今日は晴れて車で30分で行ける大庭城址に行きました。
大庭城は12世紀関東平氏の雄の大庭氏の拠点でした。
頼朝の挙兵たに対抗した平家方の大庭景親(國村準)が出陣して石橋山で圧勝しました。
安房に逃げた頼朝は再挙して、平家軍に勝ち大庭景親は捕まり処刑されました。
そして北条義時に反抗した和田義盛側に付いていた大庭一族は滅んだそうです。
15世紀になって関東管領上杉家に仕え江戸城を築造した太田道灌が大庭城を本格的に築造しました。
その後小田原北条早雲が大庭城を改修しその後、先週行った玉縄城を作りました。
大庭城址の地名は近いので知っていましたが、パソコンで初めてその歴史を知りました。
駐車場から登って上の城跡に出ると、広くて平たいなっていて木々が植わって良い散歩コースになっています。
引地川、小糸川に挟まれた、小高い大庭城址から周りの景色が広く見えます。
この高台は住むに良い場所だったのか縄文時代より弥生時代、平安時代に集落があったようです。
南門から尾根を下って下に降りて見ました。
降りた所に船地蔵があり、隣りは船地蔵公園です。
この舟地蔵には大庭城落城にまつわる悲しい伝説があります。
1512年北条早雲が大庭城を攻めた時城の周りは一面の沼で、なかなか攻め入ることが出来ず苦戦。
稲荷でボタ餅を売っていた老婆に、武将の一人がどうしたものかと尋ねたところ、
「南の堤を切ればたちまち水は干上がってしまう」と教えてくれました。
武将は、この秘密がもれることを恐れ、その場で老婆を切り捨ててしまいました。
やがて堤は切られ沼の水は引き、なんなく城を攻め落とすことができたそうです。
土地の人は老婆の死をあわれみ、舟にのった地蔵尊をたてて供養したということです。
今ある舟地蔵の左手に乗せられている宝珠は、土地の人々は左手の実は老婆が売っていたぼた餅であると言い伝えています。
大庭城はその後は北条早雲のものとなりましたが、北条氏の滅亡と共に大庭城は廃城となりました。
前の道を渡って大庭遊水地を歩き引地川親水公園まで歩きました。
お食い初めと言う赤ちゃんが「一生、食べ物に困らないように」という願いを込めた儀式があります。
次女の初めての赤ん坊が生れた時にお食い初めのセットを頼んで、わが家でする事になりました。
赤ちゃんが生まれてから100日後にお祝いで「100日祝い(ひゃくにちいわい)」と言うそうです。
100日目が1月30日で、偶然爺72歳と息子43歳の誕生日とも重なりました。
長女がこれに合わせて素敵んクッキーを焼いて持って来ました。
お食い初めのセットを初めて見ました。デパートの注文したそうです。
私の子供達の時は知らなかったですね。
年取った祖母の私が、形だけですが食べる順に孫の口に運びました。
食欲が良い孫は本当に口に運ばれた物を食べようとする勢いでパクパクと口を開けて。
元気に生まれて良かったなと思います。健康に大きくなる事を願います。
車で20分の大池公園(こども自然公園)は散歩を兼ねてたまに行きます。
午前娘から池に氷が張っているけど、ほんの少し梅も咲いているよのメールが来ました。
我々も午後暖かくなってから、公園に車を停めていつもとは違うコースを歩いてみました。
日影の小道にはまだ霜柱が、こんなに綺麗に残っていて感動です。
公園の上のグランドから下を見ると大池があり、暖かそうで近辺の人達や小さな子供の家族連れも沢山見えます。
この公園は相鉄線沿線一帯の開発の際に相模鉄道から寄付された23.6haの土地を基に隣接地を買収,整備したそうです。
公園の中心となっている約6600平方メートルの池は、江戸時代中期に灌漑用水池としてつくられたと伝えられ、
天明の大飢饉の際には、この池の水と魚が多くの人々の飢えと渇きを救ったそうです。
その当時「本宿の大池」として親しまれていたところから大池公園と呼ばれています。
下に降りると池の表面は午後の2時でも凍っていました。
子供達が落ちていた木を持って来て氷を割っていました。割れたのを見ると意外と氷が厚いのに驚きます。
公園の梅園にゆくと蕾は膨らんでいるけど、まだまだですね。ちょびっとピンクと白の木に花が見えました。
この近くに転居して13年、梅が毎年見れてうれしいです。
公園の中を歩いていると南相模国と北武蔵国の境の道「武相国境」の石碑がありました。昔の国境を表す道しるべです。
国境の尾根道が現戸塚カントリーの入り口付近まで続いており、途中には都(鎌倉)を一望できる都塚があったとのこと。
南は相州鎌倉郡岡津村 北は武州都筑郡二俣川村」だそうです。
今もある地名の岡津(泉区)と二俣川(旭区)は近い距離ですが、その間に尾根があり国境があったのですね。
今は区が違いますが、同じ横浜市です。
律令の時代(8~12世紀)から、横浜市の戸塚区、泉区、瀬谷区辺りは相模国の鎌倉郡で,1939年に横浜市に編入されました。
そして1949年に大船が鎌倉市に編入されて鎌倉郡が無くなりました。
この石碑のおかげで、パソコンで住んでいる所の歴史や変遷を知り楽しかったです。
ブロッコリーの中心の大きな1房を昨年取ってお正月に食べ、
1月中旬に行くと結構大きなブロッコリーが、葉に隠れるように横にたくさん実のっていました。
まだその横にも幾つかあり、大きく実ったのから順番に取っています。
2本の苗から寒いのにこんなにブロッコリーの収穫があるとは。驚きです。
畑は手がかかるのでめんどくさいと思うけど、収穫の喜びがあります。うれしいね。
絹さやが大きくなり昨年霜よけのカバーを掛けたら、今は寒さに負けず元気で、枯れずにホットしてます。
今日収穫
スポンジボブと言う孫が喜ぶキャラクターです。
本当の100円のスポンジに絵を描いてつくったようです。楽しいね。
今日は天気が良く暖かくなるので、気になっていた玉縄城址へ行ってみました。
大船駅そばのマーケットに車を停めて、地図を片手に歩きました。
結構きつい登りの道を登って、途中パン屋でカレーパン2種類買ってさらに上に登りました。
玉縄城跡と七曲坂の標識があり、その道に沿ってあるきました。
玉縄城大手門跡と地図に在りましたが、そこは清泉女学院の敷地の中らしく門があり入れませんでした。
さらに奥に行くと、ここの町の植木1号市民緑地の看板んがあり、そこを上に登ってみました。
玉縄城の太鼓櫓としてまた狼煙台としても使われた遺構らしく、少し盛り上がった小さな緑地でした。
この1号緑地看板に玉縄城に付いて書いてありました。
『玉縄城は北条早雲によって、三浦半島の相模国の三浦氏を攻略するための拠点として築かれた城です。
城主は早雲の次男の氏時をはじめ代々小田原北条氏の近親者が務めました(玉縄北条氏と呼ばれています)。
上杉謙信に「この城当国無双の名城なり」といわしめるほどの堅城で、約80年にわたって一度も落ちたことがなかったそうです。
しかし1590年の豊臣秀吉の小田原攻めの際に、小田原城主である北条氏勝が玉縄城に落ち延び籠城していましたが、
徳川家康の説得に折れ無血開城となり、そして1619年に廃城になったそうです。』
玉縄城想像図を載せました。
公園の下に戻ると降りる道があり下りました。これが七曲坂だそうです。
七曲坂は玉縄城の壁面沿いの坂を登り太鼓櫓址、焔硝蔵址を経て大手門(現在の清泉女学院裏門)にと向かう道を言うそうです。
地図を片手に急坂を歩いて玉縄城の城の事と知り楽しかったです。
歴史で習った豊臣秀吉の小田原攻めがこんなに身近にあったとは。
途中のバス停の名前が陣屋坂で城廻中村コースと書いてあり、名前が良いですね。
朝の道草散歩の3人で戸塚宿七福神巡りをする事になりました。
最近歩いていないので私は付いて行けるかなと心配でした。
青い空の下、まずはバスで大阪下で降りて①福禄寿のある新縁寺へ。
何かの企画で歩いている人に渡す開運招福のお札を、七福神巡りの我々にも下さいました。ピンクの寅です。
時宗総本山の清浄光寺(遊行寺)の4代目の他阿呑海が1319年に開山したお寺です。
立派なお寺の写真ばかり撮り、福禄寿を撮り忘れました。
次に10分歩いて②布袋尊のある海蔵寺へ行きました。
1363年に鎌倉の円覚寺の末寺として開かれた臨済宗のお寺です。
海蔵寺 高松寺
その次に歩いて③大黒天のある澗岳山高松寺に着きました。
本寺は1593年鎌倉末期の武将の高松三郎頼重が開基とした臨済宗円覚寺派の寺院。山号は澗岳山。
さらに歩いて④毘沙門天のある清源院へ行きました。入口に葵の紋が並んでます。
清源院尼は俗名を於満といい徳川家康の側室で家康の死後、小石川伝通院白誉で出家して清源院を創建したといいます。
家康が贈った阿弥陀如来像が清源寺の本尊です。
昔から伝わっている毘沙門天は見れませんでしたが、外に新しい毘沙門天がありました。
偶然入った店の1000円のランチの刺身がとても美味しく、午後に頑張れました。ご飯は四分の一にお願いして。
バスで➄毘沙門天のある宝蔵院へ行きました。
阿闍梨朝興法印が1567年に創建のお寺です。
東峯山金剛寺宝蔵院と改号、幾度かの移転を経て昭和18年に今の地に移転したそうです。
お寺の中に入れて、さらに前の階段を上がって奥に並ぶ仏像達も見れました。
その中に毘沙門天像がありました。とても強い風の像です。
見終わった所に甘酒があり頂きました。
毘沙門天 古い像達
次に歩いて⑥弁財天のある妙秀寺に行きました。
日蓮宗の寺で1377年に池上本門寺を創建した池上宗仲の妻妙宗禅尼を開基とするお寺です。
弁財天
ここも中に入って古い弁財天を見せていただきました。外には新しい可愛弁財天がありました。
次にJR東海道の線路を渡って⑦恵比寿様のある雲林寺
北条政子が源頼朝の供養の為に開基したと伝わる曹洞宗のお寺です。
来迎寺
最後に⑧寿老人のある来迎時に着きました。
街山八幡社から戸塚新道の下のトンネルを通って北側に出たところに来迎寺があります。
呑龍上人が1620年開山となり神明谷(配郷)に創建したそうです。
この街山八幡社の前の横浜新道上に登る道を上がって、箱根マラソンを拍手で応援しました。
青い空の中、戸塚駅から2か所バスを利用して15000歩いて全部のお寺に行けました。
最後のお寺、来迎寺の前のバス停から3人ともバスに乗り帰りました。
コロナの為に各自でお寺の印を押すのは取りやめで,妙秀寺の1箇所だけで完成したのがあり、
寅の印を押してもらい買いました。
戸塚宿七福神は平成になってから始まったようで、新しく作った七福神様が外で飾られています。
しかしどのお寺も古い時代からある立派なお寺で、御寺巡りの楽しみもありました。
七福神なのに、弟から8箇所巡っているよと言われてビックリです。
いつの間にか8箇所行っていました。古くから寺にある毘沙門天が2個入っています。
江戸時代から続く鎌倉七福神は、やはり鶴が丘八幡と江の島神社の弁財天が2個入り8箇所巡りになています。
これに見習ったのか?鎌倉の周りには8箇所を巡る七福神巡りが多いようです。
戸塚宿七福神 名古屋七福神
隣のは名古屋の七福神巡りしたものです。最後に寅の土鈴がもらえたそうです。良いね。
来年は日にちを掛けて江戸時代から続く鎌倉の七福神を巡ってみたいなと思っています。
そして、今年は明るい年に成るように願います。
病院へ検査の結果を聞きに行く日に雪が降り始めました。
車で行くと危ないので、久々にバスに乗って地下鉄に乗って病院まで行きました。
昨年12月に前日の朝、昼、晩を抜いて検査に行ったのに胃の中は残存がまだ残っていました。
取った細胞も良い結果で、また来年検査しましょうでホットしました。
外を見るとあっという間に雪景色になっていました。
帰り道は凍っていて、持って行った傘を杖にして3本足で帰りました。
家の傍の緑道は素敵に雪がライトアップです。
東京の孫から 送られてきた雪ダルマさん。東京の方が雪が多かったようです。
翌日は雪景色と言うより、雪が凍っていました。
庭の大根を掘ると土の上の出た白い部分と葉が凍っていました。
葉っぱが凍るなんてビックリです。
検査結果が良かったので凍った雪景色が楽しめました。
2000年が来たと思っていたら、もう2022年です。月日の経つのが早すぎます。
少しづつ目に留まった興味ある事を載せて行こうと思います。お暇な時の見ていただければ嬉しいです。
ブログの右の上で検索すると、京都なら京都で書いた事が年代順に並んで見れるので私にはすぐ見返えせてうれしいです。
私の子供の頃、母方の実家は沢山の従姉達がいて、小さい私は遊んでもらった楽しい思い出があります。
自分の子供達の時はあまり従兄達と一緒に過ごす事が少なかったような気がして残念です。
今孫達は関東圏に住み近いので春休み等に集まって色々遊んでいます。
今回はゲームの中に百人一首が出てきました。
4年生がいる姉弟は、弟もかなり覚えていてこちらがビックリします。
だからその家族が百人一首のほとんどを取りました。
私も子供達も30年前にはやっていたのに、30年のブランクは大きく、
毎日このゲームしている家族にはかないません。
もう一つ新しい事は折紙でキューブを折る事です。
折り紙が得意な孫がいて、パソコンでこれを見つけてお正月に皆で折りました。
1箱折るのに四分の一の小さい折り紙で、6種類の色で8箱分おるので、全部で48枚折ります。
必ず8箱は6色の同じ色の組み合わせで箱を作ります。
出来た8箱をパソコンで見て、箱同士をセロテープで貼り合わせると折紙のキューブができます。
どういう構造でこの8箱がキューブのように動くか後で考えよう。
孫の一人が家に帰って次の日の朝には、もう1個作ったとメールが来たので、
私も四分の一の小さな折り紙を買って折り始めました。どうなるかな?