風に吹かれすぎて

今日はどんな風が吹いているのでしょうか

放下

2006年08月02日 | スピリチュアル
チューリップの花を見るとします。
ぼくら凡人は「あ、チューリップの花だ」とその経験を言語化し、言語化することでその経験を完了させます。
でも、禅の世界では、その言語化する過程を排除します。

チューリップの花は、チューリップの花と名づける前に、そこにあるものです。
赤と呼ばれる色彩の花を持ち、緑と呼ばれる色彩の葉を持ちます。
チューリップ、赤、緑というような名詞、あるいはキレイ、カワイイという形容詞を使わないで、チューリップを経験しろと、
禅はいいます。

あるものをあるがままに経験しろということです。
ぼくら凡人はあらゆるもの、ことを言葉でレッテルを貼り、分析し、言葉の理解で分かったつもりになります。

チューリップをあるがままに経験するというのはどういうことか。
網膜に色彩が映り、形が移り、鼻には香りが漂います。
そこには赤と呼ばれる色彩があるのではなく、チューリップの微妙に変化・調和した色があります。
花、茎、葉の形も良く見ると一様ではなく、うねうねとダイナミックにうねっています。
そこには赤も緑も、キレイもカワイイもなく、ただ胸のすくような色と形のダイナミズムがあるだけです。
そのダイナミズム=生命をじかに経験しろということです。

空でもそうです。
「青い空」と形容詞をつけて名詞を付けた途端に、経験は行き止まりになります。
頭上に広がる空間をひたすら経験してみろということなのです。
「青い空」があるのではありません。
そこにはその一瞬の空の色があり、光があり、印象があり、感動があり、風があります。

そういう、もの、ことをじかに経験するためにいつも邪魔しているのが人の言葉=思考=思念です。
解釈、分析、判断です。
これは、いくら言葉を重ねても分かってこない境地なのだと思います。
言葉を捨てる行為というのは、日常の世界のはありませんから。

言葉、思考を捨てた世界というのがどんなものなのかということで、なにかぴったりと来るような文章があったので、
紹介してみます。
長くなりますが、ご勘弁を。

以下、引用。


 どのような経験も、いずれは過ぎ去るということ、そして、この世は何一つ永遠に価値あるものを与えてくれない、
ということに気づいたとき、放下は、驚くほど簡単になります。放下をしたあと後も、あなたはたくさんの人に出会い、
経験や活動を共にすることになりますが、そこには、エゴ的自我による欲望や、恐れは存在しません。
これは、別の表現をするなら、状況、人間、場所や出来事が、自分を満足させなければならない、幸福にしなければならない、
という執着心がなくなる、ということです。不完全であり、過ぎ去っていくという性質を、コントロールできないものとして、
すんなり受け入れるということです。
人、場所、状況や出来事に、無理難題を要求しなくなったとたん、不思議なことに、それらは、
あなたにとって満足のいくものに変化していくだけでなく、より調和のとれたものに、
より平和なものになって行きます。これが、受容の心が起こす「奇跡」です。

ーーーーーーーーーーーー中略ーーーーーーーーーーーー

 「『いま、この瞬間』を楽しみなさい。幸福になりなさい」。ここでわたしがいわんとしているのは、そういうことでしょうか?
違います。
 「『今、この瞬間』を、そのまま放っておく」。ただ、それだけで十分なのです。
 
 「手放し」は、「今、この瞬間」に対して行うものです。「今、この瞬間」を自分なりに解釈して、
でっち上げる話に対して降伏することではありません。

 たとえば、身体に障害をかかえていて、歩行ができないと仮定しましょう。この身体的状況はありのままです。
この状況に対して、思考はこんなふうな「物語」を、つくり上げてはいないでしょうか?
「これがわたしの人生か?車椅子の世話になるなんて。人生はなんと不公平で残酷なんだ。このわたしがいったい何をしたというのか?」

 「現状」をありのままに受け入れて、「現状」と、「思考がそれについてつくり上げる物語」とを混同しないこと。
これを実践できますか?

 「どうしてわたしがこんな目にあうの?」。もはやこの問いかけをしなくなったとき、「手放し」が起こります。


                        「世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え」 エックハルト・トール著

以上、引用終わり。

放下というのは禅の世界の言葉ですね。
何を放下するのか。
言葉です。
言葉による解釈、判断、思いです。
言葉を全部取っ払ってしまうと、今ここにあるものがはじめて見えてくる。
そういうことだと思います。

なんか、楽しそうです。




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3 コメント

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難しいけど (もも)
2006-08-03 04:27:40
思想も解釈も思うこともすべて言葉によりますが、そもそも言葉は人間が作ったもの。

その言葉を使わずに、頭で考えず、体で体験し、ありのままを受け入れなさいということでしょうか。違ってますか・・

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Unknown (torut21)
2006-08-03 17:40:17
言葉はもちろん人間の活動と切り離すことができませんし、重要な精神活動です。

でも、言葉に慣れすぎてしまいますと、そのままのもの・ことを感じることよりも、

言葉が作り出す概念に安易に引きずられてしまうというところが人間にはあります。



例えば、環境問題などという言葉がありますが、

身の回りには関心がないくせに、公害問題には熱心に取り組むといったことや、

格差社会はいけないと断ずることや、

教育問題の教育ってなんのことか曖昧なままだったり・・・



要するに、言葉で現象を切り取ると分かったつもりになってしまうところが、

人間にはあるんでしょう。



平和がいいって叫ぶのも結構なのですが、平和ってなになのか突き詰める作業がおろそかになります。

言葉を使っているつもりでも、言葉に使われてしまっていることが往々にしてあります。



自分って何?と自問した時、様々な答えが言葉となって頭の中を駆け巡りますが、

どれもこれもそのありのままの姿を示す言葉ではありません。

言葉以前の、ありのままとは何かを実感することによって、

逆に言葉が生き生きとしてくると言うか。



ちょっと説明が難しいです。

なぜなら、ぼくが禅体験をしていませんから。

本当はもっとスパリと説明できるのかもしれません。



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ありがとうございます (もも)
2006-08-04 04:02:01
ゆっくりと反復しながら読みました。

難しいけれど、少しわかる様な気がします。

ありがとうございました。
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