昨年3人の末っ子が卒業して別に暮らしだしてからは
一人一緒に住む子供も殆どお出かけで、週末は夫婦二人の食事が普通になっています。
今日は下の二人の子供に誘われて、
11月11日にオープンしたテラスモール湘南と言う所に行きました。
辻堂の北口駅前の工場跡地跡地(4.7ha)再開発の中心の位置する施設です。
281店舗の大型商業施です。
辻堂駅まで13分、駅前直結のショッピングセンターで、
JRで9分の横浜駅と同じぐらい便利に買い物に行ける場所ができました。
まだオープンからまもないからか、駅そばの為か沢山の人で混んでいました。
食事の場所は何処もすごい行列ができていたのであきらめて、
携帯で探して、混んでいない駅反対側のおすし屋さんに入りました。
あまり期待しないで入ったすし屋さんでしたが、美味しくてゆっくり出来ました。
写し忘れましたが最初に茶碗蒸しが出てきました。
それからサラダ、それを食べた後に、
美味しいお鮨と味噌汁が、
終わってから黒蜜のクズきりがランチセットでした。
鮨tro気仙と言うお店で、帰って調べたら茅ヶ崎の美味しいお店で乗っていました。
昨年夫が60歳の定年を迎えて年金生活になってからは、
たまに子供と出かけるとがあると、食事や喫茶をおごってもらえます。
ボーナス前なのにありがとう。
今までは全部我々が払っていたのにと思う一方で、
ご馳走してもらう事、そう言う事をしてくれる事がうれしいです。
2週間前に孫の顔に、普通の日に上の子供のいる千葉まで行きました。
息子は会社でいませんでしたが、素敵なお昼が用意してありました。
ナンの出るようなカレー屋さんみたいにカレー3種類。
カレー好きな息子が休日に色々なカレーをスープから取って作ってありました。
ご飯やその他はお嫁さんが作っていてくれました。
このほかにもパン類やお菓子が焼いてありました。
二ヵ月会わない間に孫は首は据わり、目もしっかり見て分かるようで、
最初は我々を見続けて、抱かれるとお母さんの方ばかり見続けて、最後は泣き出して。
楽しい時をすごしました。
晴れていたので急に山下公園から元町まで散歩しました。
本当に久々に山下公園を歩きました。
この公園から見たみなとみらいの新しい町です。
鳥も仲良く停まっています。
豪華客船が止まっています。
ここへ来ると、横浜は港町と思います。
のんびりして良いですね。
横浜中華街まで散歩です。
中華街の脇道に入った山東省の家庭料理を出している小さなお店山東へ。
水餃子が評判と聞いて入りました。
水餃子は皮が厚めでモチモチとして美味しくて、中にはニラと肉ががぎっしり詰っていました。
それから久々に元町まで歩きました。
ショッピングの後ちょっと入った所に素敵な喫茶店がありました。
汐汲坂ガーデンと言うお店でした。
先に入り口のレジで注文と支払をして、
そこから入ると一気にグリーンに囲まれた明るいテラスにでます。
でもビルの中だから上を見ると
とてもゆっくりできる喫茶店でした。黒いラブらドールが店先で寝ていました。
バラは友人から送られてきた庭のバラの写真です。
バラの名前はザンブラ93と言うそうです。
島原城
キリシタン大名の有馬晴信所領でキリスト教信仰も盛んでしたが、有馬氏の転封で、
次の松倉勝家がこの島原城を新築の為に領民から年貢を過重に取り立てや厳しいキリシタン弾圧を行っていました。
肥後天草でも同じような圧政とキリシタン弾圧があり、当時16歳の天草四郎を戴いた島原の乱が起きました。
この乱の終結後、島原城主の松倉勝家は圧政の責任を問われ切腹でなく斬首となり、松倉家は断絶となったそうです。
この城は籠城なので、橋を崩せば、本の丸だけでも十分持ちこたえられる作りになっているそうです。
城の中に駐車して、この1本の通路を通って傍の武家屋敷を見に行きました。
島原城の傍の水路を流れる清流武家屋敷通りを見学
島原市は雲仙だけからの伏流水で島市内50箇所以上で湧き出ています。古くから「水の都」と言われています。
島原城の築城のとき、外郭の西に接して扶持取70石以下の武士たちの住宅団地が建設されました。
戦いのときには鉄砲を主力とする徒士(歩兵)部隊の住居で、鉄砲町とも呼ばれています。
街路の中央の水路は豊かな湧水を引いたもので、生活用水として大切に守られてきました。
一屋敷は三畝(90坪・約300平方メートル)、住居は25坪ほどの藁葺き、
屋敷内には藩命で梅・柿・蜜柑類・枇杷などの果樹を植えさせ、四季の果物は自給できるようになっていました。
この壁の上に何故か石が積んであって面白いと思いました。
保存されている下の丁の武家屋敷は長さ406.8メートル、幅長5.6メートルの町並みです。
島原からの熊本への近道は30分の乗船で行けるフェリーでした。
あっという間に熊本の街中を歩いていました。紅蘭亭で秋の円卓料理を食べました。
そして憧れの熊本城です。
肥後半国の領主の加藤清正によって1601年~1607に築城されたそうです。
城郭は周囲9Km広さ約98万平方メートルで、
その中に天守3、櫓49、櫓門18、城門29を持つ豪壮雄大な構えです。
武者返し」と呼ばれる美しい曲線を描く石垣は有名です。
この城は以後、加藤家2代(44年)、細川家11代(239年)の居城となりました。
1877年の西南の役に際しては、薩軍を相手に50日余も籠城し、難攻不落の城として真価を発揮しました。
この時原因不明の出火により天守閣など主要な建物を焼失。今の天守閣は1960年に再建されたものです。
熊本城の石積みは大きくて、素敵でした。
2011年辛兎、私は生まれて60年の干支が廻りました。
息子は両方のお祖父ちゃんが60歳の時に生まれて同じ干支です。
そして偶然にも、その息子の子供が今年、私と同じ辛卯年に生まれました。
若い時はどうやって生きたらいいのかと思ったりしていたのに、あっという間に60歳になり驚いています。
雲仙から橘湾に面した小浜温泉へ夕日が沈む頃に着きました。
小浜温泉は江戸初期からの歴史を持ち、海岸沿いに30軒の旅館・ホテルが並んで煙をあげていました。
湯量は日本でも1,2を争うほど豊富な海の温泉で、泉温は80~100度と高温だそうです。
オバマの名前の大統領人形が出迎えて立っていました。
春陽館と言う古い宿に泊まりました。
夕食は新鮮な海産物が次から次にでて、膝の悪い私の為に可愛い低い椅子も用意してくれて、至れり尽くせりでした。
次の日の朝は岸通りから少し入った裏手をあるきました。
細い水路沿いを歩くと、普通の家の窓に素敵に花が掛かっていました。
コ
古い町なので神社の庭も立派でしす。
温泉街なのに冷たい炭酸水や上の川湧水と言う昔からの水場がありました。
寛永6年(1629)の「キリシタン殉教史の悲話」にも登場するほど古い歴史のある湧水です。
今も昔の石垣が残って落ち着いた雰囲気がある町でした。
帰っての朝食が魚一杯で美味しかったです。
お椀の大きさが普通の倍で、大きな鯛が一匹、最高に美味しいお汁でした。
雲仙地獄にまず行きました。道路の傍から煙がもくもく、
駐車場も温泉地獄の煙の中
雲仙地獄の入口の橋の向こうはどうなっているのかと思うほど煙と硫黄のにおい
紅葉と煙の中の散策。 向側に古くて立派なホテルが建っていました。
一番すごいと思ったのは大 叫 喚 地 獄
この地獄の傍に行くとすごい大きい地獄の音がします。
五戒(殺生等)のを全て犯した者は、この地獄で8,000年間の責め苦を負うんだそうです。
雲仙の温泉街から少し離れたところにある小地獄館と言う江戸時代からある共同浴場の温泉に浸かりました。
素朴で素敵な温泉でゆっくり出来ました。写真を拝借しました。
天草の海岸線を走り鬼池港からフェリーで長崎県島原半島の口之津港に渡りました。
この港に天草四郎の銅像が、何処を見ているのかな。ちょっと洒落た鬼池港です。
対岸の口之津港は低い高台の上まで畑が耕されていて小さな灯台が見えました。
対岸の島原に渡ってから、荒地がなくて、畑が大規模経営で耕されて緑一杯な景色にびっくりしました。
普賢岳の噴火の後に、火砕流で壊れた畑を、大きく規格し直してして作った畑だそうです。
天草と同じように殉教の地で、雲仙教会がありました。
島原半島中央にある雲仙普賢岳が見えてきました。
主峰は普賢岳だけですが、1990年から1995年の火山で形成された平成新山(1,483m)が一番高いそうです。
雲で上は見えませんでしたが、
拝借した古い写真ですが上から見るとここういう地形になっているそうです。 前に見えるのが眉山です。
ドライブで上まで行くとするとすすきが茂っていました。
お昼ご飯は天草の郷土料理せんだご汁を食べに下田温泉に寄りました。
下田温泉の通りを歩いていると、マーケットの外ですごく大きい緑のズイキ(芋茎)と、
ひょうたん型のかわいい小さい南瓜が売られていました。
南瓜は切り売りで買っているので、1個98円で丸一個買える小さなこの南瓜は便利なサイズと思います。
芋茎はどうやったら美味しいのかな?
食べなれていないので本当の美味しさを知らない野菜です。
南瓜
せんだご汁
天草の郷土料理で、天草の漁師さんが魚の残り物でダシを取り、
いもをすりおろしたでんぷんを使ったせんだごという団子が入っているのが特徴だそうです。
せんだご汁が入っている定食です。量が多いのにびっくりです。
右端のお汁がせんだご汁です。
紫芋とサツマイモと南瓜の少し甘みのある団子がたくさん入っていました。
ガツという魚(ホウボウ?)の煮付けが美味しそう。
鹿児島空港に着いて以来、食べる物が全部美味しくて、特に魚が本当に新鮮で美味しいです。
100以上もの島々からなり海や山の自然豊かな天草諸島は
天草四郎時貞で有名な島原の乱(1637年)によって追われた
隠れキリシタンが信仰を守り続けた場所です。
資料を見ていて天草くずれと言う事件があった事を知りました。
天草崩れ (1805)
江戸後期、天草で隠れキリシタンが検挙された事件。
島原の乱の後、キリシタンは潜伏して信仰を守り続けていましたが、
1805年大江、崎津、今富、高浜の諸村で5000余人の信仰が露見しました。
人口の7割から8割の住民たちです。
取調べの過程で天草支配の役人らが、キリシタン信仰を「異宗信仰」「宗門心得違い」の者として
改めて絵踏を行い改心を誓って判を押させることにより穏便に落着したそうです。
同地方のキリシタンはその後も潜伏を続け、1873年(明治6)キリシタン禁制高札撤去以後カトリックに復帰して、
大江、崎津に天主堂が建てられました。
資料館のロザリオ館
ここで見たビデオや資料で、江戸時代のキリシタン事を知りました。
このロザリオ館の横にある洒落たステンドグラスのある売店で、こっぱ餅を買いました。
サツマイモを煮た農家の保存食のお菓子です。
大江天主堂
天草の伝道に生涯をかけたガルニエ神父によって1933年に建立されました。(ロマネスクの教会)
横姿も洒落て素敵です。教会の入口もステンドグラスです。
キリスト教を守り続けようとした人達のすごさに驚きました。
そのあと海岸線をドライブしました。鬼海ヶ浦からの奇岩を見ました。
良い天気で、教会も海も本当に素敵でした。
フェリーで天草にわたりました。
生きている間に天草に立つと思っていなかったぐらい、遠い島と思っていましたが、
天草は橋で陸続きで、フェリーも色々な場所からでて、交通の便が良いのに驚きました。
津崎天主堂が見えてきました。
天草下島の南部の羊角湾に面した小さな漁村の民家の中にありました。
その手前では色々な種類の魚が干していました。
教会の傍の山の上に古い神社がありました。
神社の上から下を見ると、青い海、教会、鳥居が平和そうに。
こま犬も沖縄風かな。
その上の500段階段を上り詰めるとまた教会のオブジェがあるそうで、
階段上がりの得意な娘はあっという間に登って降りてきました。
私はその階段の途中の木立からの景色を眺めてのんびり過ごしました。
この教会の傍のお店で名物の杉羊羹を買いました。
そうすると、「じゃお茶を飲んでゆきなさい」と言われお菓子と一緒に一服しました。
羊羹と書いてありますが、お餅の中のあんが入った素朴なお菓子で美味しかったです。
9月にアグネスちゃんが来てこのお菓子作った様子がテレビで放送され、その時の写真をみました。
いちじくをご馳走になりました。イチジクは、ポルトガル人メスキータ神父によって
日本で最初に天草に伝えられたと言われる果実で、”南蛮柿”と呼ばれたそうです。