風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

祭り

2006年08月05日 | 雑感
ちょっと連日飲みすぎました。
黒酢を4パックとシャーベットマンゴージュースを飲んだんですが、まだすっきりしません。
帰って水シャワーでも浴びます。

街の通りにはビールや焼き鳥の屋台が立ち並んでいます。
聞いたところ今日明日は祭りだそうです。
どうしてそういう知らせがぼくの店なんかにも来て、みんなで盛り上げようとしないのでしょうか。
商店街で何やかやのイベントをすることはあるのですが、誰かが勝手に決めて、勝手にしているものですから、
協力のしようもありませんし、参加しようもありません。

浴衣姿の若者の姿もちらほら見えます。
最近、すっかり浴衣を着るというのが定着してきました。
でも、若者主体で、中年以上の人の浴衣姿はあまり見かけません。
じーさん、ばーさんこそがシブイ浴衣姿で街を歩いたらいいと思うのですが。

祭りって基本的にはその地の神社に神輿でも山車でも奉納すると言うことが大きな目的だったと思うのですが、
ここの祭りはなんだかそういう形でもなさそうです。
大通りのパレードがあって、花火大会があって、終わりということみたいです。
盆踊りも、寺や神社の境内なので行われていたのでしょうが、学校の校庭で行われるようになってから、廃れたと思います。
街に鎮座する神様に感謝と祈りを込めて、山車であるとか神輿であるとか太鼓であるとかを奉納し、
盆には先祖の御霊と共に楽しく踊りの輪を広げる。
そういうのが祭りであったのでしょう。
心を向ける中心がないと、当然祭りは形骸化し、その魅力を失って行きます。
祭りを通じて、よくは分からないけど神様というものに心を向け、先祖の霊というものに心を向けてきたのだと思います。
よくわからないものだからといって、祭りの中心であった神様や先祖の霊を外してしまったら、祭りではなくイベントです。

屋台だって、昔は参道沿いにずらっと並んでいて、その奥には神社や寺があって、そこで手を合わせる事でワンセットだったはずです。
参道でもなんでもない道に屋台が並んでも、何かの魅力にはならないと思います。
屋台そのものに魅力があるのではなく、狭い参道にびっしり並んだ屋台の賑わい、イカを焼く匂い、裸電球、
その奥にひっそり佇む神社仏閣。
祭りというのは、そういうのが全部セットになっての魅力であったはずです。

京都祇園祭、博多山笠、東京三社祭など、古い形での祭りを残しているところはもちろんまだまだたくさんあります。
その賑わいは廃れるどころか、ますます人の足を運ばせていると思います。

屋台があって、花火が打ちあがれば人が集まるはずだというような想像力のない祭りのあり方は再考すべきでしょう。
一部の若者の浴衣のファッションショーでしかなくなります。
なんだか分からないものに目を向け続けるというのは、文化的奥行きを残すためにはとても大切なことだと思います。