Altered Notes

Something New.

我が世の春を謳歌する芸人たちの実像

2020-08-16 06:08:38 | 社会・政治
現代は芸人がブームであり、ほとんどのテレビ番組に芸人がキャスティングされる、というある意味で常軌を逸した状況が現出している。

芸人にとっては正に我が世の春を謳歌する時代であろう。芸人が引っ張りだこなおかげで実力のあるベテランから駆け出しのペーペーまでテレビ番組に出演できる機会を得ているのである。ある程度スキルのある芸人に至ってはお笑い芸人であるにも関わらず、ひとかどの知識人や文化人のような顔をして世相や社会を評論したりする者までいる。そのコメント内容が本当に知識人・文化人としての重みと奥行きがあるものならば認めるにやぶさかではない。しかし現実はそうなってはおらず、中味のない薄い人間性に対して一人前の外見という鎧を着てそれらしく見せているだけ…そこに面白くもないユーモアを調味料程度に加えて…といった風にしか見えないのが実態だ。視聴者を舐めているとしか思えないのである。(*0)


現代は芸人にとっては誠にパラダイスな時代であろう。

だがしかし…。

このパラダイスな状況にあぐらをかいて分不相応な態度をとるようになってしまった芸人も少なくないようである。単純な話で、人間はチヤホヤされることに慣れてしまうと段々態度が大きくなってくる。やがて崇め奉られて当然、という不当に尊大な態度に到達する。「不当に」というのは本人の「人としての程度」にそぐわないレベルで、ということだ。残念ながら芸人にはこうした不当に尊大な態度を是とし、それが当たり前のようになってしまった例を多く見かける。

実はそうした芸人たちは「そもそも」のレベルで社会における自分らの立ち位置が正しく認識できていない。

どういうことか?

本来、芸人やタレントというのはモラル・エコノミー(moral economy, 道徳経済論)の中で生かしてもらっている存在なのだ。

芸人という芸能人とその芸を楽しむ一般人との関係はモラルエコノミーの考え方で捉えられる。芸能人は一般人よりも上位のヒエラルキーに位置しており一種の特権を持つ存在とされる。

モラルエコノミーに於いては

「特権というものはそれを持たない人への義務に依って釣り合いが保たれるべきである」

と考える。芸能人は社会の規範となるように振る舞うべき、つまり社会的責任を追う立場である、ということだ。この場合の規範とは社会一般の常識的な規範はもとより、視聴者の心を傷つけたりしない、夢を壊さない振る舞いなども含まれる。

芸能人は社会に人気者として君臨しており、世間一般の好感度に依って支えられている。こうした人々は社会の規範に対してこれを強く遵守することでその存在をより純化するような役割がある。これがモラルエコノミーの考え方である。

これをもう少し平たく言うならば、芸能人はその人気によって存在することができるのであり、その人気に見合ったモラル遵守の義務を追う、ということだ。

一般的に芸能人の不祥事などでしばしば問題が起きて追求される事態が発生するのは、単純に倫理や道徳の問題というよりもモラルエコノミーの問題として捉えた方がより正しい、と言える。

そしてこれは例外なく全ての芸能人にあてはまる原理原則なのである。

その意味で、そもそもこの原理原則が全然理解できておらず認識すらできていない芸能人がわんさか存在している。それがこの稿で最初から挙げている「芸人」たちなのである。

彼らはチヤホヤされることに慣れてしまい自分たちがある種の「お偉いさん」と化してしまっており、必然的に一般人を「素人」と蔑んで見下すようになる。特権を持つ芸能人が一般人を「足蹴にしていい存在」として(無意識裡に)認識するようになるのだ。

興味深いことに昭和の時代の芸人たちにはまだ矜持というものが存在し、視聴者・受け手・お客さんは絶対に貶めなかったのである。貶めるなら自分や自分の仲間を貶めて笑いにする。爆笑を取りながらも謙虚な姿勢は絶対になくさない。(*1) 破茶滅茶をやりながらも最低限の矜持は確実に維持していたのである。(*2)

翻って現代の芸人は「いじり」と称して平気で(本気で)視聴者・客を見下し馬鹿にする。例えばオードリーの若林氏などはその一例(あくまで一例である)だろう。

若林氏は己が上述のモラル・エコノミーの中で生かしてもらっている存在であることを全く理解していない。それは彼のパフォーマンスが如実に示していることだ。若林氏には芸人として以前に人として未熟でなってないと思える言動・態度が時おり見受けられる。 一つの完結した芸としての笑いではなく、一般人を「素人」と呼び本気で見下し本気で馬鹿にして笑いとばす、という瞬間が彼の普段の言動・行動の中に多々見受けられるのである。(*3)それは彼にとって一般人を見下す言動自体が快感なのであり、自分(若林)が一般人よりも「上位」に存在していることの再確認に依って快感を得ているのだ。彼の笑い声は実に下品で聞くに耐えないサウンドだが、そういうところにも人格は滲み出ているのである。これは幼い子供が友達をいじめることで得る快感と同じレベルのものだ。また、「素人」は差別語であり蔑視感情をベースにした単語だ。彼が一般人を「素人」と呼ぶ時は、あたかも幼い子供が気にいらない人間に対して感情むき出しで悪口雑言を投げつけているような低次元な姿を晒している時であり、客観的に見て「人としてみっともない」姿を現している、と言えるだろう。テレビの世界でチヤホヤされた結果、彼は思い上がりの権化になってしまったのである。単純と言えば単純だが、それは正に幼い精神性故であろうし、そうした彼の人間性は彼自身の目つき顔つきにも現れているようにも思える。正に彼は芸人としては凡庸で不徳な人物なのである。繰り返すが、彼はモラル・エコノミーに於ける自分の立ち位置、という意識が全くないのであり、そこに若林氏の人としての厚みの無さが如実に表出しているのである。

こうしたことは他例で言えば土田晃之氏などにも見受けられる事だが、”思い上がり”という人間的な嫌らしさばかりが見えてしまって見ていて普通に見ていて実に不愉快なのだ。

また、陣内智則氏などはロケで偶然出会った市井の人が言った言葉が「ダサい言い方」としてはっきりと見下していた(*4)のだが、実はそれは単に陣内智則氏の無知・無学が原因で街の人の言葉を理解できていなかっただけ、という恥ずかしい結果を生んでいる。実に無様であり、これこそ「下衆の極み」ではないだろうか。(*5)

無名の一般人を見下して笑いとばす…という極めて低次元な言動行動しか取れない未熟な芸人がやっているのは一般人に対する一種の”いじめ”である。いじめの快感に酔いしれるというのは無意識内の「影(シャドウ)」に翻弄される弱き心・精神の現れである。

一般人を見下しいじめることで彼らは自分が一般国民よりも上位のポジションに立っている幻想に浸り愉悦を感じて安堵する…そこで起きているのはこのような心的動向であり、それが全てと言っても過言ではないのが実態だ。なんと小さな人間性か。これは少なくともプロフェッショナルの有り様ではないだろう。モラルエコノミーの中で生きている自分を意識するなら絶対にとれない言動であり行動なのだ。


彼らが今後自分たちの愚かさに気づいて変わっていけるかは不明だが、彼らを甘やかし堕落させるテレビ屋という存在が大きな支障になるであろうことは容易に想像できる。だが、地上波テレビの長期的な凋落傾向を見るに、今が最後のあがきを見せているだけなのかもしれない。がん細胞や病原ウィルスがその宿主に浸透することで宿主共々死んでしまうように、芸人たちもテレビと一心同体のままゆっくりフェイドアウトし消えてゆくのかもしれない。それは自業自得である。





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(*0)
それは現代が社会・経済・政治・国際問題といった各分野において今までのような訳にはいかないシビアな本気の対応が求められる厳しい時代に突入している事が背景にある。もう口先だけの戯言や与太話をしていればいい時代ではないのである。

(*1)
この時代の芸人を代表する一人が上岡龍太郎氏であろう。
名言_上岡龍太郎_ [YouTube]
これは上岡龍太郎氏一流の「韜晦」であるが、上岡氏は自分らの存在を卑下するように見せて実は誇り高き佇まいを見せている。この「粋」を今の芸人のほとんどは持っていない。

(*2)
昭和の時代、いわゆる「やすきよ」と呼ばれる漫才師が居た。横山やすしと西川きよしのコンビである。正に”本物”の芸人であり、その存在感の大きさは誰もが認めるものだった。横山やすしは真に破天荒な芸人であり不祥事は毎度のことであったが、彼らはそうしたマイナス要因の全てを笑い(爆笑)にもってゆく凄まじいエネルギーとセンス(才能)があった。観客もそれを充分理解しているので心の底から楽しめたのである。また、観客などの一般人へは常にリスペクトの姿勢を持っていた。もちろんパフォーマンスとしての客に対するおふざけはあったが、それは芸人と観客の間に共通の信頼感・価値観が共有された状態が前提になっており誰も不愉快になどならなかった。今どきの未熟な芸人達のように本気で観客を見下し馬鹿にするような軽率な事は一切無かったのだ。本物の芸人の芯というか根っこの部分は本当に謙虚であり観客への感謝と尊敬は絶対に忘れなかったのである。

(*3)
筆者が偶然見聞きしたものだけでもいくつも実例がある。例えば番組内で一般人である指圧師に対して若林氏が持っていたファイルで頭を思い切り殴る、ということがあった。また、これも番組内で宮崎県知事と会話した際に若林氏は敬語を使わずタメ口で話していた。見ていて(聴いていて)非常に不愉快なシーンだった。彼は常識的な礼儀すら持ち得ていない未熟な人物なのだ。また、ラジオ番組の中では一般人を本気で「素人」と呼ぶ事を認めている。彼が一般人に対する蔑視感情を確実に持っている事を自ら明かしているのだ。

(*4)
NTV「ヒルナンデス」のロケに於いて、街中でロケをしていた陣内智則氏一行が道を尋ねるべく偶然通りかかった年配の男性に話しかけて、返ってきた返答の中に「丁字路(ていじろ)」という単語があった。もちろん丁字路は既存の言葉であり、道路が漢字の「丁(てい)」のような形で枝分かれしている交差点を指すための法律用語である。ところが教養の無い陣内智則氏はこの「丁字路」という単語を知らなかった。彼は男性が英語の「T」を訛って発音したように捉えた。(「T字路(てぃーじろ)」と言おうとして訛って「丁字路」になった、と陣内氏は誤解したのである。)陣内智則氏は一般人を見下して笑ったつもりだったが、実際は「丁字路」という言葉を知らなかった陣内智則氏の無教養さが暴露されただけ、という恥ずかしい結果になったのであった。

(*5)
さまぁ~ずの二人なども同様だろう。長期に渡って続いているロケ番組があるが、この中で偶然出会った一般人を彼らは見下して笑いものにする。芸人と一般人では価値観も慣習もあらゆる観点から異なるだろうが、彼らは自分達の観点や価値観を標準として、そこからずれたもの(人)を全て笑いものにして公に晒すのである。それは純然たる笑いではなく相手を貶める態度として解釈できるものだ。笑いものにされた市井の人は表情を変えなかったり苦笑していることもあるが、内心は不愉快な思いをしているケースも多々あると思われる。視聴していて憤りしか湧いてこない。彼らは基本的に上から目線で一般人を見下しており、そこをベースに物事を判断している。それは彼らの言動や行動からも明らかである。思い上がった醜悪な芸人の姿がここにもある。余談だが、筆者は彼らの出身高校の先輩として恥ずかしく思う。





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