金融業と付加価値
このブログの基本テーマはブログの副題にありますように付加価値です。なぜ付加価値をテーマに選んだのかといいますと、われわれみんな付加価値で生きているからです。
皆さんが一番よく知っている付加価値はGDPでしょう。これはその年に日本国内で作られた付加価値の総額です。我々は政府も企業も家庭もみんなそれを分け合って活動を続けているのです。
政府は税金を受け取り、企業は利益を受け取り、家庭は賃金を受け取って、それで活動を続けていくことが出来るのです。
GDPは民間の中ではマーケット・メカニズムつまり市場の働きによって分配差されるのですが、政府は法律によって分配を確保します。
そうした中で時には付加価値(GDP)の分捕り合戦が起きます。税金が高すぎるとか、利益が多すぎるとか、賃金が上がりすぎるとかいう形で、増税や減税の議論、企業における春闘の賃上げ議論など、すべて付加価値の分配の問題です。
ですから、付加価値という視点から見ていくと、経済・社会の中の事が、全体的な立場からよく見えてくることになります。
という事で、たまには、ブログ本来の付加価値論議に帰って、最近の株高の問題、アメリカのヘッジファンドと庶民投資家の戦いなどもありますので、金融に関わる付加価値の問題を考えてみたいと思います。
金融業といっても、銀行、証券会社、ヘッジファンド、などいろいろありますが、今度1万円札の顔になる渋沢栄一のころ(第一銀行は渋沢の設立)の資本主義と今のマネー資本主義の中での金融業とは大分違ってきているようです。
どう違っているかという事ですが、昔の人達は基本的に「実体経済」に興味を持っていました。実体經濟というのは まずは物の生産です。ものが行き渡ってくるとサービスの世界が魅力気になってきます。例えて言えば、食料不足の時は「腹一杯たべたい」、次は「美味しい物を食べたい」、更に余裕ができると「旅行に行きたい」、「銀座で食事」、「東京ドーム、ディズニーランド」、「海外旅行」その先は宇宙旅行でしょうか。
所で今はどうでしょうか。物は豊かになり、いろいろなサービスが誰にでも利用できるようになってきました。しかし、それを買ったり、利用したりするためにはおカネが必要です。「おカネがあれば何でも買えるし、何でもできる」、「そのためにはお金を稼ぐのが一番いい」、「すべ手はマネーの世の中だ」という事になってきました。
それでどうなったかといいますと、昔の人はカネを稼ぐためには実体経済の世界でモノやサービスの生産(新たな付加価値の増加)をして利益を上げるのが最も良い方法だったのです。自分が豊かなるためには、モノやサービスの生産活動が必要でした。
その結果, 自分も豊かになりますが、モノやサービスの生産が増えるので、社会も豊か(GDPの増加)になったのです。これが、アダム・スミスや渋沢栄一の世界です。
では、今はどうでしょうか。 100万円あるが、もっと金が欲しい。情報はいろいろあります。手っ取り早いのは株投資でしょう。「デイトレードで何千万」などという話はネットでたくさん見られます。
しかし、そんなのは知れていて、世界ではいわゆる国際投機資本が巨大なカネを動かして様々なマネーゲームの対象商品を作り,カネで直接にカネを稼ぐ仕事に精を出しているのです。
そして、その結果は、巨大なカネが一部の人や企業に集まりますが、 そこでは昔の様に実体経済でのモノやサービスの生産はなく、おカネ(購買力)だけがゲームに勝った人のところに移転するわけです。つまり GDPは増えずに、おカネだけが動いて、通常は金持ちの人が一層お金を集めるという格差社会化につながることが多いのです。
さて、表題にわざわざ「金融業と付加価値」としたのは、金融というものの環境が変わり、金融業の中身が変化いてきたこと、それが今後の経済にどんな影響を与えるかを考えてみたかったからです。
次回その辺りを見ていきたいと思います。
このブログの基本テーマはブログの副題にありますように付加価値です。なぜ付加価値をテーマに選んだのかといいますと、われわれみんな付加価値で生きているからです。
皆さんが一番よく知っている付加価値はGDPでしょう。これはその年に日本国内で作られた付加価値の総額です。我々は政府も企業も家庭もみんなそれを分け合って活動を続けているのです。
政府は税金を受け取り、企業は利益を受け取り、家庭は賃金を受け取って、それで活動を続けていくことが出来るのです。
GDPは民間の中ではマーケット・メカニズムつまり市場の働きによって分配差されるのですが、政府は法律によって分配を確保します。
そうした中で時には付加価値(GDP)の分捕り合戦が起きます。税金が高すぎるとか、利益が多すぎるとか、賃金が上がりすぎるとかいう形で、増税や減税の議論、企業における春闘の賃上げ議論など、すべて付加価値の分配の問題です。
ですから、付加価値という視点から見ていくと、経済・社会の中の事が、全体的な立場からよく見えてくることになります。
という事で、たまには、ブログ本来の付加価値論議に帰って、最近の株高の問題、アメリカのヘッジファンドと庶民投資家の戦いなどもありますので、金融に関わる付加価値の問題を考えてみたいと思います。
金融業といっても、銀行、証券会社、ヘッジファンド、などいろいろありますが、今度1万円札の顔になる渋沢栄一のころ(第一銀行は渋沢の設立)の資本主義と今のマネー資本主義の中での金融業とは大分違ってきているようです。
どう違っているかという事ですが、昔の人達は基本的に「実体経済」に興味を持っていました。実体經濟というのは まずは物の生産です。ものが行き渡ってくるとサービスの世界が魅力気になってきます。例えて言えば、食料不足の時は「腹一杯たべたい」、次は「美味しい物を食べたい」、更に余裕ができると「旅行に行きたい」、「銀座で食事」、「東京ドーム、ディズニーランド」、「海外旅行」その先は宇宙旅行でしょうか。
所で今はどうでしょうか。物は豊かになり、いろいろなサービスが誰にでも利用できるようになってきました。しかし、それを買ったり、利用したりするためにはおカネが必要です。「おカネがあれば何でも買えるし、何でもできる」、「そのためにはお金を稼ぐのが一番いい」、「すべ手はマネーの世の中だ」という事になってきました。
それでどうなったかといいますと、昔の人はカネを稼ぐためには実体経済の世界でモノやサービスの生産(新たな付加価値の増加)をして利益を上げるのが最も良い方法だったのです。自分が豊かなるためには、モノやサービスの生産活動が必要でした。
その結果, 自分も豊かになりますが、モノやサービスの生産が増えるので、社会も豊か(GDPの増加)になったのです。これが、アダム・スミスや渋沢栄一の世界です。
では、今はどうでしょうか。 100万円あるが、もっと金が欲しい。情報はいろいろあります。手っ取り早いのは株投資でしょう。「デイトレードで何千万」などという話はネットでたくさん見られます。
しかし、そんなのは知れていて、世界ではいわゆる国際投機資本が巨大なカネを動かして様々なマネーゲームの対象商品を作り,カネで直接にカネを稼ぐ仕事に精を出しているのです。
そして、その結果は、巨大なカネが一部の人や企業に集まりますが、 そこでは昔の様に実体経済でのモノやサービスの生産はなく、おカネ(購買力)だけがゲームに勝った人のところに移転するわけです。つまり GDPは増えずに、おカネだけが動いて、通常は金持ちの人が一層お金を集めるという格差社会化につながることが多いのです。
さて、表題にわざわざ「金融業と付加価値」としたのは、金融というものの環境が変わり、金融業の中身が変化いてきたこと、それが今後の経済にどんな影響を与えるかを考えてみたかったからです。
次回その辺りを見ていきたいと思います。