Altered Notes

Something New.

山下洋輔トリオに聴くフリージャズ

2022-05-25 13:32:00 | 音楽
一般の方々の山下洋輔氏の印象と言えば「あの肘打ちの人」といったものかもしれない。これは主にテレビ屋が山下氏を出演させる時に「フリージャズ」「肘打ち奏法」といったキーワードで紹介するからである。もちろんピアノの鍵盤を肘打ちすればフリージャズになる訳ではないし、フリージャズは肘打ち必須ということでもない。そんな低次元な話ではないのだ。

フリージャズはその名の通り好き勝手に音を出してその場で音楽を作り上げるものである。通常は音楽を作るとなればメロディがどうで和音がどうでリズムがどうだ、という一種の枠組みの中で紡ぎ出してゆくものであるが、フリージャズではそれらのルールを全て外して自由な立場と発想で演奏するものであり、バンドであれば一人ひとりが自分の思うように音を紡ぎ出したものが重なり合う事でバンド全体の音楽として成立してゆくものである。各人が演奏するものは即興故にその場限りのものであり、ある瞬間の音がとても良かったからと言って「同じものをもう一度やる」のは不可能である。

自由に音を出すということなら、例えば、猫がピアノの鍵盤上を歩いたり走ったりする事で音が出たらそれはフリージャズか?…と言うとそれは違う。(*1) 偶然性をコンセプトにした音楽ならば無い事もないかもしれないが、ここで俎上に挙げているフリージャズはあくまで「人間が音楽として演奏するもの」なのである。

好き放題に演奏すればいいなら簡単だ、と思われるかもしれない。だが、ちょっと考えてみてほしい。仮に今日、素敵な演奏ができたとしてもプロならばその演奏を明日も来週も来月も来年も同じレベルでやり続けなければいけないのだ。自由な演奏とは言ってもスキルの低いプレーヤーだとすぐに手詰まりになってしまう。自由にやるのは良い。だが、総合的に「良い音楽」を作り出せなければ失格である。好きにやればいいのだが、人を納得させる音楽を提供できなければ良い音楽家とは言えないのだ。そう考えると結構厳しいものがあることが判るだろう。

音楽として成立させるものであれば、自分が好き勝手に音を出すと同時に共演者もまた今この瞬間に彼が思う通りの演奏をしている訳で、自分が演奏しながらも同時に相手が何を演奏しているかは聴かなければならない。そして相手が演奏している内容に反応することができる技術も必要であり、演奏している音楽全体を俯瞰して全体の流れを考えた上で自分が何をどのように演奏するかを決めていく必要性もある。

そうなると、フリージャズではない(敢えて言うが)普通のオーソドックスなジャズ演奏とそれほど変わらないじゃないか、と思うだろう・・・そういうことだ。すなわち、山下洋輔トリオの演奏は伝統的な4ビートジャズ音楽の作り方と実はさほど変わりはないのだ。山下洋輔トリオの演奏には自ずと存在するフォーマットがある。(*2) 大きく捉えれば

「テーマ」→「アドリブ」→「テーマ」

という流れがあり、しかも「アドリブ」部分は各ソロイストが順にソロをとってゆくスタイルが基本である。これはそのまんま普通の4ビートジャズ演奏と全く同じだ。ただ、山下洋輔トリオが普通と違うのは「アドリブ」部分に特定のルールが存在せず、そこは好き勝手にやってよろしい、というところだ。各奏者がソロでアドリブ演奏を好きなように展開させ、共演者はその音を聴いて反応することでその瞬間・その一瞬を音楽として成立させてゆくのである。


余談だが、ジャズと言うとどうしてもアメリカのものであり、それを日本人が演奏するというのは物真似でしかないのでは?という疑問が呈される事があった。それがきっかけで、かつて日本人が演奏するジャズをどう捉えるかが議論になったことがある。「日本人らしいジャズとは一体何か?」という大きなテーマである。そこでは日本の民謡由来の音楽を作るとか、日本の伝統的な音階を使うことで日本風になる、といった意見が出たが、どれも決め手に欠けており議論は煮詰まった。そんな時に山下洋輔氏が放った言葉は決定的だった。

「演奏からあらゆるルールを外してゆけば、最後に残るのは”手クセ”だ。日本人なら日本人の”手クセ”が残る。」

コロンブスの卵か…これには誰も反論できなかった。そういうことなのだ。その意味でも山下洋輔トリオのフリージャズは正に「日本人のジャズ」として世界に伍して並べられる音楽として評価されうるものとなったのである。


ベースレスのピアノトリオ(ピアノ、サックス、ドラム)で演奏されるフリージャズと言えばセシル・テイラーのそれが有名だが、方法論は全く異なる。セシル・テイラーのフリージャズはあくまでセシル・テイラーが中心に存在しており、彼の一存で音楽は始まり、展開し、そして終わる。どのように始まって終わるのかは全く分からないのだ。山下洋輔トリオに見られるようなインタープレイ(相互触発に依る即興演奏)はそれと判るような形では起きない。明らかにコンセプト・方法論が異なるからである。ちなみにヨーロッパのフリージャズも概ねセシル・テイラーと同様のコンセプトで演奏されていた。

リスナーの中には「山下洋輔トリオはセシル・テイラーのマネである」として批判する向きもあったのだが、上述のようにコンセプトが全く異なるのでマネとは言えないだろう。セシル・テイラーのバンドでは全てがフリーなのだが、山下洋輔トリオの場合は必ずテーマがあって、前テーマと後テーマの間はフリーになる、というフォーマットが存在している。ここがセシル・テイラーとの決定的な違いである。

その「違い」の部分をもう少し掘り下げる。

山下洋輔トリオのフリージャズはフリーとは言っても凄まじいスピード感がある。そのスピード感の主な部分はドラムの演奏に依って生み出される。山下洋輔トリオの初代ドラマーであった森山威男氏が編み出したドラム奏法は画期的である。いくらフリージャズとは言っても森山威男氏の頭の中ではある一定のテンポが流れているのだ。森山氏は「テンポが無いとスイングしない(グルーヴしない)」と考えているからだ。

言ってもフリージャズである。生半可な奏法では特定のリズム(4ビートやワルツなど)が生じてしまってフリーにならない。ドラムでは通常は右手がシンバルのレガートを打って基本的なリズムを鳴らす。この右手を出来るだけ速く演奏する。しかしそれだけだと単純であり普通のリズムが聴こえてしまうので、左手が打つスネアドラムのリズムを5連符で演奏する。さらに足(バスドラムとハイハット・シンバル)を好きな場所で打ち鳴らす。左手もスネアドラムだけでなく、盛り上がれば他のタムタムやバスタムなどを打ち鳴らし、好きに暴れさせる。これらが総合することであの凄まじいスピード感がありながら特定のリズムパターンを感じさせないドラミングが成立するのである。

さらに言えば、森山氏は音楽理論よりも人間の人格や感情の方に重きを置いて演奏しているのだ。森山氏から見て山下氏がどういう人間か、そういうところを見て演奏のこの先の展開を予測し、今この瞬間に何をやるのかを決めるのである。決め所の合図の出し方は様々であり、そこを分かり合うのがメンバー間の機微と言えよう。フリージャズではあっても本当に好き勝手(自分勝手)にやってるのではなく、メンバー相互の気遣いは自ずと必要なのである。

こうして森山威男氏に依って生み出されたフリージャズ・ドラム奏法は山下洋輔氏に言わせれば「森山の叩き方はフリージャズとしての普遍性がある。このオリジナルなスタイルは人類の宝と言える」ということであり、極めて高い評価が与えられている。(*3) そしてこの奏法はトリオの2代目のドラマーである小山彰太氏にも受け継がれてスイスのモントルージャズ祭やアメリカのニューポートジャズ祭での伝説的な演奏に繋がってゆくのである。


ここまで縷々述べてきた山下洋輔トリオのフリージャズだが、その普遍性故にヨーロッパでも大反響を生んで熱狂的に受け入れられた事実はお伝えしておきたいところだ。
下記の演奏をお聴きいただきたい。1974年にドイツはメールスでのジャズフェスティバルに出演した際の演奏である。メンバーは山下洋輔(p)、坂田明(Cl、As)、森山威男(ds)。特に2曲目、28分45秒あたりからの”CLAY”の演奏を聴いてほしい。「凄まじい」という形容がこれほど似合うアコースティックなアンサンブルが他にあろうか。このスピード感・破壊力・緊張感・先鋭的な攻撃力は比肩するもののない日本のジャズとして世界に誇れるものである。曲が終了した瞬間にヨーロッパの聴衆から沸き起こる「ウォーッ!!」という地響きのような大歓声が山下洋輔トリオが紡ぎ出した音楽の凄さと普遍性を証明している、と言えよう。(*4)

「Yosuke Yamashita Trio (山下洋輔トリオ) - Clay」





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(*1)
実はこれは評価が難しい問題でもある。厳密に偶然性・必然性を重視した演奏であるなら猫が鍵盤上を歩くことで紡ぎ出される音群もまた一つの音楽として捉えられる、とう考え方もある。

(*2)
かつてNHK交響楽団で主席オーボエ奏者として活躍された茂木大輔氏は若い頃に山下洋輔トリオに出会って大きな衝撃を受けたそうである。茂木氏の音楽体験の中でも一番大きなものだったそうだ。山下洋輔トリオのジャズについて茂木氏は「あの演奏は譜面があったのでは出来ない」「3台のスポーツカーが各々勝手な方向に物凄い速度で突っ走るような」と語る。茂木氏の言わんとすることは判るのだが、実はちょっとだけ違う。「各々勝手な方向」ではなく、好き勝手なアドリブをしつつも実は3人共向いている方向は同じだったりするのである。それは、言ってもアンサンブルであり、最低限のフォーマットは存在している。3人で作り上げる音楽に他ならないからである。
だが、そうは言ってもジャズでありフリージャズである。時にはその最低限のフォーマットすら外して飛びまくるケースもあり得る。音楽的に良いものが出来るならそれは「有り」とするのがジャズなのである。
ちなみに、茂木大輔氏は山下洋輔氏に心酔し、後に「山下洋輔の超室内交響楽」その他で何度も共演している。他にも山下氏は茂木氏の為にオーボエのソロ曲を作曲し献呈するなどしている。

(*3)
かつてジョン・コルトレーンのカルテットで演奏したレジェンドのドラマーであるエルヴィン・ジョーンズは森山威男氏が好きで憧れる存在でもある。エルヴィンの何に惹かれたのかと言えば、森山氏曰く「エルヴィンの演奏は民謡だ」「民謡は西洋音楽のルールや枠では捉えられないものがある」「エルビンジョーンズの演奏は小節をまたぐバー(*3a)を感じさせない」、ということであり、森山氏もそれを意識して自分の演奏スタイルを築いていったのである。どの国の民謡もそうだが、西洋音楽流には捉えられない音楽世界である。西洋音楽的にエルヴィンの真似をしてもエルヴィンにはならないのだ。
そんなエルヴィン・ジョーンズであるが、彼が日本滞在時に森山威男氏の演奏を聴いて「森山、シンバルは楽器だぞ。敵みたいにあんなに叩くんじゃない」と説教した。だが、森山氏にしてみれば、「あんたに言われたくないよ。あんたの真似をしてこうなったのだから」ということだ。(笑)

(*3a)
小節をまたぐバーとは楽譜上に記される各小節を区切る縦線のことである。

(*4)
聴いて頂ければ判ると思うが、全体を通してきちんとした流れがあり、山もあれば谷もあって音楽としてのストーリーがその場で作られているのである。好き勝手にやってはいるがデタラメではなく、実はかなりお互いを聴き合ってその瞬間に何が必要かを瞬時に判断して音を出している事に気がつくと思う。その上での力の爆発なのである。だからこそ深い音楽文化を持つ欧州の聴衆をも魅了したのだ。