりになります。
チューリップをあるがままに経験するというのはどういうことか。
網膜に色彩が映り、形が移り、鼻には香りが漂います。
そこには赤と呼ばれる色彩があるのではなく、チューリップの微妙に変化・調和した色があります。
花、茎、葉の形も良く見ると一様ではなく、うねうねとダイナミックにうねっています。
そこには赤も緑も、キレイもカワイイもなく、ただ胸のすくような色と形のダイナミズムがあるだけです。
そのダイナミズム=生命をじかに経験しろということです。
空でもそうです。
「青い空」と形容詞をつけて名詞を付けた途端に、経験は行き止まりになります。
頭上に広がる空間をひたすら経験してみろということなのです。
「青い空」があるのではありません。
そこにはその一瞬の空の色があり、光があり、印象があり、感動があり、風があります。
そういう、もの、ことをじかに経験するためにいつも邪魔しているのが人の言葉=思考=思念です。
解釈、分析、判断です。
これは、いくら言葉を重ねても分かってこない境地なのだと思います。
言葉を捨てる行為というのは、日常の世界のはありませんから。
言葉、思考を捨てた世界というのがどんなものなのかということで、なにかぴったりと来るような文章があったので、
紹介してみます。
長くなりますが、ご勘弁を。
以下、引用。
どのような経験も、いずれは過ぎ去るということ、そして、この世は何一つ永遠に価値あるものを与えてくれない、
ということに気づいたとき、放下は、驚くほど簡単になります。放下をしたあと後も、あなたはたくさんの人に出会い、
経験や活動を共にすることになりますが、そこには、エゴ的自我による欲望や、恐れは存在しません。
これは、別の表現をするなら、状況、人間、場所や出来事が、自分を満足させなければならない、幸福にしなければならない、
という執着心がなくなる、ということです。不完全であり、過ぎ去っていくという性質を、コントロールできないものとして、
すんなり受け入れるということです。
人、場所、状況や出来事に、無理難題を要求しなくなったとたん、不思議なことに、それらは、
あなたにとって満足のいくものに変化していくだけでなく、より調和のとれたものに、
より平和なものになって行きます。これが、受容の心が起こす「奇跡」です。
ーーーーーーーーーーーー中略ーーーーーーーーーーーー
「『いま、この瞬間』を楽しみなさい。幸福になりなさい」。ここでわたしがいわんとしているのは、そういうことでしょうか?
違います。
「『今、この瞬間』を、そのまま放っておく」。ただ、それだけで十分なのです。
「手放し」は、「今、この瞬間」に対して行うものです。「今、この瞬間」を自分なりに解釈して、
でっち上げる話に対して降伏することではありません。
たとえば、身体に障害をかかえていて、歩行ができないと仮定しましょう。この身体的状況はありのままです。
この状況に対して、思考はこんなふうな「物語」を、つくり上げてはいないでしょうか?
「これがわたしの人生か?車椅子の世話になるなんて。人生はなんと不公平で残酷なんだ。このわたしがいったい何をしたというのか?」
「現状」をありのままに受け入れて、「現状」と、「思考がそれについてつくり上げる物語」とを混同しないこと。
これを実践できますか?
「どうしてわたしがこんな目にあうの?」。もはやこの問いかけをしなくなったとき、「手放し」が起こります。
「世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え」 エックハルト・トール著
以上、引用終わり。
放下というのは禅の世界の言葉ですね。
何を放下するのか。
言葉です。
言葉による解釈、判断、思いです。
言葉を全部取っ払ってしまうと、今ここにあるものがはじめて見えてくる。
そういうことだと思います。
なんか、楽しそうです。
ぼくら凡人は「あ、チューリップの花だ」とその経験を言語化し、言語化することでその経験を完了させます。
でも、禅の世界では、その言語化する過程を排除します。
チューリップの花は、チューリップの花と名づける前に、そこにあるものです。
赤と呼ばれる色彩の花を持ち、緑と呼ばれる色彩の葉を持ちます。
チューリップ、赤、緑というような名詞、あるいはキレイ、カワイイという形容詞を使わないで、チューリップを経験しろと、
禅はいいます。
あるものをあるがままに経験しろということです。
ぼくら凡人はあらゆるもの、ことを言葉でレッテルを貼り、分析し、言葉の理解で分かったつもりになります。
チューリップをあるがままに経験するというのはどういうことか。
網膜に色彩が映り、形が移り、鼻には香りが漂います。
そこには赤と呼ばれる色彩があるのではなく、チューリップの微妙に変化・調和した色があります。
花、茎、葉の形も良く見ると一様ではなく、うねうねとダイナミックにうねっています。
そこには赤も緑も、キレイもカワイイもなく、ただ胸のすくような色と形のダイナミズムがあるだけです。
そのダイナミズム=生命をじかに経験しろということです。
空でもそうです。
「青い空」と形容詞をつけて名詞を付けた途端に、経験は行き止まりになります。
頭上に広がる空間をひたすら経験してみろということなのです。
「青い空」があるのではありません。
そこにはその一瞬の空の色があり、光があり、印象があり、感動があり、風があります。
そういう、もの、ことをじかに経験するためにいつも邪魔しているのが人の言葉=思考=思念です。
解釈、分析、判断です。
これは、いくら言葉を重ねても分かってこない境地なのだと思います。
言葉を捨てる行為というのは、日常の世界のはありませんから。
言葉、思考を捨てた世界というのがどんなものなのかということで、なにかぴったりと来るような文章があったので、
紹介してみます。
長くなりますが、ご勘弁を。
以下、引用。
どのような経験も、いずれは過ぎ去るということ、そして、この世は何一つ永遠に価値あるものを与えてくれない、
ということに気づいたとき、放下は、驚くほど簡単になります。放下をしたあと後も、あなたはたくさんの人に出会い、
経験や活動を共にすることになりますが、そこには、エゴ的自我による欲望や、恐れは存在しません。
これは、別の表現をするなら、状況、人間、場所や出来事が、自分を満足させなければならない、幸福にしなければならない、
という執着心がなくなる、ということです。不完全であり、過ぎ去っていくという性質を、コントロールできないものとして、
すんなり受け入れるということです。
人、場所、状況や出来事に、無理難題を要求しなくなったとたん、不思議なことに、それらは、
あなたにとって満足のいくものに変化していくだけでなく、より調和のとれたものに、
より平和なものになって行きます。これが、受容の心が起こす「奇跡」です。
ーーーーーーーーーーーー中略ーーーーーーーーーーーー
「『いま、この瞬間』を楽しみなさい。幸福になりなさい」。ここでわたしがいわんとしているのは、そういうことでしょうか?
違います。
「『今、この瞬間』を、そのまま放っておく」。ただ、それだけで十分なのです。
「手放し」は、「今、この瞬間」に対して行うものです。「今、この瞬間」を自分なりに解釈して、
でっち上げる話に対して降伏することではありません。
たとえば、身体に障害をかかえていて、歩行ができないと仮定しましょう。この身体的状況はありのままです。
この状況に対して、思考はこんなふうな「物語」を、つくり上げてはいないでしょうか?
「これがわたしの人生か?車椅子の世話になるなんて。人生はなんと不公平で残酷なんだ。このわたしがいったい何をしたというのか?」
「現状」をありのままに受け入れて、「現状」と、「思考がそれについてつくり上げる物語」とを混同しないこと。
これを実践できますか?
「どうしてわたしがこんな目にあうの?」。もはやこの問いかけをしなくなったとき、「手放し」が起こります。
「世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え」 エックハルト・トール著
以上、引用終わり。
放下というのは禅の世界の言葉ですね。
何を放下するのか。
言葉です。
言葉による解釈、判断、思いです。
言葉を全部取っ払ってしまうと、今ここにあるものがはじめて見えてくる。
そういうことだと思います。
なんか、楽しそうです。