局の道楽日記

食道楽、着道楽、読書道楽  etc
生活色々を楽しんで暮らしている日々の記録です

父 95歳 そして世界遺産

2022-11-13 00:46:05 | 日々の生活
金曜日、両親の介護施設に面会に行った。研究日だったオットもつきあってくれた。
やっとまた施設内に入れるようになったので、またコロナが増えないうちにと。ただ部屋には入れなくてロビーで面会でした。

母は鬱状態がひどい日だったらしく、ワタシたちが行くと告げても出てこなかった。
波があるらしいが日々衰えて行っていることは確か。部屋に入れないので確かめようがない。
その代わり、父が以前よりなんだか元気になっていてびっくりした。
わけがわからないながら30分会話が続き、「ここはいいぞ」「飯もうまいぞ」ととりあえず満足そう。
ときたま私が娘だってことを思い出すのか話がつながる。「ここに居るのは金がかかるだろうなあ、まだあるのか?」と言うので「パパが100くらいまでは大丈夫だよ」と言っておいた。
父95歳・・・
母はもしかしたらコロナがおさまって部屋に入れるまで生きていないかもしれない。
仕方がないから彼女の好きなうなぎの冷凍、守口漬のふりかけ、チーズやらの差し入れと、父と色違いのフリースなどを置いて帰った
母の認知症状が進んで鬱になったのもみんなコロナと、それに行動規制させざるを得ないのが原因、誰を恨んでも仕方がないがコロナ悪いんです!

15分限度の面会が話が弾んだので30分に延長しちゃったが(注意もされなかった)まだ午前中だった。

せっかく遠出したのでどこかに寄って帰ろうと、オットが前から行きたいと言っていた、世界遺産へ。
この秋は見学づいてるな~


道中 紅葉が綺麗だった。

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最初に駅前のこの施設でお勉強
日本の発展を支えた絹 この地に生糸の大量生産ができる製糸場ができ、技術革新がなされたことで人々の生活や文化を豊かにした、官営で始まった富岡製糸所
そして養蚕に関わる資産(繭の改良に努めた 高山社、田島弥平宅、蚕種を保存するのに天然の冷蔵庫となった荒船風穴)







広い中庭もあり赤レンガの建物も素敵だった。







グンマーらしからぬ(って怒られるか)オサレなカフェで昼食


ガレットも美味しかった。




駅前から富岡製糸所に行く道もなかなか楽しい。
私は遺産登録する前に見学に来ているが、その頃に比べてだいぶ色んな店や施設が出来ている感じ。

車で来た場合、製糸所にはパーキングはありません。近くのものも20分100円と都会並み。
駅前の世界遺産センターの無料パーキングに置いて600m歩くのがお得


平日なので空いてました





玄関です 明治五年という文字に歴史の重みを感じる
木骨煉瓦造(木材で骨組みを作り、壁の仕上げに煉瓦を用いる建築方法)
煉瓦の積み方はフランス積み



所内はこんな感じです

総合案内の東倉庫(国宝)ないで、歴史についてのお勉強 











西倉庫に向かいます




西倉庫





途中当時使われていたプリュナエンジンのレプリカを見る
水蒸気を動力源としたこのエンジンで操業されていた。
ブリュナとは生糸に精通したフランス人ポール・ブリュナから。彼がこの工場建設の土地から検証して技術も伝えた。


水タンク 最初は煉瓦作りだったのが漏れるので造船技術を応用して鉄製にした。当時鉄製の容器として日本最大。



西倉庫から操業場を望む
疲れたので一服





休憩所もなかなか素敵です

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皇族も何度もいらしたらしく、お手植えなどもあちこちに



ブリュナさんの家




操業所に入ります





柱がないトラス構造で大空間が出現している 当時は照明技術が不十分だったのでふんだんにガラスが使われて採光された。









中の機械類は当初のものじゃないですよ。
官営で始まったここは三井に払い下げられ、その後片倉工業に渡り、実際に1980年代までここで動かされていたという。
ちなみに日産製



職員さんによる繭からの糸とりのデモンストレーション



当時の工女 横田英さん
官営で始まったこの製糸所はで働いた彼女たちは一日の労働時間は8時間弱 日曜日は休みで技術の等級によって格付けされた月給制 食費や医療費は国負担という当時の日本では革新的な労働環境だったようだ。

操業所裏の庭に出ると



夕陽に照らされる川 遠くに妙義山に連なる山々





広い敷地のあちらこちらの花も美しい

長~い鎖国の時代から明治維新を迎え、国策として質の高い生糸や絹織物を輸出して国益を得ようとした当時の政府。
それに伴って国資本で模範器械製糸場の設立が明治3年に決定されて、明治5年から操業されているんですね。
器械化の技術はフランスから学んだにせよ、明治末期には日本の生糸の生産量と輸出量はともに世界一となったわけです。
そしてこの日会った私の父もその前の代の祖父も曾祖父も 絹産業に身をおいた人だった。

明治って戦争もあったし、決して明るい時代じゃないにせよ、この頃の日本のエネルギーと向上心ってすごいものがあったんだなあと つくづく感じて、コロナのせいもあるけど、この令和の時代の閉塞感ってなんとなく息詰まるもんがあり、ワカモノたちには希望が持ちにくい時代になっちゃっているのではないかなどと感じてしまいもする。



オットと「なかなか勉強になりましたのう」と言いつつ暮れなずむ関越を走らせて家路についたのでありました。
コメント (4)
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