転勤族で色々な場所で育った私にとっての思い出の田舎はどこかな?
やはり小さい時の良く通った祖父母のいる京都と田原です。
この2年の間、両親の法事で京都に6度も行きました。
法事のついでに京都で一泊して京都巡りもしています。
その度に京都の路地を歩くようにしています。
京都の路地に一歩入るとまだまだ2階建ての古い家屋が残ってなつかしい匂いがします。
小学生の頃、京都の下賀茂神社傍の祖母の家で夏休み1週間ぐらい何度か姉弟で過ごしました。
カナリアの鳥の餌を取りに傍の下賀茂神社に毎日通って下草を取ったのが良い思い出します。
60歳を超えて、また京都に何度も通う事になりうれしいです。
私の母の実家の田原、でも母が9歳の時に亡くなり、それから田原に行く事は少ししかありません。
小さい時に行くと、いつもたくさんのいとこ達がいて一緒に食事をした楽しい記憶が残ってます。
この楽しい記憶が家族とはこうあると良いなと大人になって思いました。
今回法事で夏の愛知県に再度行きました。
亡くなった母の従姉の家に泊まり、他の従姉達にも会い話が聞けました。
次の日は娘夫婦ともう一泊し分かれて、次の朝、渥美線で終点の三河田原駅の終点で降りました。
田原駅の外に出て駅を見るとあまりの洒落た建物でびっくりしました。安藤忠雄さん建築だそうです。
渥美線
予定より早く着いたので、田原の町を一人で歩いて母の実家に行って見ようと思って地図を見ていました。
親切な方から何処へ行くのかと聞かれて町名を言うと右側の道をを真っすぐと教えてくれました。
地図を見て左側を行けば近いかなと見当をつけていたのに、全く反対の右側へ真っすぐと言われました。
駅が円形で自分の位置の把握が違っていました。従姉達も最初同じように思ったと言ってました。
田原の町も大分変ったようで、町の中心街に会った実家の家の周辺はお店屋さんが無くなり住宅地になっていました。
従兄の家も店は違う所にあり、実家は店屋でなくて普通の家になっていてびっくりでした。
そして従兄達の食事会にも参加して、皆いつの間にか60歳半ばから70代80代になっていました。
みんなやさしく色々な従兄達やその伴侶の人達と話せて良い一時でした。
本家の兄弟たちは年に数回集まって食事会等をやっているようです。
子供や孫まで入るとすごい人数になるようです。
今回は年上の会みたいで、同世代の他の従兄たち2人と私の3人が特別参加です。良かったです。
記憶にある限り初めて祖父母の墓にも参りました。
10世代以上の小さな墓が一緒に祀られていて、素敵なお墓でした。
毎年お盆前後に子供3人とその家族が集まります。
3家族ともお盆休みの無い仕事場で、1日だけでも皆集まって食事とお酒を飲みながらゆっくり話す形です。
この集まりの一番は、夏休みの孫達の喜ぶ所へです。
お昼を食べた後地下鉄で湘南台まで行って、いすゞの大型バスに乗って、いすゞプラザに行きました。
いすゞプラザはいすゞ自動車創立80周年記念事業の一環として昨年作られました。
子供も大人もトラックやバスの実車の運転席に座る事ができたり、
車を好きな色を塗り上げたり等の楽しい事いっぱいです。
いすゞのジオラマはドンドン違う車が走り出して来るので、みあきません。
パソコンで調べると新旧さまざまないすゞ車が走っているそうです。
その中にコンセプトカーがいたり、懐かしの名場面が見られたりするので、動き出すたびに新しい発見がありました。
救急車や消防車が走ると孫達が目を奪われる光景もありました。病院の前で止まりましたよ。
自動車の他に唯一走っている電車は湘南台まで来ている相鉄線です。喫茶店もありゆっくりできました。
帰りは地下鉄でなくて相鉄線に乗って帰りました。色々な電車に乗るのも孫たちの楽しみのようです。
次の日は子供たちは庭の畑でミニトマトやナスやオクラの収穫もしました。
この日の為にジジババは収穫するの止めていましたよ。
収穫した大きなナスで、ナスのはさみ揚げして甘辛く煮るのと、ナスと肉の料理がの2品が夕食用に出来ました。
子供の家にも行きチョークでお絵描きや、色々なシャボン玉をしました。
孫たちは大人と違う発想法に驚く事多しでジジババの二人の生活に大きな刺激を与えてくれます。
夜は花火も庭で少しやりました。孫たちと一緒に花火するの楽しい。
ジジはロウソクをちゃんと用意していて花火の火つけ役をして喜んでいました。
トンボも飛んで網戸に泊まりました。
相澤農場へアイスクリームを食べに行きました。
沢山いる牛も見れ、その乳で作ってアイスクリームは格別かな?
持ち寄った食事も少し載せます。
名古屋39度のニュースを見て、一番暑い時に愛知県に行くなと思って横浜を出発しました。
しかしその朝の横浜は不思議なぐらいに涼しかったです。
しかし新幹線に乗り豊橋の駅に降りると、暑い日差しにさんさんと当たりました。
その後、妹の車に乗ったので涼しくこの日の暑さは終わりました。
京都から来た坊さんのお経を聞いて、その後兄弟等で会食しながら色々話しが出て楽しい一時でした。
その次の日に八丁味噌を見学に行きました。
米麹や麦麹を用いずに、大豆のすべてを麹にした豆麹で作られる豆味噌のうち、
岡崎八帖町にて生産されてきたものを指すそうです。
直径と高さ2mの桶にそれぞれ約6トンの味噌を仕込み木蓋の上に石を手積みして二夏二冬熟成させるそうです。
「カクキュー」と「まるや」の二つの八丁味噌の店屋が旧東海道を挟んであります。
私はカクキューの店を見学しました。朝ドラマの純情きらりの舞台にもなったそうです。
今桶を作る職人が少なくなっていて、それと桶を縛る竹も鉄製になって来た、等の色々な説明を受けました。
この後は八丁味噌の味噌汁を味わって解散です。
この味噌屋さんの中の店で麹と岡崎まぜめんを食べました。
座った店の窓の向こうに樽が見えて良かったです。味噌プリンも食べました。
この食事は「岡崎まぜめん」という新メニューらしいです。
帰りに娘から岡崎の 石窯パン工房POUSSE(プース)のパン屋さんに寄ってみたらと言われて、車で寄ってもらいました。
弟のお嫁さんも利用しているようで、この店のバッグを持っていて、バッグがあると割引があるようです。
暑く無ければ外で喫茶もできるようになっている可愛いお店でした。
パンの写真がない。残念。
岡崎から特急に乗ってぎりぎりセーフで豊橋に止る2時間に1本しかないひかりに乗れました。
竜飛崎の次に40分バスに乗って今別町袰(ほろづき)海岸の高野崎に行きました。
岬の端に可愛い紅白の高野崎灯台がありました。
すごく晴れた日には西に竜飛岬、東に下北半島、正面に北海道が見えるそうです。雲の合間に北海道が少し見え隠れしてます。
岬から下に降りると赤い小さな橋が2つ架かっていて、岩場の先まで行くことができました。
結構下まで降りるので景色だけで帰られる人もいました。
我々は二人とも折り畳みの杖があったので、先端までなんなく行けて広い海の自然を楽しみました。
タモリさんがいたらこの荒波で削られた柱状節理の岩石に何か言いそうですね。
ツアーの旅も、こうやって自分で歩く機会があると思い出に残る旅になります。
金木でお昼ご飯を食べて傍の太宰治の実家の斜陽館の見学と三味線の演奏を聞きました。
何故か? ツアーにお昼ご飯が2回付いていなくて、自分で注文するか、勝手にどこかで食事を取るようになっています。
食事を探すのが大変だろうと思うのかみなさんこの炊き込みご飯を頼んで一緒に食べました。
次に斜陽館を見学しました。
太宰治が生まれる2年前の明治40年(1907)、父・津島源右衛門によって建てられた豪邸は和洋折衷・入母屋造りの建物で、
米蔵にいたるまで青森ひばが使用され、どっしりした重厚感が特徴となっています。国の重要文化財建造物に指定されてます。
襖が開くと広い部屋になる日本の家が好きです。ここで生活するのは大変だけどこの広い空間が魅力です。
子供の頃はこんなトイレだったような気がします。
膝の痛い今はとても使えないトイレです。
津軽三味線は津軽地方の民謡の伴奏でしたが、現代は独奏を指して「津軽三味線」と呼ぶそうです。
撥を叩きつけるように弾く打楽器的奏法と、テンポが速く音数が多い楽曲に特徴があります。
驚いた事に三味線の皮は犬の皮だそうです。秋田犬の雌が最高級だそうです。沖縄はネコかな。
生演奏は引き込まれました。引いている方の迫力がすごくて。
次に20分バスに乗って五所川原の立佞武多の館を見ました。
この立佞武多は明治から大正に巨大化されたが、電線の市街化により運航困難になり幻となったが、
1993年に市内のある家庭の先祖の遺品の整理で立佞武多の設計図の一部が発見され、
立佞武多を復活させようとするボランティア運動が始まり1996年に80ねんぶりに立佞武多が復活しました。
五所川原市が立佞武多の支援を決め、夏祭りで運行され、1年に一基ずつ新作が制作され現在に続いているそうです。
後ろからも撮りましたが、大きすぎて載せきれません。他に見つけた佞武多と演奏。
地元の方々の演奏があり、最後は我々も一緒になって手や楽器をたたいたりして盛り上がりました。
130分乗って盛岡駅で新幹線に乗りました。
盛りだくさんの楽しいツアーでした。
津軽半島の最先端の龍飛崎近くの高台100mに湧く温泉,「ホテル竜飛」に泊まりました。
この辺りで、ここが唯一の温泉で、他に建物は灯台と展望台だけが見える広々した本州最北端の景色です。
アイヌ語で「突き出た地」の意味に当て字の竜飛の字をあてたそうです。
ホテル部屋から下を見ると広い海と沢山の紫陽花が咲いています。
ホテルの表側を歩いてみると青い花が咲いています。名前は分からないけど、きれいなブルーの素敵な花です。
次の日の朝そばに見える竜飛崎の突端に立つ白亜円形の大型灯台の竜飛崎灯台までバスで行きました。
竜飛崎の海は私の思っていたとおりの深いブルーでした。
さらに海からの本当に飛ばされそうな強い風に吹かれて、荒涼とした最果ての気分になりました。
少し下へ行くと感じが変わってきれいなブルーの海と花がたくさん咲いていました。
上に戻ってあと少しの時間に階段国道339号を見に行きました。
竜飛岬展望台と竜飛漁港を結ぶ部分は、車が通れない階段になっていて階段国道(酷道)と言われています。
紫陽花が咲いた道で、下の漁港まで降りて見たかったです。ツアーの旅。残念。
バスを降りるときにもらったホタテが美味しかったので4個買いました。
家に帰って見ると2018年のモンドセレクション金賞と書いていました。
本州北の果てで買った塩ホタテには金賞の印刷があるのに、アマゾンの売買のページの帆立には金賞のマークがまだ付いてない古い映像です。
パソコンはなんでも早いはずなのに。アマゾンに載せる事は人の手なのですね。
傍の山の中に青函トンネの本州方基地竜飛と表示がありますが見えました。
それと石川さゆりさんの津軽海峡冬景色の石碑と歌が流れていました。
12湖の地名は1704年の能代地震で崩山(くずれやま、標高939.9m)崩壊でせき止められた川から作られたそうです。
白神山地の一角の広大なブナの森に点在する中に33の湖や沼があります。大崩から見ると12湖が見えるのでそうです。
近隣にはブナの林が密集し、その水分の含有量が多いため、自然の造った水桶のようで、
自然の浄化装置を持つと言われるほどの水質の良い水が各所で湧き出しているそうです。
鶏頭場の池バスを降りて青池まで緑の多いアップダウン多い細道を歩き、少し上ると青池がありました。
青池は他の湖とは全く違う美しい青色の湖です。透明度も高くて湖底がみえています。
青池からさらに上ってブナ林に行きました。
ブナ林は日本の自然が、自分の力で作り上げた森で原生林と言われます。
そして炭酸ガスを吸収して酸素を生産し空気をきれいにして、地球の温暖化をふせぐ力も持っています。
騒音を吸収したり、土砂崩れをふせぐ力もあり、人工のダムよりも、ずっとたくさんの水を蓄えるので緑のダムと言われています。
日本では古来の姿を保っている原生林は本当に数えるほどしか存在しくなっています。ここは貴重な地域で世界遺産に登録されました。
あっという間に出発時間です。もう少しこの素敵なブナ林で過ごしたかったですが。
次は不老不死の湯です。1時間半ぐらいの時間でお昼ご飯を食べて温泉です。
ここでは深浦名物のマグロステーキ丼を食べました。
マグロが刺身用、半身焼き用、両面焼き用とあり、それぞれにタレ、ご飯が違ったものが並んでいました。
マグロを刺身で左端のたれで左のご飯を食べます。
次は半身だけ自分で焼いて真ん中のたれをつけてご飯に乗せて食べました。最後は両面焼いてです。
その後タオルと浴衣を借りて温泉に入りました。
一度内湯で体をきれいに洗ってから外の露天風呂に行きます。
その時、浴衣だとすぐ脱ぎ気が出来て便利でした。浴衣借りて良かったです。
風呂の写真2枚はパソコンからお借りしました。右側の囲いのある方が女湯です。
露天風呂は海も見え、夏休みで子供たちもいて楽しかったです。
温泉からバスで10分で円覚寺と大岩海岸に着きました。
私の住んでいる横浜傍の北鎌倉にある円覚寺と同じ名前にビックリです。
江戸時代に深浦湊は津軽藩の四浦の一つとなり北前船交易の寄港地となり栄ました。
境内に「竜灯杉」と呼ばれる巨木があり日本海を航行する船の目印になったそうです。
難破する船の絶えない日本海で嵐の時は船頭水主たちが髷を切り一心に念ずれば梢から光を灯し海難から救ったというそうです。
円覚寺の傍の海岸線に沿って歩き海の傍の大岩海岸が見えました。
赤い神社の傍から入り、海岸線沿いに大きな岩まで歩きます。
そして岩の下から、上に空が見える筒状の真っ暗な階段を上がります。そして少し上がると四方海で解放されるような広い景色が広がっていました。
真っ白な花とピンクの可愛らしい花がいっぱい咲いていました。。
下りは石の階段が滑りそうで大変でした。
おりたたみの杖が足の悪い私にはとても役にたち、安心して降りれました。持って来て良かった。
次に90分バスに乗って十三湖でトイレ休憩をしてシジミを食べました。
この湖は周囲約30kmで水深は最大3.0mに過ぎませんが、南方より岩木川が流入し、こ川が日本海に向かう途中砂州によって塞き止められ汽水湖となっているそうです。
ここは日本有数のシジミの産地です。
十三湖を見ながら昆布が付いたシジミは暖かくて美味しかったです。後ろに見える山は岩木山。
竜飛岬を目指してあと60分のバスでホテルの到着です。実だくさんの行程でした。
1日目旅館へ行く前に男鹿半島の北西端に位置し日本海に突出する岬の入道崎に行きました。
海岸段丘が日本海の荒波の波食によって築かれ、落差30mもある荒々しい海岸を見えました。
そこに目に飛び込んできたのが男鹿半島北端に位置するの白黒2色の入道崎灯台です。
この場所が北緯40度線上にあり、それを印した安山岩ののモニュメントが点々と40度線上に並んでいました。
東経135度上の明石は知っていましたが、北緯40度の入道崎灯台は初めて知りました。
灯台を見た後に1日目の宿の男鹿観光ホテルに着きました。
夕食に名物の石焼料理の仕方を見せるパフォーマンスがあり楽しい夕食になりました。
石で泡立
男鹿の漁師たちは、獲った魚や海藻、ネギなどを水を張った桶に入れ、
そこに船内の火道具(火鉢)の炭火で真っ赤になるまで熱した小石を次々に放り込んで,
一気に煮込み、味噌を加えて調味してお昼に食べていたそうです。
パフォーマンスの後に配られた味噌汁は魚がたくさん入っていてとても美味しかったです
2日目のバス席が左側の一番前の席で、ビックリしました。
さらにこの日のバスは北側を目指して走るので、海側の良い席でさらにラッキーな席でした。
2日目は6時半に朝食で五能線のあきた白神駅を目指して8時出発しました。
90分間バスに乗ってあきた白神駅へ、とっても可愛らしい駅です。電車が来ました。
次の駅が岩館駅、そして次の十二湖駅で20分ぐらいの乗って降ります。
あまりに短い時間にちょっと残念です。その少しの時間晴れて海が綺麗に見えたので良かったです。
乗った区間は海の傍を電車が走って、良い景色の所は徐行運転をしてくれました。
海の色々な景色を一杯見て十二湖駅に着きました。
十二湖駅は世界遺産の白神山地の秋田側玄関口です。
またバスで広大なブナ林に大小さまざまな湖沼が広がる十二湖まで20分乗ります。
五能線に乗れるというツアーの旅を初めて申し込みました。
東京駅7時56分発のはやぶさに乗り北上駅で降りて、男鹿半島の寒風山まで150分バスに乗ります。
42人全員参加のツアーで、バスは満席でした。西仙北SAでトイレ休憩、青色の空です。
やっとバスが寒風山を登り始めると白い花がたくさん見えました。
山ユリの群生地だそうです。丁度花咲く良い時に来たと思います。
西仙北
男鹿・南秋地区のどこからも見える寒風山の頂上は海をバックに360度の風景が見え素敵でした。
1804年には山頂に八尺の九輪の石塔があり菅江真澄が絵を描いていますが、1810年の男鹿大地震によって崩壊しています。
菅江真澄はこの地震を滝川村で経験し、大地震前後の詳細な状況を『牡鹿の寒かぜ』に記録に残しています。
こんな穏やかな丘陵地帯の噴火に驚きです。下の右端の写真は寒風山頂上傍のカルデラです。
それと菅江真澄について、江戸後期の旅行家、博物学者で、旅先の各地の土地の民族習慣、風土、宗教から自作の詩歌まで数多くの記録を残しています。
たまたま私の母の実家のある三河国渥美郡の出身だった為、興味を持ち調べました。私も旅は好きです。
芝生に覆われた山肌と、近隣に障害物がないことから、パラグライダーが盛んに行われています。
丁度パラグライダーが仲間の居る所に戻って来て着陸しました。
真山神社
次に秋田杉がうっそうと生い茂る真山(しんざん)の山腹に鎮座している真山神社に行きました。
ツアーで行くと住職さんの案内がありました。さすがツアーの旅ですね。
なまはげゆかりの地で毎年2月に「なまはげ柴灯まつり」があります。
飾っているなまはげの顔が怖そうにこちらを見ています。
大きな「丸木舟」は何かパワーがありそうな力を感じました。
木々にに覆われた階段を登ると五社殿があり色々まつられていました。
真山神社の隣接した光飯寺跡に慈覚大師が植えたと伝えられている榧(かや)の木があります。
樹齢約1100年、根元の周囲4m、根の広がり北へ28m、樹高約7mある見事な古木です。
下に降りて「男鹿真山伝承館(なまはげ館)」に入りました。
なまはげは毎年大晦日の晩に男鹿半島のほぼ全域で行われています。
伝承館では真山地区のなまはげ習俗を体験できました。
今お正月のなまはげの風習をやっている所は半分以下になっているそうです。
男鹿半島の人口も減り、訪問先である子供がいる世帯が少子化により減少しています。寂しい気がしますが。
この日に泊まった男鹿観光ホテルのすぐそばの男鹿交流会館 五風でなまはげ太鼓「恩荷(おんが)」の演奏を聞きました。
結成して10何年の若い人たちの太鼓で、迫力がありました。
夕食を食べて温泉に入って、あわてて近くの会場まで行き演奏を聞きました。
すごく迫力のある演奏でした。その演奏の人達のなまはげの人形を買って帰りました。
恩荷 千秋工房上右の写真で彫っている人の作品