Altered Notes

Something New.

「逃げ恥」は現代の神話か

2020-06-10 17:21:00 | 放送
現在、TBSのドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」の「ムズキュン版」なるものが放送中である。厳密には再放送だが、未公開カットが新たに編集で加えられており、新たなヴァージョン(*1)で、ということらしい。

この「逃げ恥」は近年のドラマとしては異例の人気を博しており、2016年の初回放送から高い視聴率を出している。放送終了後も人気が衰えず2018年、2019年にそれぞれ全話一挙放送という形で再放送されているのだが、それでも人気はなくならず、(武漢コロナウィルスの影響があったとは言え)現在のムズキュン版(一種のディレクターズカット版か)の放送に至っている。

いわば普遍的な人気を獲得している訳で、多くの視聴者への影響力の大きさを考えると、現代の神話的なポジションにある物語なのかもしれない。(*2)

神話と呼ぶのは決して大げさではない。神話は我々人類が深層心理や精神のベースに持っている様々な元型的モチーフや心的な動きを具現化したものであり、それは無意識の領域に直接訴求してくるものでもある。このドラマが何度視ても飽きない理由はそこにある。そして視る度に理解は深まり新しい発見に喜びを見出すのである。

そして、さらに神話的なモチーフとしての伝統的な男女のあり方についても新たな問いかけをしており、連綿と続く伝統的なものを重視しつつもそこに新しい男女関係の形を模索する、という挑戦も見られる。伝統的・普遍的な男女の関係を基調に新しい形というか有り様を提示し、だからこそ誠実だが自尊感情の低い非モテ男性が奇跡的に女性との関わりを持つことに成功する、というモチーフを表現することができたのであろう。もっとも、新しい形と言っても、それは比較的表面に近いレイヤーの話であって、結局深層レイヤー(ベース)にあるのは古来から受け継がれてきた伝統的な人間の心であり価値観なのだ、という「一周回って元へ回帰」的な結論だったりもする。そこを外していないからこそ長期に渡って人々を惹き付けてはなさないのである。

このドラマがそれほどの神話的な深みと完成度の高さを獲得できたのは全てのファクターが「上手くいった」からにほかならない。大きくは企画、コンセプト、演出であるが、細かく言えば脚本、キャスティング、役者の芝居、映像・ビジュアル関係のスタッフ、オーディオ関係・音楽関係のスタッフ、その他全ての役割のスタッフの仕事がうまくいったから得られた成功ではないか、と思う。脚本がよくできていて無駄がなくダイアログが自然な流れでストーリーの展開を誘う。普通に見ていてもダレる箇所が見つからない。見始めるとずっと見られるのであり、飽きるシーンが無い。演出・役者の芝居・編集の全てが良くないとこうはならない。実際にドラマを視聴していても各シーン各カットのリズム・テンポが良く、スタッフが「演出」や「編集」を楽しんで仕事したのであろう事が容易に想像できる。その結果、良質なラブコメとして見事に成立したのである。(*6)

現代は女性が輝く時代であって、多くの一般男性にとっては生きにくい受難の時代であるが、そうした時代の色合いや社会の有様を自然に取り入れることに成功しており、いわゆる自己肯定感の低い男性、自尊感情の低い男性、つまり非モテの男性達からも大きな共感を得られたものと思われる。(*3)非モテ男性の辛さを過不足なくありのままに描くことに成功しているのであり、津崎平匡が感じている苦しさや切なさに共感することができる一方でドラマの視聴そのものが辛くなってしまうような悪い意味のアクの強さというか、外連味や嫌味がないのだ。(*4)

森山みくりというキャラクターは紛れもなく現代的なアニマ元型が投影されるであろう女性である。一般市民であり女性でありながらもどこか非凡な個性を持ち、本人が自分の中の嫌らしさとして評価している「小賢しさ」を含む個性(女性性)がむしろ平匡や風見といった男性キャラクター達の求めるアニマ元型の投影先として成立する、という事がいかにも(昔にはなかった)現代の男女関係に於ける普遍的な形を表している…ように思えて実に面白い。(*5)

ドラマの各所に登場する「オマージュ」「パロディ」という形の「ユーモア」もラブコメであるが故に導入しやすかったという利点はあったと思うが、全てが上手く自然に各シーンに当てはまっている。一般的にありがちなパターンはパロディやユーモアとして何かのモチーフを登場させたり絡ませたりすると、そこだけ変に浮いてしまう…という失敗である。アイデア単独で面白くても必ずしも肌合いがフィットしないユーモアは木に竹を接いだような不自然さが現出して、そこに演出上の作意が見えてしまうからである。しかし、この「逃げ恥」に於いてはそうした試みは全て上手くいっている。あくまで一例として挙げるが、エヴァンゲリオン風の演出になるシーンも大河ドラマ「真田丸」風の演出も完全にそのシーンの特性に合致していたからこそ自然に視ることができ、最高の効果を得ることができたのだ。情熱大陸やニュース番組ネタ、選挙演説ネタなども同様だ。パロディやオマージュであってもそのような形をとることが最も妥当であり、そのシーンが目論む表現に合致していたから視聴する側からも演出上の変な作意を感じることなく素直に受け入れることができて良かったのだ。これは簡単なようでなかなかできることではない。


こうして視聴者一般の無意識に良い形で訴求することができた「逃げ恥」は現代の男女のあり方を示す神話の一つとして位置づけても良いのではないか、と私は考えている。制作者と演者の皆さんに拍手を贈りたいと思う。




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(*1)
制作担当者の話では、今回放送では番組枠が初回放送よりも3分長いので未公開カットを挿入しやすい、とのことである。

(*2)
例えば1977年に映画「スターウォーズ」がなぜヒットしたかと言えば、「お姫様をさらった悪い竜を退治してお姫様を取り戻す王子」という無意識内の元型にぴったり合致するストーリーだったからであり、さらにその世界をきっちり作り上げた完成度の高さがあったからである。

(*3)
例えば、修善寺の温泉旅館のシーンで一夜明けて何もなかった事にがっかりするみくりは「非モテ男性の境涯」を何一つ理解していない一般女性そのものを体現している。一方で平匡は非モテ故にまさか自分が男性として期待されていた事など夢にも想像し得ないからこそ逆に雇用主と社員の関係として完全に対処できた自負を持つに至る。この二人のあまりにもあんまりな意識のギャップが泣けると同時に笑えるのは現代に於ける恋愛のあり方をシンボリックに表現できているからであろう。一般的に女性はその恣意ひとつで男性を求めたり拒否したりできる資格を自ずと持っており(*3a)、それが至極当たり前であることを信じて疑うことがない。すべての思考の前提となるものであり意識化されることは無い。一方で非モテ男性は自分が女性に求められる事は「あり得ない」と信じて疑わない。自分が女性に好かれる筈がない、という鉄壁の確信を持っているのだ。女性にはこの心境が想像もできないが故に”勝手にがっかりする”のであって、このどうしようもないギャップと思惑のすれ違いが最後までこのドラマの根幹にあり続けるのである。(*3b)

(*3a)
女性だけが持つ「性的優位性」故、である。男女は極めて不等価な関係にあり、男性には常に「男らしさ」「女性をリードできる力強さ」「女性の思惑を汲み取る感の良さ」といった鉄板の規範が自ずと求められ、その規範でがんじがらめにされているが故に男性(特に非モテ男性)は生きにくくなる。女性との関係性を適切に保てないが故に女性に接近すること自体を諦めるのである。これが平匡を悩ませている(みくりを的確にリードできない)心的葛藤の正体である。平匡役の星野源氏は最近のANNで「逃げ恥」について言及し、この男性に求められる規範と男性がそれにがんじがらめにされる実情を「レッテル貼り」という言葉で表現している。「男に生まれたらこうあるべき」というレッテルである。そのレッテルに沿った言動・行動ができないと社会はその男性を「一人前の男」とはみなさないのである。本人の個性や特質などは一切関係なく社会から押し付けられた暗黙の規範を受け入れて男としての役割をこなせないと許されない…それが男性なのである。(*3a-1)(*3a-2) その一方で女性にもレッテルがあるのだが、男性とは違って全てが自由で己の恣意に従って言動・行動することを是とするものである。どのような場面でも、うまくいかなくても、求められた役割を拒否しても女性なら許されるのだ。それが女性の特権でありレッテルでもある。男性のそれとは天地ほどの差異がある。これもまた女性の「性的優位性」故、である。

(*3a-1)
余談だが、社会における(特に働き盛りの)男性の死亡原因に「自殺」が多いのはこのせいである。社会から強く求められる「男らしさ」のせいで男性は追い込まれて自ら命を絶たざるを得ないほど苦しむ…ことが少なくない。この暗黙の社会規範はリアルに男性を厳しく、それはもう厳しく追い詰めるのである。

(*3a-2)
契約結婚というユニークな関係と生活がスタートして以後、津崎平匡はみくりとの関係をあくまで「契約による雇用関係」と位置付けてそれを意識的に徹底するのだが、みくり側は”無意識的に”とは言え、勝手に恋愛関係をダブらせていき、恋愛関係を前提にした発想と思考をするようになる。これはある意味で非常に身勝手な事であるが、これもまた女性の性的優位性がベースになっているのだ。これが逆の関係(雇用側が女性・非雇用側が男性)だったらすぐさまセクハラ案件になってしまう。女性だから、性的優位性が前提にあるから勝手に恋愛関係という図式で捉える事に何の疑問も抱かない上に、自分の希望通りに平匡が乗ってきてくれないと憤りを感じたりもするのである。女性は本当に身勝手なのである。

(*3b)
森山みくりが親友で元ヤンの田中安恵(真野恵里菜)と会話するシーンで、みくりは安恵に対して津崎平匡の事を「向こう(平匡)は彼女いたことない人なの。だから、私のことが好きで盛り上がってるって言うよりも、初めての彼女らしき相手に盛り上がってるだけかもしれない」「同居して、家事してくれて、ハグができる女なら誰でもいいんじゃないかっていう可能性が…」と語る。このような視点を持ち、上からの目線を持てるのも性的優位性を持つ女性ならでは…である。

(*4)
非モテ男性の境涯は「モテ」に属する人からは一生かかっても理解できないし理解する気もないだろう。原作の海野なつみ氏でさえも津崎平匡という非モテキャラクターに対しては「面倒くさいやつだなあ、でも、こう思ってしまうのよね、しょうがない、しょうがない」と発言し、諦観を伴うある種の突き放し感を持っている。性的優位性を持つ女性にとっては理解の埒外だからである。非モテ男性は女性のような「性的優位性」を持たないので男女関係についてはどう頑張ってもうまくいかず成就しない宿命を背負っている。宿命故にこれはもう仕方ないのであり、世の中にいくつもある「どうにもならないこと」の一つなのだ。

(*5)
これは実は評価が難しいところである。・・・人間には「男性には男性の、女性には女性の深層心理的な基本スタンス」という基礎的な形が存在する。それを極めて平易に記すと次のようになる。男性は論理という刃で問題や理屈を切り分けて処理を進め解決に導く、といった特質を持つ。論理というのはそもそも男性的な特質を表すものなのである。一方で、女性は基本的にそのベースに母性がある。母性は論理よりも感情が優先される。良し悪しに関係なく全てを包み込むやさしさ・温かさ(*5a)を持つ。これは前述の男性的な特質とは真逆のものである。ここで、もしも女性が男性的な「論理という刃」を持ってしまったらどうなるか?…その場合、時として悲劇が起こる可能性がある。本来は女性の特質ではない「論理という刃」を持った女性は「必要」とか「必然」といった範囲を超えてその刃で全てを切り倒していく事があるからだ。このドラマに於けるみくりにはそうした傾向が時おり見られる。「論理の刃」のスイッチが一度入ってしまうと、全てを切り捨てて己の勝利を掴むまで猪突猛進状態になってしまうのである。これでしばしば平匡は困惑することになる。しかし、平匡や風見はそうした特質をも見越してみくりを愛した。すると、どうだろう…ここではむしろ男性の方が「何でも包み込んで受け入れる」母性的な特質を発動させている事に気づくのである。その基礎的な特質において男女逆転現象が起きているのだ。興味深いことである。

(*5a)
全てを包み込む(飲み込む)力は時として何でも包み込みとり込んでしまうことで人の心的自由(精神的自由)を奪ってしまう恐怖の特質をも包含している。

(*6)
但し脚本には些末だが看過できない問題もある。常識的な言葉遣いの問題だ。ドラマ初期の段階で両家顔合わせのシーン、土屋百合(石田ゆり子)が「結婚式の予行練習」という台詞を言うのだが、これは間違いで「予行演習」が正しい。ちょっとした言葉の間違いなのだが、確実な間違いなので見過ごせないのである。また、津崎平匡(星野源)の台詞で「シュミレーション」が出てくる。これも間違いで正しくは「シミュレーション」である。もう一つ、2021年正月に放送された続編ドラマ内の津崎の台詞で「コミニュケーション」が出てくる。これも間違い。正しくは「コミュニケーション」である。常識的な言葉を平然と間違えているのだ。これが脚本ベースの間違いなら(*6a)演出がそれを矯正できた筈だが演出もこの間違いをスルーしている。役者自身の間違いだったとしても演出家はその間違いを矯正する責任はあるだろう。それができていないのは問題である。<2021年1月5日:追記>

(*6a)
その場合は脚本家野木氏の無知に呆れる事になるが。




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