今日は良い天気。
夫の調子も良いので少し遠出して歩く事にしました。
行き先はご近所の方のブログに載っていた「西と東の叶神社とその渡し船」です。
再度ブログ見て、降りる駅と、歩く距離をチェックして出発です。
浦賀ドックがお祭りでした。
そこでボランティアガイドさん案内の叶神社とその周辺歩く企画に参加できました。
自分達だけで行くより、説明があるのですごくその浦賀の事が分かりました。
最初に西の叶神社へ。歩いて1キロぐらいで着きました。
浦賀港の両岸に二つの叶神社があります。西岸の神社を西叶神社,東岸の神社を東叶神社と呼んでいるそうです。
西叶神社には総数230を超す沢山の彫刻が施されています。
社殿が再建された時,のちに名工とうたわれた幕府の彫刻師の安房国千倉の彫工・後藤利兵衛によって製作されました。
彫刻に要した費用は総建築費の約七分の一四百十一両余。
当時は奉行の所が置かれ,廻船問屋が軒を連ねていた隆盛期の浦賀であったからだそうです。
白い絵2枚は関東大震災の後に建てられた物で漆喰鏝絵(しっくいこてえ)と呼ばれるものです。
腕の良い左官職人が,鏝(こて)で漆喰を何度も塗り重ね盛り上げて,まるで彫刻のように浮き彫りにしたものだそうです。
浦賀は幕末から明治にかけて廻船問屋の町として栄えていて土蔵造りが盛んで腕の良い左官職人も多く、その一人の石川善吉さんの作品だそうです。
対岸の東叶神社にわたる為渡し船に乗りました。
西乗り場 東乗り場出入口
奉行所が浦賀に置かれてまもない1725年ごろから始まる、長い歴史を持つ渡し船です。
現在は愛宕丸(あたごまる、全長9メートル、総トン数4.8トン)一隻が就役していて、
船が対岸にいる時は入口のボタンを押すと来てくれます。運賃150円です。
次に東野叶神社へ。
神社の裏に井戸があり、幕末に遣米使節の護衛艦となった咸臨丸の艦長も勝海舟が、
航海前に、この井戸で水垢離をした後、山頂で断食したと伝えられています。
この裏山は明神山と言い、浦賀城跡がありそうです。
戦国時代の1556年に三浦半島が房総の里見軍に攻められたため、 北条氏康(後北条氏第3代)が築城した城があった所です。
この城は、千葉の里見氏に対する防備目的で置かれた三浦半島水軍の根城でした。
対岸の房総半島を一望できるそうです。残念ながら登りませんでした。
浦賀ドックからも海の向こうに千葉が見え近いなと思いました。
戦国時代千葉から三浦半島まで攻めてきたのかと思うと、すごいロマンを感じます。
里見氏は南総里見八犬伝の物語の舞台になった城主で、物語の八個の玉を持った八犬士の人達が来たのかな?
その後、浦賀ドックまで歩いて帰りました。
この神社は、源氏の再興を願って京都石清水八幡宮の心霊を迎え、源頼朝によって、その願いが叶ったことから
演技の良い 叶大明神の名で呼ばれるようになり、願い事が叶うという説が生まれました。
西叶神社の「勾玉」を、東叶神社の「お守り袋」に納めて持つと、
恋愛に限らず、仕事・友人・その他諸々の良縁を結ぶそうです。
『「縁(えにし)」があって、「結ばれ」、願いが叶う。』と。
我々はそれを知らなかったので残念。
浦賀が江戸時代から明治にとても繁盛していた町であった事を知りました。
近くいので、次回は東叶神社の階段を登って
明神山から房総半島を見て、お守り袋を手に入れたいと思います。