tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

スポーツとジェンダーの問題:基本を明確に

2021年02月22日 22時34分20秒 | 文化社会
スポーツとジェンダーの問題:基本を明確に
 日本オリンピック委員会の会長をやっていた森喜朗さんが、女性の多い委員会は時間がかかるとかいう発言で会長職を降りることになりました。

 偉い方はいろいろ大変だなと思いながら、半分同情して、内外の反響を見ていましたが、結局、オリンピック・パラリンピック担当大臣の橋本聖子さんが後任に決まり、後は何事もなかったように静かになりました。

 この騒ぎに関連してスポーツとジェンダーの問題があちこちで議論になったりしているようです。でも今回の問題は、オリンピックの関連で起きたことですが、スポーツとジェンダーの問題とは全く関連ない事で、単に、会議の時に女性メンバーが多いと、競争して発言するから、発言が多くなって、会議が長くなるという趣旨の発言が元のようです。
 ならば最後に「それは良いことだ」と付け加えればよかったのでしょう。 

 国際会議などでは、発言のことを「コントリビューション(貢献)」といって歓迎することがよくありますが、これは、会議で物事を決めるという実質的な会議と、会議の前の根回しで結論は出ていて、会議は形のみという会議の性格の違いによるものでしょう。

 ところでスポーツですが、これはジェンダーの区別が最も徹底しているものの1つではないでしょうか。遊びのスポーツは別として、勝敗、記録を競うスポーツでは、男女が一緒というのは多分皆無でしょう。

 人類のスポーツの頂点のオリンピックでも、女性は女性で競い、男性は男性で競うのです。もちろんこれは差別ではありません、これは区別です。
覇を競うスポーツでは基本的に男女は区別されるのです。そしてこれは世界中で当然のこととして認められ、誰も疑問も文句も言いません。

理由は単純です。女性と男性の体力の分布を正規分布として考え、横軸の右方が高いとすれば、男性の正規分布は女性より右側によるでしょう。もちろん女性の右側の裾と男子の左側の裾は、かなり重なるでしょう。しかし2つの正規分布を並べたグラフの最右端はすべて男性でしょう。

オリンピックで男女を区別しなければ多分メダリストはすべて男性になるでしょう。古代オリンピックでは女性の参加はなかったでしょうが、女性が参加する近代オリンピックでは、男女を区別しなければ、その方が女性差別と言われるでしょう。

 こうして男女の区別は当然のこととなり、体操のように、競技の内容でも男女は違って当たり前という事になっています。

 生物学的なことは専門家に任せるとして、男女を区別した方が、人間社会の在り方としてより楽しいし、ならばその方が合理的と定めたのは、体力において男性と女性に差があって当然と誰もが認めるからでしょう。

 では、委員会に女性の委員が少ない、管理職に女性が少ない、国会議員に女性が少ない・・・といった意見はなぜ出るのでしょうか。

 これは、骨や筋肉、つまり Physical・体力では男女の差は認めるが、脳つまりBrain・ 脳力(能力)では男女の差はないはずだから、すべて平等に扱わなければいけない、(その結果はほぼ同数になるはずだ)という事でしょう。

 こう考えてきますと、いまの人間社会では、男女の体力の差は認める、しかし脳の力(能力)では基本的な差はないはずだから区別は差別になるというのが基本的なスタンダードな考え方、という事になっているということです

 男女平等という問題を考えていきますと、差し当たってこんなところ、骨や筋肉の性能では男性が優れていて当然、然し脳の性能では、男女に差はないはずだという所に、現代人の感覚の基準はあるようです。

 勿論基本的人権は、人間であり限りすべて平等に与えられた権利ですが、男女を区別する場合と区別してはいけない場合の基本的な視点としてはこんなことになるのではないかと思われるのですが・・・。