局の道楽日記

食道楽、着道楽、読書道楽  etc
生活色々を楽しんで暮らしている日々の記録です

実家の宝探しで出て来たヘンテコなもの

2024-09-27 12:19:28 | 記憶の箱
相変わらずあっちに行ったりこっちに来たりで過ごしています。

実家の両親の部屋のかたづけの続き。
この記事の通りに両親の寝室をリフォームするための準備中です

終活のNPOの主宰をしている同窓生と 近所の工務店の社長にそれぞれ会って 今後の展開など話し合う。
家具の片付けと搬送と廃棄代こみで 同窓生はかなりお財布に優しい提案などしてくれてありがたかった。
工務店社長は大工さんと建具屋さんと電気屋さんを連れて来て色々計測も・・
もう後戻りできませんなあ・・・

そうなると家具などのオオモノを運ぶ前にはやっぱり整理も必要。
エアコンの壊れている部屋なのでやっと涼しくなって色々長時間動けるようになってきた。(それにしてもヘトヘトですわ)

まだ中を見ていなかった小箪笥の中から出て来た変なモノ

封を切ってない香水の箱が2個
「あっ シャネルだ!」と思ったら・・・


なんじゃこれ? シナールって読めばいいのだろうか?
フランススパイスってなんだ??
苦笑しつつ箱を空けたら瓶の中はだいぶ減っている。ちゃんと密封もしていない粗悪品ってことですね。
その隣から今度は未開封のホンモノも出て来た。


面白いのは香りが似通ってることでした。(どっちにしろシャネルの香りは好きじゃないんだよな)
母はほとんど香水を使わない人だったので自分じゃ買わなかっただろうからどこかからのいただきものであろう。
この空間にはお懐紙が売るほどあったし隣の引き出しには小扇子(お茶席などでご挨拶に使うもの)やその下には水屋袋など お茶のお稽古周りのモノがたくさんあった。
ワタシも備蓄はするほうだけど ここまでお懐紙ばっかりなくてもね~
この辺のものはゴルフ仲間で茶道もやってる友人たちに聞いたら喜んで引き取ってくれるというので持ち帰った。




それにしても 謎の香水だが、思い出してみると父は某私立高校の理事をしていた時期がありそこの先生たちと姉妹校?だかの高雄の学校に視察に行っていたことがあった。
そこから帰るとき台湾茶とか八角の匂いのするビーフジャーキーとかお土産にもらってきたので その流れじゃないかな~と推測。
もう30~40年くらい前の話だから今みたいにITなど進んでなかった彼の国。変なものがたくさんあったんですよね。

その中で卓上の小さな掃除機(単三電池で動くやつ)が一番ヘンテコリンだったのを思い出した。
もう現物はないが、手のひらよりちょっと大きいくらいの丸形のもので、下にブラシと吸い込み口があってスイッチをオンオフするだけの単純なもの。
その箱には 卓上のパンくずやらを吸い込むのに便利などの絵と文章(誤字だらけの文)が印刷してあった。

そして その名前・・・・


クリーナー じゃなくて クソーメー だったんです。

カタカナの形で適当にあてはめたんだろうけど クソーメーって・・・

案外 下系ジョークも好きだった局実家のメンバーしばらく 「クソーメー取って~」
「パンくずクソーメーで綺麗にするね~」などと使っていたのであるが
そう掃除の戦力にならないこともわかっていつの間にかクソーメーは茶箪笥の隅においやられていったのであった。
それを見るたびに脱力しつつも苦笑のもとになったいたっけ。

おそらくSHINARLもクソーメー仲間であろう。
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孫④が一歳になった & ジンクスに気づき青ざめるワタシ

2024-09-07 17:57:51 | 記憶の箱
孫④が一歳になった。
彼女の誕生から、もう一年経ったのか・・・
ムスメ一家が妊娠中に帰国、引っ越し、出産の過程も忙しかったが、その次の月に姑が亡くなり、年明けてから母、そして父を送った。
と思い返すとなかなかハードな一年だったわけです。

お姉ちゃんの孫③はこの一年でみるみる細くなり、あまり食べたがらないので華奢体型で実に女の子っぽくなってしまった。




一方 孫④
食べるの大好きで保育園のランチは5分で完食
ワタシが手伝いに行って一食分食べさせたあとも大人の食事を目で追って食べたがる感じである。
そばで孫③が 一口でいいからお肉食べなさい とムスメに言われてイヤイヤしているのと比べると同じ姉妹でも違うんだな~とつくづく思う。

先月末から歩きだして 今は結構歩く。転ぶ時もしっかり手をついて危なげない感じ。ヘアバンドなんてすると魚屋の兄ちゃん風になる。(っていうとムスメに怒られる)


なんか たくましいんですよね さすが二番目・・・
同じ月齢で孫③が着てたものが入らないそうだ💦



それはともかく 今週ムスメの所に手伝いに行った際、オットが帰宅しない日だったので一緒に夕飯を食べつつ久々ゆっくり話したのですが・・・

ムスメの大学時代のインカレの先輩(女子)が離婚するという話が出た。
ムスメはお勉強ができるタイプじゃなかったが、なぜか友人は偏差値的に優秀な子が多いんですよ。多分ムスメがあまりにもモノを知らないのに感性的には豊かで そういうキャラが珍獣を見るみたいに周りに面白がられていたのではないかと いくら色んな事を教えようとしても好きなモノ以外受け入れなかったムスメを育てた母として分析しております。

それはともかく 地方から受験して偏差値最高の大学に入った彼女は、同じ大学の先輩と結婚してオットの海外赴任やらで転職しながらも三人子供をもうけたのち 今離婚する決心を固めたんだそうだ。
子供は引き取るらしい。(まだ下の子が2歳くらい)
その経緯を聞いて(詳しくは記さないが) 彼女が気の毒すぎて彼女のオットに憤りも感じてムスメと一緒に 「クソエリートだね」「それにしてもこの先いばらの道すぎるよ」と相手の悪口を言いつつ心配していたのですが・・・
その間に思い出したこと・・・
彼女が学生だった時に都心の商店街のお祭りに今のオット(その時はカレシ)と一緒に行くことになって、浴衣で行きたいから着付けして欲しいとウチに来たのですね。
浴衣くらい着付けするのはまかせとき! と その頃は着物に凝ってたワタシ、家に招いて着つけてあげて、ムスメはロングヘアをupにしてあげて、「がんばってね~」と送り出したのであった。
優秀な上に美人で話も面白くて 当時ワタシもお気に入りのムスメの友達だったし、その後 「あの日プロポーズされたらしいよ。ママにありがとうって言ってたよ」という話を聞いて、彼女の幸せにちょっと貢献できたんじゃないかって私も良い気分になったんですけどね・・・
あれから15年くらい経ったのか・・・ 人生ってわかんないな

そしてまた思い返して愕然としたこと。

その後ワタシが頼まれて浴衣の着付けをした
ワイン友 やっぱり離婚。

そして今年、ムスコの母友・・・
ショーゲキの経緯をたどって(ワタシの周りのこの夏の一番の事件だったがここには書けない) 離婚に向けて別居した。

プロじゃないので頼まれた時しかしなかったので、浴衣の着付けしたのは20人あまり?
その中で3人こうなったってどうなの???確率高すぎるだろ!
こんなジンクスは作りたくないな~
お嫁ちゃんにもムスメにも確か着付けはしたと思う。(だからリアルでは言えない ここだけの話)
ここでジンクス発動しないでよね、めんどくさいから と思ってる次第です。
怖いよ~~










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あれは38年前

2023-11-05 22:55:46 | 記憶の箱
ワタシはオットの仕事の関係で関西の某市にいた。
新婚時代であった。






当時住んでいたのはメゾネットタイプといえば素敵そうだが、実際は上下2階が一世帯になったのをつなげた長屋のような古い職員住宅だった。確か1棟6世帯なのが2棟建っていてほとんどが京阪神出身の同業者たちでほぼ同年代だった。
赴任してすぐにそこに住む新婚カップルが多く、なぜか次々と妻たちが妊娠するので、職場の女性たちの間では「発情団地」と呼ばれていたそうだっていうのは余分な話だ。
建物はボロだったが敷地は広くてテニスコートもあったので週末はみんなでそこで遊んだり、バーベキューなんかしたりして楽しかったな・・・

当然みんな阪神ファン。当時は今よりプロ野球中継は頻繁にTV中継されて、それを見ていた住人は阪神が点を取ると、「うわぁ~~」取られると「ぎゃ~~」と長屋中がどよめいたのを覚えている。
東京出身のオットは巨人ファンなのを隠し、野球に関心のないワタシもノリで阪神を軽く応援していたっけ。

そしてあの夏・・・
御巣鷹山に日航機は墜落し ワタシは長男を産み 阪神は優勝した。
サンダースおじいさんは道頓堀にダイブさせられてしまった。



38年・・・ あの時の新生児は立派なオジサンになって、私も孫を得て名実ともにバーバになったわけですね。

優勝するまで長かったんだなぁ 
おめでとう!




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花火の思い出

2023-08-01 00:26:03 | 記憶の箱
話は前記事の丑の日から前後しますが、先週の土曜日に4年ぶりだかの隅田川の花火大会がありましたね。

オットは職場からの帰り道が影響されるので渋滞覚悟で車で帰って来たが、そう大変じゃなかったようだ。
人混み嫌いな局夫婦は当然現地で見物する気はないのでTVで鑑賞。





今年はコロナにも雨にも邪魔されずに最後までできて良かったね、TV東京 高橋父娘。
以下、花火の写真はTV東京の画面を映したものです。

そういえば混雑嫌いのワタシも一度だけ、この花火大会に出向いたことがあったのである。
そう、あれは10年前・・・・

30分だけ花火大会 - 局の道楽日記

昨日は花火大会に行った。お弁当ビール飲み放題つき招待券があるからと、我が畏友舞台友Nが誘ってくれたのである。実はですね、ワタクシ、東京の花火大会ってもの考えてみた...

goo blog

 


この時、舞台友Nに誘われて浅草まで出向いた。スカイツリーのすぐ脇のような小学校の屋上の特別席を用意してくれたのは、彼女の恩師の団塊オジであった。
その後の経緯は↑の記事を読んでいただけばおわかりと思うが、始まって30分もたたないうちに雨が降り出し、それは激しい夕立となり、大会は中止、見物客たちはびしょぬれで帰ることになった年であった。

もちろん最後まで見たかったが、あれはあれで忘れられない一日になったな~と読み返して思う。

そして、この時、色んなコネを駆使して、私達をあの屋上の特等席にいざなってくれた団塊オジは、もうこの世にいない。
3年ほど前に肝臓がんで亡くなってしまった。




スカイツリーと月と花火。都会ならではの景色ですね。
そういえばこの近くのタワマンの高層階に住んでいたワインと料理好きの若者に「花火もよく見えるから今度みんなで来てね」と誘われたこともあった。ワイン仲間の妙齢の独身美女のカレシだったが、彼女がふっちゃったのでその話は当然無しになった。
何を思ったか彼はそのマンションを売って南の島に移り住んだかと思ったらそこで事業を始めて成功して、福祉事業などにも携わり、定期的に外国にも短期滞在しつつ自由に生きているのはインスタで知れる。
彼と別れた彼女は結婚して2年持たずに別れてまた独身になった。



花火と屋形船 この屋形船に同窓会メンバーで乗り込み宴会をしたこともあったっけ。もちろん花火の日じゃないですよ。
次から次に出て来るテンプラにヘキエキし、せっかく川の上にいるのにあたりの景色もそんなに見ないでビールを飲むのとおしゃべりに終始して「これじゃわざわざ船にのる必要もないね」ってことでその年だけで終わった。
そういえばコロナの初期の頃、屋形船で宴会していた方たちが次々に感染したってこともありましたね。
あの初期の頃のコロナは確かに恐ろしいものであった・・・



フィナーレの花火は華々しく、TV鑑賞ながら気分は高揚した。
しかし、花火の終わったあとのポッカリ空いた夜空は寂しいもんですね。
そんな気持ちを抱えながら、浴衣の乙女たちとそのお相手や会社の同僚、家族連れは混雑の中帰っていったのでしょうね。
この日の都心は遅くまでうごめいていたに違いない・・・

しかし、何となくこの日、10年前からこの日まで、近しい所にいたのに遠ざかって行った人、環境を変えて新しいことを始めた人の事がなぜか頭を過ぎり、その時の流れが川だとすると、自分がそこにただ立っている一本の杭のように思えてなんだか虚しい気分になった。
10年前の自分の記事を読んでみて、ムスコは海外に居て、その後日本に戻り子供も二人授かり、忙しいながら充実はしているらしい。
ムスメもこの10年で結婚して海外で2国過ごし、子供も授かり、もうすぐもう一人増える。
オットはオットで相変わらず忙しい日々。特にコロナに振り回されつつも、どうにか無事に老骨に鞭打つ日々。
その反面、両親と姑は、この10年で老いて施設に入ることになった。
なんだか自分だけその調整役に徹して過ごしてしまったような気もしないでもない(そりゃ~色々楽しみ事はしてますけどさ)


自分だけが変わらず進歩もしてないと思うのは、ある意味大きな病気やアクシデントがなかったってことなのかもしれないが、色々あありながらも漫然と過ごしちゃったのかなと10年の流れの速さにある意味愕然としたりもする。

花火っていうのはノスタルジーに浸らせもするが、この先の未来も考えさせられたりするもんですね。



もちろんこんな頃には戻れないけどね。
これから彼女が季節を重ねてどんな大人になっていくのだろうか? それをどこまで見届けることができるのだろうか?

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クッキー缶から

2023-05-05 17:46:50 | 記憶の箱
昨日の午前中、宅配が来たので開けてみたらお届けものであった。

いつも美味しい物をお届けくださる、オットが仕事関係でつきあいのあるマダムから

開けた途端、へっ?と思った。

こちらのクッキーであった。




こちらのブログの読者さまならこのこの缶に懐かしさを覚えますよね。

しかし、今時はあまりお使い物にはしない。デパ地下の中でも地味目のところにひっそりと存在しているがあえて買わない・・・
みたいなもんじゃありませんか?(泉屋さんには失礼ですが)





しかしよくよく外箱を見たら、これってあのサダハル・アオキパティシエとのコラボ缶であった。
このオサレイラストは、ノートルダム寺院 ルーブル パリの街灯 シトロエン エッフェル塔 凱旋門など、自転車はツールドフランスのオマージュか?
なんか捨てるにしのびない箱だな・・・

開けてみたら



昔ながらの懐かしいクッキーと目新しいカラフルなクッキーが顔を出した。



この辺がオールドファッションのもの?
ワタシは直方体の表面がザラっとしているのが好きだったな。
食べてみたら、やっぱり油脂感もスパイシー感もなく、口の中のうるおいを持っていかれそうな粉感であった。
しかし、これが昨今のバターたっぷりクッキーズに慣れたワタシにはかえって目新しさにうつって美味しくいただきました。
昔もこのクッキーって紅茶や牛乳にちょっと浸して食べるのが好きだったな~



そういえば、去年のお歳暮だったか? この詰め合わせをいただいて、これまた「懐かしい~」と思ったが、これも泉屋とならんで昭和の贈答品にはよくあった品じゃなかっただろうか?
これも 懐かしいけど今更買わないよな~ と思って食べたが、繊細な薄い作りの生地が重ねられての食感は、美味しく感じられて、「やるな、エコルセ」と思ったものであった。

一方、また話は泉屋に戻りますが


この辺がサダハルなのか?



小さい瓶もそえられてあって、解説を呼んだら サダハルの軽井沢の工房?で作ったフランボワーズのコンフィチュールだそうだ。
オットは「何か汁っぽいものがついてるな」とのたまったが 汁って・・・

思いがけない泉屋クッキーで記憶の箱が開いたが

この缶って丈夫で蓋がしっかりしていたので、クッキーを食べ終わった後にたいてい何かを入れて活用していませんでしたか?
母は、この缶を刺繍糸の入れ物にしていた。
縄状にひねってあって真ん中に色番が書いてある紙ラベルがベルトの様になっていた刺繍糸を、母は丁寧に自分で画用紙で作った糸巻きに巻いて、色番をそれに貼り付けていた。
小さい時のワンピースとかエプロンとかは母が得意のスモック刺繍で胸元が飾られて、ピアノのレッスンバッグにもさまざまな花をちりばめてくれた。
(こんな母に育てられたのに、ワタシは針仕事にはアレルギーがあって、ムスメの小学校支度などはすべて友人作であった)


(メルカリでお借りした画像、こういうモノにも愛好者がいるんですね)

あと一つ、実家のリヴィングのすぐそばにはちょうど子供の頭くらいの位置に戸棚があり、そこにいただきもののお菓子やおせんべいが入っていた。日の当たらない中廊下のちょっとひんやりした所で、背伸びして扉の引手を開けると、この泉屋の缶には蕎麦ボーロ(その頃の実家では京都と取引していたので蕎麦ぼうろは定番お菓子だったのである)が入れられ、この粉ミルクの空き缶には祖母が愛好するくろ飴とか栄太郎の飴が入っていた。

この缶のイラストの女の子は同じように缶を持っていて、その缶の女の子もこの缶を持っているはず・・・
奥にいくほどどこまで小さく女の子の持っている缶は連なって行くんだろう? と戸棚を開けてぼ~っと想像していた幼い自分の姿も記憶に蘇ってきた。
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誕生日とプレゼント

2022-08-28 22:19:44 | 記憶の箱
今週は孫①の誕生日があった。

おかげさまで - 局の道楽日記

生まれました!なかなかオトコマエーおかげさまで

goo blog

 



あれから8年。息子の赴任先のNYで産む予定だったお嫁ちゃんはムスコの仕事の都合で急遽帰国が早まり、予定日の2月前くらいに帰国となった。
それから引っ越し、産院探し、出産、暑い熱い夏だったな。
そう大きな病気も怪我もせず、その人生の中の2年半をコロナ禍が蝕んだのはもったいないが、それはみな同じ。
調子づいて怒られがちだが、周りからの愛情を注がれて育ってきてくれたことは見守ってくれる存在に感謝です。

今日はちょっとお祝いでもしようかと
肉好きな彼とムスコ一家のために木曽路ランチして





近くの神社にお参りした。




で、プレゼントは何にしようか?という話になった。ぼ~っとしていたら用意できずに誕生日を迎えてしまったのである。
本人に聞けばゲームソフトなんていうだろうが、TV視聴+ゲームは合計1時間/1日 となかなか厳しい制限を課しているお嫁ちゃんにから見れば、あまり歓迎されないのは確か、しかもお嫁ちゃんの方のバ~バのプレゼントは漫画の日本の歴史全巻らしい。
それでうちがゲームソフトじゃ、キョーイク上差がありすぎるし、だからといって 世界の歴史漫画ってのも二番煎じじゃないだろうかと考えあぐねていたところ

お嫁ちゃんより
「そういえば、この雑誌が復刊になったんですよ」という話が出た。
「私、小学生の時、読むのがとても楽しみだったんです」



ここを読んでるみなさま、学研の雑誌、懐かしくありませんか?
「学習」と「科学」っていう月刊誌が学年ごとに刊行されていましたよね。
「まだかなまだかな~ 学研のおばちゃんまだかな~」というCMを覚えてるあなたは同年代。
ワタシの小学校は学校単位で仕入れて、希望者に配布する形式だった。私は両方買ってもらっていて、毎月、配られる日が楽しみだったっけ。
「学習」の方はバスの中から読み、「科学」の方は家に帰って付録を開けてあれこれ作ったり実験したりするのが楽しみだった。
蟻の家を作るので庭から蟻をつかまえてきたり、磁石で砂鉄あつめたり、ちゃちかったけど顕微鏡で葉っぱの細胞見たり、試験管のセットも嬉しかったな~ などと思い出す。
私もホントは文科系脳なのに、科学畑の大学に行ってしまったのは、多少はこの「科学」の付録にまつわる経験から、「それほど科学は難しいものじゃない」という先入観があってのことじゃなかったか?
入学してから、熱力? エンタルピー? 何それ?の世界で後悔したもんであったが。

とにかくその「科学」の方が10年ぶりの復刊だそうだ。
少子化だのの影響で、一時は600万部以上の発行を誇っていたこの雑誌も廃刊に追い込まれてしまっていたそうな・・・

そう言えば学研といえば、姑の高齢者住宅もそちらの経営。対象を子供からジジババ方面と経営方針を替えての生き残りはしぶといな~と思っていたんですが・・・

このたび、満を期して本来のお家芸復活。めでたし・・・



復刊後の創刊号の付録は 水素エネルギーロケットだそうだ 電池を使わずに手回しで発電、水からつくった水素を爆発させて飛ばすロケットだって。付録も進化してますねえ。
本誌は 「水素エネルギー」と「宇宙」がテーマだそうだ。
時代にあってていいですね。
孫①、わかるかな?



これをお嫁ちゃんに示唆されて、みんなで調べて、
「うん、プレゼントこれにしよう。これから1年に3号発行されるらしいからとりあえず1年分が今回のプレゼントね」って話になったのだが・・・
7月に刊行された創刊号が、売れすぎてアマゾンでも楽天でも完売で、買えないんですよ!
あまりの人気で重版されることになったらしいが、今予約しても買えるのは12月初旬とな・・・ これじゃ誕生日プレゼントには間が抜けるねえと
大人たちが必死で紀伊国屋だの大手の書店の在庫を調べたら、某書店に1冊だけあり、それの取り置きをお願いして一件落着した。

ゲームソフトの方が良いって言うかな?とちょっと心配だったが、孫①はこの説明と画像を見て、「早くロケット作りたい~」と楽しみにしていたのでめでたし。
私も届いたら読んでみたいものです。
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薔薇の記憶

2022-05-12 00:10:33 | 記憶の箱
我が家の周りの家並み、この時期薔薇を咲かせている家が目立ちます。
ここの所多くなってきたようにも思える。







お屋敷の庭からあふれて道に向かって流れるように咲きこぼれている薔薇を見ながら









ユーモラスな風向計とのコラボを楽しんだり





表札が入らないように、そうっと門の周りの薔薇を撮らせていただいたりしているわけです。



きわめつけはこちらのお宅 この日は自転車に乗ってちょっと遠出をした際に見つけたのだが、マスク越しにも感じられる芳香が漂っていた。

ところで、私の実家は、典型的な日本庭園で、芝生はあったものの 松、竹林、紅葉の間に石や灯籠が配され、花と言えば つつじがたくさん、あとは牡丹と紫陽花椿と山茶花と梅等の木の花が多くてあい愛らしい草花は少なく、裏の通路は南天とやつで みたいなので 子供心につまらないと思っていた。
多分幼稚園の頃、一度父が、どういうわけか同業者の自宅に私を連れて行ってくれたことがあり、そこは噴水があってたくさんの薔薇が咲いていて、二人乗りのブランコもある華やかな庭があった。そこの家のムスメとワタシが同い年くらいだったので、父も連れて行ってくれたのだと思う。
ワタシはそれが忘れられなくて、あの洋風の庭にあこがれて、祖父に「家の庭にも薔薇を植えてよ」と何度か頼み、そのたびに「薔薇は虫がつくからダメ」と言われて つまんないな~とがっかりした記憶がある。長じては実家の庭の良さもわかってきたが、そのころは本当に素敵じゃない庭だと思っていたのだった。
そして、父に「あのお家にまた行きたい」と言ったら「あそこの家は商売がダメになって売られちゃったんだよ。」と言われびっくりしたのを覚えている。数十年たった今でもそれを覚えているのは、あんなに素敵な所にもう二度と行けないことでっかりしたのと、一度だけ遊んだ可愛い女の子は今頃どうしているんだろうと子供心にも心配だったのだと思う。
多分、それが人生初の諸行無常感を知った出来事だったかもしれない。

そしてもう一つ思い出すのは家の近所の薔薇屋敷の思い出である。

一度コメントで書いたことがあるんだけど改めて書いてみる。

30年ほど前の話です。
家か道を挟むが3軒ほど離れたところに大きなお屋敷があった。地方ならそう大層な部類じゃないかもしれないが、この辺で100坪くらいの敷地は十分にお屋敷なわけです。

そこに白い壁に赤い屋根の二階家が建っていて、石の塀が囲んであった。塀が高かったので庭はよくは見えなかったが、門がアーチになっていてそこに小さな花が咲く薔薇の蔓がからんでいた。

ところで、そこに住んでいるのは当時around80歳のおばあさん一人だった。そしてそこに娘さんらしい中年の女性が二人、様子をみるようで出入りしていた。
そのおばあさん、いつみてもワンピース(それもかなりの頻度でひらひらの)のお出かけ姿、そして真っ白のファンデーションに遠目でもわかるくっきりしたアイラインで盛髪のアップだった。細身で姿勢はいいんだけど、歩く時は超独特で 「しゃなりしゃなり」というのを絵にかいたように歩くお方であった。その頃 ソノ子さんという美白の女王がいたが、あんな感じを想像してくれれば当たらずとも遠からじだと思う。

とにかくそんなソノ子であったが、その家は薔薇の季節には屋敷からこぼれでる花と香りで近隣を楽しませてくれた。
家が引っ越して来てすぐの薔薇の季節。ムスメと二階の窓から「綺麗だねえ」と見ていた所、ソノ子がエレガントな帽子をかぶり、手に花ばさみを持って出て来て、薔薇の花を切り始めた。
そしてびっくりしたことには、薔薇の花を片手にハサミを片手に くるりくるりとピルエットのように回ったのであった、それも三回ほど。

今見たのは何だったのか? びっくり仰天で顔を見合わせた母娘。
あとで昔から住民に聞いたら、ソノ子はその家でクラシックバレエを教えていたらしい。 で、納得。しかし薔薇を切りながら回るのが普通かどうかは疑問。。。その時から我が家では彼女を秘かに「薔薇切りお婆」と呼ぶようになってしまった。

しかしながら彼女は気品があるというよりはいかにも権高い女性で、道で会って挨拶してもあさっての方向を向いて無視することも多く、ゴミの出し方もその近辺で一人だけ守らずに結構困ったちゃんであった。
ソノ子の娘の一人は、ご主人だかパートナーだかが欧米人で、しかも音楽関係の人らしく、たまに滞在する時には家の中でオペラの一節を歌っていることもあった。
ちょうどゴミ出しをして出くわしたお向かいの奥さんと、彼が朗々と歌うリゴレットの一節が終わったところで 秘かに「ブラボー」とその家に向かって手を叩いて苦笑したこともあったっけ。(上手だけど傍若無人にデカい声だったのである)

そして、月日はたって この頃薔薇切婆さん見ないなあと思っていたところ、重機が来て、そのお屋敷はみるみるうちに取り壊された。高い塀も壊されて庭の全容が見えたと思ってからすぐに植栽も引っこ抜かれた更地になってしまった。

その後しばらくたって、そこは4分割されてそれぞれ二階建ての一軒家になった。駐車場がついて、少しだけ庭があるようなこじんまりとした家。30年たつとこのあたり、大きな屋敷が壊されて細分化されて、こういうパターンが増えていった。
ガレージには中くらいの車が一台と子供を乗せる電動自転車、三輪車や子供の自転車もならんでいる。
高い塀はなくてオープンなつくりか、あっても金属のフェンスなので庭の中もよく見え、そこにはたいていハナミズキかオリーブかユーカリの木と薔薇が植えてある。いわば、私が小さい時にあこがれた西洋風のミニガーデンである。

薔薇切婆さん屋敷に限らず、高い塀に囲まれ、誰が住んでいるのかもわからない家がなくなり、その代わりに子供連れのファミリーに置き換わられているこの界隈。
それは街の新陳代謝としては健全なのかもしれないが、あまりにあっけらかんとしていて、薔薇切り婆さんのいた頃のちょっと不思議で謎に満ちた空間は失われてしまった。



ワタシの一番好きなキリコの絵なんだけど、こういった陰影はもうこの界隈にはなくなってしまったのがちょっと寂しい。










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おかけとショーゲキの母の昭和言葉の件

2021-05-29 22:46:48 | 記憶の箱


前の記事にてこの物体を「おかけ」と言って、娘にあまりにも昭和臭いとバカにされたと書いた。

そうしたらコメント欄でkikiさんより 「おかけ」って何ですか?と質問されてしもた・・・

ん~~~ 年代差なのか地域差なのか・・

要するに よだれかけ の略語で、局家実家(ワタシの母や祖母)では幼児の胸にかける汚れ除けの物体を「おかけ」って呼んでたんですよ。
そういえばあまり他所では聞かないな・・・

そしてpukarikoさんより この物体を何と呼ぶのでしょうか?と疑問を投げかけられた。

ムスメに聞いたら ウレタンビブって言うらしいですよ。 へ~~ しゃらくさいですねw

布製のものはスタイって言うのはワタシも知っておるけど、ビブって 何語?英語圏で使うんですかね? これはkebaさんに伺いたいところである。

まあ スタイでもビブでもいいが、確かにこれは便利ですよ。自分で食べたがる幼児にこれつけて食べさせると服の汚れはグンと減る。
今日の夕飯時もこのビブのポケット部分が茶碗蒸しの海になっておった。

で、昭和言葉の件、

子育て周辺に結構トラップがしかけられてませんか?(ワタシだけかいな)

ベストをちゃんちゃんこ とかは序の口

今日もつい

ベビーカーを「乳母車」と言ってしまってムスメの薄ら笑う顔を見て、内心自分に「ちっ」と思った。
やっぱり乳母車って言うと



こんな風にクラシカルな物体を指す気がする。

ムスメのは帰国直前に某日本製コ〇ビのものが壊れてやむなく


これを買ったらしい。スタイリッシュだが〇ンビより重い。
日本製の軽くて持ち歩きに便利なのは、ヨーロッパなどの石畳で使うと案外壊れることが多いらしいですよ。
話がそれた。

そして昭和言葉で思い出すのはワタシの母である。

ワタシの幼少時、明治生まれの祖父母も同居していたので、局家実家は昭和言葉どころじゃない言葉が飛び交っていた背景もあった。

衣文かけ 電気釜 パーマ屋 魔法瓶・・・ワタシもこの辺くらいでは驚きはしない。

しかし、母の言葉でショーゲキだった事件があった。

ワタシが大学3年の冬であった。試験休みだかで実家に帰っていて、そこに卒論の研究室の先輩がバイクで訪ねてくれたことがあった。
高速で1時間半くらいの行程、べつに彼氏ではなかったが、なぜか寒空の下バイクを走らせて遊びに来たのかはよく覚えていない。
とても感じが良くイケメンの先輩だったし、次の学年で彼のグループに入って卒論を書くことは母に告げてあったので、母も愛想よく迎え、お寿司かなんかとってごちそうしたような気がする。

そして彼が帰ることになったとき、玄関に見送りに来た母が,彼のヘルメットを指して

「お気をつけてお帰りくださいね。 あ、そこに置いてありますよ、お忘れにならないでね 鉄カブト

さすがのワタシも玄関でずっこけそうになった。

鉄カブトって言えば

これか

はたまたこれじゃないか





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戒名とチーズ味

2021-05-18 11:28:11 | 記憶の箱
実家地方に住む弟から、「今年がばあちゃん(故私の祖母)の33回忌なんだってよ。〇〇寺から通知が来たんだけどどうする?」と打診が来た。
う~む 33回忌か・・・
33回忌ともなると、本人の子供の代も亡くなっている場合が多いのではないだろうか? 家の場合も、二人の長女は亡くなり、長男(父)とその妻(母)は老人ホーム入りで、もちろん自分で仕切ることはできない状態。
とはいえ一昨年同じ寺で弟とワタシで祖父の三回忌は執り行った。コロナ禍ではあるがこの際祖母のも行い、これで最後にしようという結論に達し、9月の日曜日に予定した。

お寺に予約を取ったあとの弟からのline

弟 〇月✖日 11時~
  こちらが用意するのは 本堂用の花
             お菓子
             果物
   別に 〇万✖千円 (高いよな)
   よろしく

私 へ~え おじいちゃん時より値上がりしたね
  〇〇寺 ぼったくるねえ
  パパママの戒名とか考えると恐ろしいね


   ↑ 不謹慎ですが、現実的に考えざるを得ないじゃないですか
     確か祖父母の戒名はいわゆる院号がついていて三桁だったとか父が言っていた覚えがある
     実家地方でも あ~〇〇寺、あそこでご供養すると高くつくんだってね~ との評判なのであります

私 勝手につけちゃおうっか(笑)

弟 アプリで作った俺の戒名 笑
  美好力皆信士 (ビコウリキカイシンジ)


OGPイメージ

自動生成・戒名メーカー - Google Play のアプリ

戒名を自動生成して管理・編集できるツール。戒名授与証書も発行・印刷でき、位牌としても利用可能です。一般の方にも僧職方にもお薦め。

 


スマホ用のこんなアプリがあるんですね。わろた。
レビューを見て、更にわろた


例1
とても良き。不謹慎とかの意見ありますが戒名で何万も支払って知らない坊さんにつけてもらうよりじっくり自分でつけるも良しです。漢字が気に入らないなら入れ直しすれば出るし。義母が亡くなって坊さんとやり取りしましたが坊さんも当たり外れあるし。素晴らしいアプリありがとうございます

例2
他の戒名メーカーに比べ、クオリティが高くいいと思います。知り合いの寺院さんに勧めたら、「戒名管理できていいですね。」とのことです。

Moaisoft Games2019年5月29日
僧職方におかれましては、タブレットにインストールして 檀家様への戒名のプレゼンテーションなどに利用して頂く事も出来ます。 その場で檀家様の意見を取り入れて修正したりするなど、臨機応変に対応できます。 ご活用頂ければ幸いでございます。

例3(批判の一例)
浄土宗ではこのアプリで付けたものを戒名とは言えませんので 葬儀式を執り行う住職が認めなければこのアプリで生成したもので お葬式はできません。 また、元々戒名料の必要のない地域、寺院以外では戒名料を 請求されます。 デべロッパーが伝統仏教で言うところの「戒名」とは違う解釈を するのは自由ですし他宗がそれを容認されるのも自由ですが 浄土宗と表記するのであれば浄土宗宗務庁にご確認の上、表記して下さい。 浄土宗における「戒名」とは師僧が仏道を歩もうとする弟子に 戒を授けた上で名付ける名前であって、本来クリスチャンネームや イスラーム名と同様のものです。 浄土宗においては個人が勝手に付けたものを戒名とはデベロッパーさんによると、このアプリで戒名が授かるそうですが 授けたのはこのアプリを提供したデべロッパーさんと言うことに なりますので授けた以上責任がありますので、トラブルになった 場合はデベロッパーさんにお願いしましょう。

Moaisoft Games2019年5月24日
戒名は自分でつけることが可能です。 そういった書籍も多く発行されております。 僧籍がなければ戒名をつけられないといった考え方こそ傲慢です。 重要なのは故人或いは自分への想いにあると考えます。 トラブルというならば、お気持ち次第と称し、高額な寄付を強要される問題が散見されます。 そういったことこそ懸念すべきではないでしょうか? 金銭で買った戒名がありがたいのか、故人の為に真心込めて考えた戒名がありがたいのか、貰う側の事を考えてユーザーの方がそれぞれ考えればよろしいのではないでしょうか? このアプリを使用すれば、無料で戒名を授かれますので是非ご利用下さい。

ふ~~~む

話は弟とのlineに戻る

私 アプリインストールするのもメンドウだから ワタシの作ってみてよ

弟 白葉果窓大姉 (ハクヨウカソウダイシ) だってよ
  1~5レベル(金額)4 で設定

私 へ~え

弟 ちょっとキレイ過ぎ

私 やっぱり佳人ってわかるんだなあ 

弟 趣味 ゴルフ
  特技 酒
  座右の銘 怒
  で、入力したんだけどな

私 

弟 


アラカン姉弟のあほらしい会話だが、例3であげたMoaisoft Gamesの返答が真実だったら、弟と私が真剣に考えて父母の戒名を付けるっていうのも可能なんじゃないだろうか? お寺さんに三桁ご寄進するより、もっと公共性のある所に故人の遺志として寄付したいと思いますよ。

それはそうと、このお寺は実家の親戚一族郎党が眠っている。
確かに先代のご住職さんは the僧侶って方で読経の声も朗々と本堂に響き、お説法も子供ながらに心に響くものであった。

そのご住職の晩年、確か祖父か祖母の3回忌くらいのこと。
幼稚園に入るか入らないかの頃のムスコも一緒に法要に参加していた。その頃はもちろん父母も元気で叔母一家や父の兄弟たちも参加して、広い本堂に一族がそろっていた。
そんな時
先代のご住職が読経の間にこちらを向いて 「それではお焼香を」と言った時のことであった。

隣に座っていたムスコがワタシに
「チーズ味、チーズ味」とささやいたのである。

チーズ味とは その頃から我が家で気に入ってよく購入していたあられの一種類 今でも売られているロングセラー商品である。(美味しいですよ)



この中でも子供たちが気に入ってたのは カレー味(毘沙門天)とチーズ味(布袋尊)
ほっとくとそればかり減るので 「他の味も均等に食べよ」と指導したのも覚えている。

そのチーズ味の絵



目の前に立っているご住職にそっくりであった。
お焼香までの時間、笑いの発作を抑えるのに必死だったアホな思い出。




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懐かしい絵葉書でタイムスリップする

2020-07-27 19:04:22 | 記憶の箱
実家に帰り、キッチンとリヴィング周りのごちゃごちゃを整理していたときである。
何年前やらの領収書だのパンフレットが積んである書類入れの中に、こんな葉書を発見した。



赤毛のアンの島、カナダのプリンスエドワード島からワタクシが母宛に出したもの。
そのころ息子は結婚してすぐにトロントに赴任していた。海外の部署にしてはのんびりしていて上司も好い人だったらしく、長い新婚旅行のような感覚で謳歌していたみたいだった。そこをオットと一緒に訪ねようと計画したのであった。

ついでに彼の島に行こうと提案したのはオット。それには案外深い理由があったのよね。

遡るとワタクシたちの結婚披露宴のこと。友人代表でスピーチしてくれたのは親友Aであった。幼稚園から高校まで同じ学舎で学び、その後もずっと離れず離れず。あちらは子無しでバリキャリの人生を歩んだので、過ごし方は違ったけど会えば話は盛り上がり、最近はゴルフも一緒にという仲。時々出会って何年になるかねぇと指折り数えて(人に言えない年月だね)と、お互い苦笑するが昔も今もかけがえのない友である。
彼女はそのスピーチで、ワタシのことを空気を読んで過分に誉めてくれたが、その中で「局ちゃんはとても読書家、彼女に薦められた本で赤毛のアンシリーズがあり、私も夢中で読んだ、いつか一緒にあの島に行くのが夢、◯◯さん(オット)、局ちゃんをいかせてくださいね♥️」というものだった。
当時から超美人のAが、初々しく頬を染めてみんなの前でしたスピーチは、招待客の老若男にかなりの印象を与えたらしい。そこに居合わせた、当時オットの上司であった助教授(のちに教授でもう定年で次の職も引退された 月日は流れたもんですな)は、その後も何かの折りに、「お前、奥さんをプリンスエドワード島に連れてったか?連れていけよ」と何度も念を押され(プレッシャーをかけられbyオット)たらしい。

へえ そう言えばあれから幾年だろうか・・・ 家族で海外も行ったがその島までは行かなかった。子供の一人が巣立って家庭を持って、なんとその島のある国に赴任したとは 考えてみればちょっとした運命を感じましたね。

トロントまでも長いフライトだったが、それからまた小さな飛行機に乗って島へ。トランジット時に5時間くらい待たされてだいぶ疲れて現地着。

アンの島は素朴なところだった。観光地でもあるけど自然は残っていて、島の人たちはおっとりしていてとても親切だった。道に立っていると100m前くらいなのに車は徐行をはじめ渡るのだったらどうぞとばかりに譲ってくれようとする。
道の端で地図でも広げようものなら「どこに行くんだい?」とのぞき込んで案内してくれようとする。

あのグリーンゲイブルスを模したアンの家にも行ったのだが、そこには作者のモンゴメリーの姪御さん?だったかの館長がいて、一緒に写真をとってもらったっけ。





文面は 「プリンスエドワード島はとても良いところです。朝夕は半そでだと寒いくらいですが、そちらの酷暑はおもいやられるね。草むしりなんて絶対にしないようにしてね」 と母に向かって書いてあった。

そこで買った絵葉書はキャベンディッシュの郵便局から出すと、アンのスタンプを押してもらえると聞き、ワタシは東京の留守宅と親友A宅と実家に オットはその教授に手紙を書き、投函してきたのであった。
消印は2013年の7月10日だった。 オットが早い夏休みをとった年であろう。
島からまた本土に帰り、ムスコ夫婦と合流して色んな所を案内してもらって楽しい旅になったのを覚えている。

このハガキ、懐かしいなあ・・・ 実家にそのまま置いておいてもどこかに捨てられちゃうのがオチ。
東京の家に持ち帰ってテーブルに置いておいたら
「懐かしいなあ 俺も〇〇先生に書いたろう? おお、やっと連れてったかってすごく喜んでくれたんだよな」とオット。

赤毛のアンは小学生の時に読み、その後シリーズは中学くらいの時まで繰り返し読んだ、確かに影響を受けた本だったかもしれない。
風変りで想像好きな少女が成長し、結婚して子供を育て、 やがてストーリーは彼女の家族や周りの人々にうつっていく。
今すぐに読み返すつもりはないが、出てくる人々にはちょいと引きこもり傾向にあったり、毒親と共依存していたりと結構現代にも通じる普遍的な問題を抱えた人々も出てくる。
アン自身も、忙しいオットを支え、大人数の家族の世話をして時に喜び、時に疑問を持ちといった家族の問題にも直面する。
ワタクシ自身もなんだか夢中で過ごしちゃったけど、同じように喜び、同じように悩んだ時期もあったと思う。

あの島を訪れてから、もう7年もたってしまったのね。
両親はホームに入り、子供たちは結婚して孫までできた今、時代は変わったけど底に流れる自分の価値観は案外変わってなかったりするかもなあなどと思ってしまった。
我が家のギルバートもだいぶくたびれたオヤジになったが一番変わらず働いているのは彼かもしれない。

余分なことだが、この旅の数年後にNHKの朝ドラに「花子とアン」が放映された。オープニングの画面はこのグリーンゲイブルス周辺であった。
その後、偶然、北海道の余市のウイスキー醸造所に行ってすぐに「まっさん」が放映された。
朝ドラじゃないけど、「いだてん」が始まってすぐに 金毘羅山に行ったら、金毘羅歌舞伎に出演中のいだてんの主人公の勘九郎さんに遭遇した。
以来「NHKが着いてくる女」を名乗っている。
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訃報に思う

2019-03-18 17:21:02 | 記憶の箱
初陣の続きを書く予定だったけど変えて


この方が亡くなりましたね。

もちろん個人的なお知り合いでもないのだけど、一度見かけたことがあったので記録として記しておこうと思って。

確か震災の年のちょっと前だったろうか日比谷で宝塚の観劇予定の日、ちょっと時間が中途半端だったので、泰明小の前のオーバカナルというカフェの窓際席で時間をつぶしていた時、目の前を白髪をなびかせた背の高い人が歩いてきた。
ステッキはついていたが、腰が曲がっているわけじゃなくて堂々とした歩きっぷりだった。
オーラというわけじゃないが、ただならぬ「迫力」を感じた。
それが内田裕也さん。


そして三年ほど前。友達がいつも着ている服がちょっと変わっていて上品で可愛いので、行きつけのブティックを紹介してもらった。
ご夫婦二人で制作もしているプ〇スホニャララという小さなお店なんだけど、個性的な素敵な服を売っているお店だった。
そこで常連の友人と舞台友二人とワタシで四人でワイワイお互いの服を選んでいた時に、オーナーが外に向かって会釈して外に出て行った。
小柄で細身の人と親しそうに話していて、何やらその女性の声に聞き覚えがあった。
誰だったかなあと思っていたら、オーナーの奥様が「希林さんですよ。他にお客様がいると遠慮されて入ってらっしゃらないの」と言った。
へ~と思って振り向いたら確かに見覚えのある希林さんが、去っていくところだった。

この広い東京で偶然別々にご夫婦と遭遇したことになる。袖摺り合うのも他生の縁というから他生の縁の二乗である。
あと、希林さんが亡くなったあとにずいぶん彼女の特集などが放映されていたが、どうもあの家に夢の中で行ったような覚えがしてならない。

前世か後世でご縁があるかもなあ などと頭にひっかかっております。

なんにせよ、殆ど別居されていたが、長い年月夫婦でおられ、お互い深い絆があったんじゃないかなぁと推察される。
そして男ってやっぱり妻に先立たれると余生が短いんですね。
後を追うがごとく逝かれたロケンロール・・・

ご冥福をお祈りします。
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さくらにまつわる記憶 もう一つ

2018-04-01 22:50:33 | 記憶の箱
土曜日、ムスコの幼稚園の時の母友と朝ラインをしていた。ワタシのパート先のブラック会社でずっと正社員をしていたが、一昨年辞めた女性。
16年前にご主人を癌でなくし、母子家庭でがんばって子供たちを一人前にした女性である。
ご主人は the B型といった感じのマイペースだけど、面倒見がよくてダンディで子煩悩なよきパパだった。

ワタシは土曜日は断捨離デイで衣替えだの部屋の掃除だのする予定だったのだが、夕方からお互い時間があったので、久しぶりに会おうかって話になった。
場所は亡きパパと住んでいた駅のパパが好きだったスナック。
ワタシもオットも一緒に四人で飲んだこともあるし、ランチタイムに子供たちも連れて行ったこともある。

先についた彼女から
「もう、駅についたとたんに色々フラッシュバックで涙出るよ」とライン
「そんなところで泣くな! いま行くからさ」とワタシ

彼女の子供たちとの小学校パパ友でもあるマスターが
「久しぶりだねえ」と出迎えてくれた。

時間より前に開けてくれたので三人でしゃべっていた。

彼はいわゆる見える人。小さい時からいわゆる霊感が強くて、色々なものが見えたり聞こえたりする人らしい。









たまにはこんなカジュアルワイン飲みながらってのも気軽でいいもんですね。何食べても平均以上においしくて安い。

途中、犬の散歩の途中のムスメが

「Mちゃんママがいるならちょっと寄るね」と犬をスナックの脇につないて参加。

電車で帰宅途中のオットが

「Mちゃんママと一緒なら俺も寄るよ」と家にご飯があるよと言ったけど、参加。

ちょっと早めの酒盛りをしていたら、ドアが開いて、下がっているドアベルがチリンとなる気配がした。

「ん?」誰 と思ったが誰も入ってこない。風かもねとスルーしてまたも話していると

「明日パパの命日なんだ」と友人

「あ、そうだったよね、ホスピスに桜が満開だった」とワタシ

「お葬式の会場も桜があったよね。花びらが舞ってたの覚えてる」とムスメ

「Mちゃん一家とキャンプに行ったことあったなあ 福井の海岸だったな」とオット

「ワタシ、小学校入試の時に、。Mちゃんパパに車で送ってもらったんだよね」とムスメ

そうだった・・・ 11月1日の午前中に第一志望校、午後に滑り止めと、急げばギリギリ二校とも受けられるスケジュールとなったムスメ
「そんなことなら俺が送るよ」と運転の腕に覚えがあるパパが、都心の抜け道を駆使してムスメとワタシを送り届けてくれたのだった。

「受かった時も自分ちの子みたいに喜んでくれたよね」

「家の車買い替える時も、ついてきてくれたよね」

「そうそう、自分が買い替えるみたいにねえ、好きだったからね、車」

「自分の大きい車にみんな載せて色々遊びに連れてってくれたよね、なんだったっけ?あの車」と言うと

「エスティマ!」と料理を作りながらのマスターが加わる

図らずもパパの思い出を語る会になった飲み会。16年もたっていると泣き虫な彼女も話しながら涙ぐむほどじゃなく、ひたすら懐かしそうに話していた。

マスターが
「Kさん いるみたいだよ、ほらさっきのドア」と・・・w

「やだ~」などと笑っていたが、解散してうちに帰ってからの彼女からのライン

「局ちゃん、今日は〇ちゃん(ムスメ)も〇〇さん(オット)も一緒にパパの話をしてくれてありがとう。ホント楽しかった。
パパも一緒に飲みたかったんだね。途中でドアが開いたのは絶対パパです」

桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる! と日本の作家は言った。



ワタシは桜吹雪と一緒に死者の魂が地上に舞い降りてくる気がする。
J子さんを思い出したのも、パパを思い出したのも然り…

死者は私たちが思い出す度に死者の国で目覚める、と、ベルギーの劇作家も言った。

パパに「彼女はまっとうに真面目に生きてますよ。色々大変な時もあったけど、みんなに心配されて好かれてるから心配しないでね」と告げてあげよう。
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花にまつわる記憶

2018-03-26 20:44:29 | 記憶の箱


我が家の玄関先に、この季節になると咲き乱れる可憐な花たち
10年ほど前だっけか5,6個の球根を植えたら手入れもしないのに年々増えて、元々あったつつじの植え込みを凌駕するようになってしまった。

そしてこの花が咲くと

「おっ 何これ?なんていう花?」と聞くのはオット

5,6年前からこの花の量が増えて、気づくようになってから必ず聞く。
そして忘れてまた翌年も必ず聞く。

ちなみにレンギョウと雪柳もこの季節 毎年名前を聞く。

聞くはいいけど覚える気はないらしい。

仕事関連のことで休日に職場から連絡があれば、それに関する人の名前や関わっている数値なんかはこちらが驚くほど記憶しているというのに、「ムスカリ」という名前は覚えられないらしい。

それを指摘すると

「まあ覚える気のないもんは覚えられないな」とのこと
だったら聞くなって~の。


もう一つ、今度はワタシの花の記憶

先代犬Pちゃんのお散歩をし始めた頃に知り合ったJ子さん。
知り合った頃は60代前半だっただろうか? 小さくて細いおばさんだった。
自分の家では飼っていなかったが、犬が大好きとのことで犬の散歩の時間にいつも自分も散歩していた。
気さくで誰にでも話しかけて、犬を撫ぜまわして、時々気難しい柴犬なんかに手を噛まれたりもしていた。
すごく痩せてて髪もザンバラ、聞けばずいぶん前からの糖尿病で目も腎臓もそろそろヤバいとのこと。
しかし、毎日半ダースの発泡酒はやめられないしタバコも吸うと、あんまり感心はできない生活を送っていた。

ワタシも面と向かって「これからスーパーのお惣菜が半額になるから買ってくるのよ、発泡酒も特売だからまとめ買いするんだよ」と言われれば、「たまには飲まない日も作った方がいいんじゃない?」とは言ってみたが、
「そうだね~」とは言うもののまるで改める気がないので、そう親身になるほどの仲でもないし、それ以上は踏み込まなかった。
大部屋の俳優さんの旦那さんと二人暮らしで子供もいないし身よりも少なそうだった。

そして四年ほど前、
「あたしは肺がんになったのよ」と屈託もなく告げたJ子さん
新宿の大学病院で手術したけど、他の臓器にも転移して、何度か抗がん剤治療と放射線治療を重ねたらしいが、髪も抜けて帽子をかぶるようになり、細い身体ももっと細くなり、いつも決まった時間に必ずしていた散歩も時間が短くなり、そのうちぱたりと姿を見せなくなった。

J子さんがいなくなって桜の季節が三回目
犬と花が好きで、花の名前を聞くと得意気になんでも教えてくれたJ子さん

いつも同じ話しかしないし、そう共通の話題もなかったので、J子さんと歩く時は花の話をしていた。

どの花も好きと言っていたJ子さんだったけど、特別に
「可愛いねえ あたしはこういう咲き方するさくらが一番好きだよ」と言っていたのが


木の幹から咲くさくら

枝にはまだ堅そうな蕾がほころんでいないうちにいち早く咲くこの花が 健気で可愛いと言っていた。

犬散歩仲間の中にはなんとなくJ子さんを疎んじたり、バカにして話しかけられてもさっさと行ってしまう人たちもいた。
彼女が癌と知って「あたりまえよ あんな生活だもの」と切って捨てる人もいた。
J子さんに冷たくする人たちって他の人の悪口なんかも結構好きでマウンティングしがちという特徴が表れていた。
そういう意味ではJ子さんはリトマス試験紙みたいな人だったような気がする。

幹に咲く花を見ると

「可愛いねえ」というJ子さんの酒枯れ、タバコ枯れした声と、皺だらけだったけど、子供みたいな笑顔を思い出す。

いい季節を迎える頃に可憐なもので連想されて、良かったよねえJ子さん。





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ジミーズの時代

2017-07-02 22:45:04 | 記憶の箱
藤井四段が公式戦でついに敗れた夜。


↑敗れたあとのコメントも落ち着いてましたね。ホントにチュウボウなのかしらね。

こんなに将棋というゲーム(と言っていいのか?)が脚光を浴びたことは記憶にないなあ。

ワタシ自身、将棋の駒の動かしかたも知らないし、興味も持ったことはないんだけど、記憶をたどると、中学の頃、一部の男の子たちが熱心に昼休みごとに対戦していたことを思い出した。

昼休みごとに4,5人で集まって、マグネットになっている将棋盤を広げて教室の後ろで対戦して、それが妙にひっそりしながらも、そこだけ隔離された不思議な雰囲気が醸し出されていて・・・
それも、そのグループは いわゆるおとなしくて当時女の子の注目を浴びることもない地味ーな男の子たちの集まりで、そのグループは「何かやってる」のは認識されてはいたけど、気がある男の子にちょっかいを出しにいくような女子も誰もいないような、熱くもひっそりとした集団であったわけです。

その中で一人だけ、結構おちょうしものの男の子がいて、その中の勝負の実況を後ろの黒板に書きだし、順位をつけて竜王とか王将とか名前をつけてたけれど、悲しいかな、それが他の人たちの話にのぼることもなかった(記憶の片隅にはあるけど)

ところが、今になって振り返ると、彼らってお勉強はできたのね。
そのお調子ものはKの経済 王将だかになった常にトップ争いをしていた無口な♂は首都圏の国立の医学部、次に強かったのは北のほうの旧帝の理系の大学院にすすんだのよね。
頭がいいから将棋をするのか 将棋をしたから頭がよくなったのか・・・

そして彼らの共通項は卓球部だったこと。
その頃脚光を浴びていたのはバスケ部とか野球部で(ワタシの中学には派手そうな子が好みそうなサッカー部はなかった)体育館の片隅で地道に活動している男子卓球部はやはり女子たちの注目を浴びることはなかったのである。

しかし、この所、将棋も卓球も、なぜか注目を浴びている不思議。
あのジミーズたちは、かなり時代を先取り(しすぎ)してたのかもしれないなあと今日なんとなく思い出したのである。

ところで

↑この顔じゃ人気でるだろうね
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リアリズム

2017-01-25 22:46:38 | 記憶の箱


普段使いの箸置き(兼 フォークレスト)です。真ん中のはお嫁ちゃんのお母さんにいただいたもの。
これも素朴でかわいい。

そして両端の金属のものは、新潟のワイナリーに附属していた雑貨屋で買ったもの。
フランス直輸入ものとかでかなり凝っている。



ね、リアルでしょ?

ところがリアルと言えばホントにリアル 
この前これを洗ったあとにふきんで拭こうとふとひっくり返した時



あらやだ この子ったら♂だったのね。
ここまでリアルに表現するってさすがにおフランス(と言っていいのか)

もう20年ほど前、初めて我が家で飼い始めたのは♂のダックスであった。
それまで実家で飼ったのはいずれも♀だったので、♂犬のシンボルがああなってるってことを初めて見てほほお。
そして興奮した彼のナニがにょっきりするのを初めて見たムスメが(当時小学生)「ママ、ポロちゃんが怪我してるっ」と告げに来て、私もびっくらしたが、どうやらこれは怪我じゃないかも~と思って説明するのも四苦八苦したことを思い出す。

いつもに増して くだらぬ記事ですみません。



とは言え ポロちゃんが逝って丸二年たった。

君は不器用だったが純粋で愛すべき犬だったな。
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