伊豆高原シニア・ライフ日記

「老い」を受容しながら自然の恵みに感謝しつつ「残躯天所許不楽復如何」の心境で綴る80老の身辺雑記 

「三金会雑記」秋号の原稿提出

2010年08月28日 | 三金会雑記
8月29日(日)

※ 三金会雑記秋号の原稿を最終b的にチェックし、本日、編集長あてのメールにword文書を添付して送付する。やれやれ。


齢80、戦後65年に思う

いつものように「三金会雑記」吉増編集長から九三号(秋号)の出稿依頼が来た。

 「‥‥‥我々の人生もこのようにいろいろ混沌と積み残しのままで閉幕するかもしれませんが、我が日本の未来だけは少し明るい姿を望みたいもの‥‥‥締切は八月末日」

これは、激動の「昭和」を生き抜き、「平成」の世に余生を送る我々世代に共通する偽らざる感慨であろう。


戦争が終わったこの八月、昭和五年生まれの会員の多くは八〇歳に達し、いずれの会員も戦後六五年目を迎える。

八〇歳にして戦後六五年、この年が人生最後の節目の年となることも十分に覚悟しておかねばなるまい。

先日、行われた厚労省の平成二一年「簡易生命表」の発表によると、平成二一年の日本人の平均寿命は、男性七九・五九歳、女性八六・四四歳。ともに四年連続で過去最高を更新している。

これを海外と比べると、女性は二五年連続の世界一だが、男性は前年の四位から五位に順位を下げている。一位は八一歳のカタール、前年の七六・七歳から一挙に首位に躍り出た。二位は香港(七九・八歳)、三位はアイスランドとスイス(七九・七歳)が並ぶが、これらはいずれも変動しやすい人口小国(カタールは人口一四〇万、香港でも七〇〇万で日本の府県並み)であるから、大局的にみるなら日本の優位は揺るがないのではないか。

日本人の平均寿命が五〇歳を超えたのは終戦直後の昭和二二年(男五〇歳、女五四歳)、六〇歳を超えたのが昭和三〇年(男六三歳、女六七歳)、男女とも七〇歳を超えたのが昭和五〇年だから、平均寿命が八〇歳に及んだこのスピードは誰もが想像すらできなかったのではあるまいか。

「人生五〇年」は戦前ではごく言い古された言葉であった。
しかし、戦争末期になると我々の寿命は極端に短縮され、学徒動員された軍需工場係官からは「お前たちの寿命は二三歳。それまではお国のために懸命にご奉公せよ」と厳しく叱咤されたことを思い出す。

この「二三歳」が何処から出た数字だったか今もって定かではないが、その頃歌われていた歌詞に
「咲いた花なら散るのは覚悟 見事散りましよ国のため(同期の桜)」
「五尺の命ひさげて 国の大事に殉ずるは 我等学徒の面目ぞ(ああ紅の血は燃ゆる)」
などとあったし、動員されていた工場(海軍一二航空廠)では日常的に爆死や事故死を見聞する環境にあり、新聞紙上で「玉砕」「散華」といった言葉を見るにつけその潔さに感動する幼稚な少年だったから、平均寿命二三歳といわれてもなんら抵抗感を持つこともなく納得していた。

また、四〇歳代後半の頃だったろうか、「昭和一桁生まれ」は食糧不足による発育期の栄養不良が原因で血管などが脆く、六〇歳定年を待たず五〇歳台で死ぬという説もまことしやかに囁かれていた。

そんな時代を経ながら我々世代は、気付いてみれば今日まで生きながらえてきたことには今更ながら驚き入るほかない。

思えば、この年齢に達した我々は、これまで十二分に「生きた」といえるし、やるべきことはすべてやり終えてしまったのだから、これからの「生」にさほどの執着は持っことはあるまい。
あとはどのように死を迎えるかということだけが残る課題であろう

ところで、「平均寿命」八〇歳というが、これは「〇歳児」の「平均余命」を意味するものであって、我々世代の「平均余命」(ある年齢層の人が平均して何年生きられるか)とはこれとは違う。

平成一八年簡易生命表にある八〇歳男性の「平均余命」は八・四五年とあることからみて、どうやら特別のことがない限り我々世代の者は九〇歳近くまで生きる可能性は大いにある。
だが、これは決して目出度いことではない。

「平均寿命」に対して「健康寿命」という概念がある。
「WHO憲章」の序の定義では「(健康とは)完全な肉体的・精神的及び社会的福祉の状態 physical、mental、socialなWell-Being であり、単に疾病又は病弱な存在のないことではない」としており、ここから「平均寿命」に対して健康という生命の質をも含めた寿命の指標として「健康寿命」というのが作られている。
つまり、「平均寿命」のうち「健康で活動的に暮らせる期間(日常的に介護を必要とせず、自ら用をたせる生活ができる生存期間)」、簡潔にいえば高齢になっても他者に依存しないで自立できる期間までが「健康寿命」ということになる。(ただし、ここでは生まれてこのかた経験してきた不健康期間の累積は度外視するとして。)


ちょっと古いデータだが、二〇〇四年の日本人男性の「平均寿命」と「健康寿命」(ちなみに健康寿命でも日本は世界第一位)の差は六・三年(同年の平均寿命は七八・六四歳、健康寿命は七二・三歳)とあり、これに従えば我々八〇歳老は終末期における不健康な生活が六年間続くということでもある。

 「平均寿命」八〇年プラス「平均余命」八・五年から終末期に不可避な「病弱、病気、痴呆などによる介護期間」六年を差し引くなら、我々世代が元気で過ごせる年数はせいぜいこれから三年に過ぎない。

人間は確実に死ぬ。この年齢になってみると、長く生きるのではなく、死ぬ寸前まで健康であることのほうが遥かに大切に思われる。

「PPK」(ピンピンコロリ)という言葉がある。元気で長生きして最後は寝付かずコロリと死ぬことらしい。
「ピンピンコロリ」こそが多くの後期高齢者の切実な願いではなかろうか。
(かつて「生涯現役」という言葉が高齢者の理想とされた時期があった。今にして思うにこの言葉にはなにか生臭さが伴う。せいぜい六、七〇歳代ならまだしも八〇歳代でこんな言葉は臆面もなく言えるとは思えない。)

これはなにも本人だけの願いではあるまい。近親者にとっても、また社会全体にとっても寝付かず死ぬことが最も望ましい終末であろう。

高齢者にも社会貢献が求められる昨今の風潮だが、後期高齢者が唯一できる社会貢献といえば、他者に依存しないで生きる高齢者の生活、最低限として自力で食べ・排泄し・移動し・会話できる生活を送ることに尽きるのではないか。

八〇歳を超えると身体状況は明らかに以前とは違う。八〇年も使い続けた肉体の器官だからいろいろ不都合が生じても不思議ではない。
中年以降から徐々に進行していた眼、耳、歯などの器官の衰えは、技術発達のお陰で補正具といわれる眼鏡、補聴器、入歯、などによってなんとかカバーできたが、八〇歳を超えて急速に自覚するようになったのは人間行動に直接的な影響を及ぼす手足の運動能力の衰えである。
 「メタボリック・シンドローム(内臓脂肪症候群)」という言葉が盛んに使われると思っていたら、今度は「ロコモティブ・シンドローム(運動器症候群)」ときた。

他人事として聞き流していたら、なんのことはない我が身にもその切実さが及びつつある。
 床に腰を下ろしてから立ち上がろうとするとき、朝起きてからすぐ階段を下りるとき、床に落ちたコインを拾うとき、瓶の蓋を開けようとするとき、指先が震えて碌な字がかけないときなど、何気ない動作がいつの間にかうまくいかなくなってきている。
こうした加齢による運動機能の不調が進めば、やがては「要介護」への道程をたどることになるのであろう。

 これからはなるべく意識してラジオ体操などできるだけ手足や身体を動かして、その進行をすこしでも遅らせるよう心掛けるほかあるまい。



ところで、この原稿を書いている今日は、たまたま八月一五日、「終戦記念日」である。
原稿を書き始めたのは数日前からだが、その頃からテレビや新聞では「戦争」と「平和」が盛んに取り扱われている。

 戦後六五年、半世紀を大きく超える長い歳月、我々は戦争のない「平和」のうちに生きてきた。
終戦直後の窮乏と飢餓の中で盛んに歌われていた「輝く太陽、青空を、再び戦火に見出すな」という労働歌があったが、その文言どおりに戦争に見舞われることなく「平和」が実現されたのである。

その「平和」、そしてこれからも続くであろう「平和」が我々世代にもたらしてくれた恵みの大きさはまことに計り知れない。

 顧みれば、明治以来の日本は、一〇年ごとに戦争を繰り返してきた。西南戦争、日清戦争、日露戦争、第一次大戦・シベリア出兵、満州事変・日中戦争、そして破滅的な太平洋戦争。

そんな時代背景のなかで庶民の暮らしが幸せだったはずはない。祖父母の時代、父母の時代は常に戦争のもたらす惨禍と隣り合わせて暮らしていた。

それに比して、我々は類まれな幸運の時代に青春期を送り、中高年期ではひたすら前を向いて働き、老年期には気儘に余暇を楽しんでいる。

今年の六月にイギリスの経済平和研究所による「世界平和度指数 (Global Peace Index)」が発表されたと新聞が報じていた。
「平和度」とは外国との紛争、国内殺人事件、テロの危険性、人権保障の水準、軍事費など二三項目を数値化したものだという。
これによると日本の「平和度」はニュージーランド、アイスランドに次いで世界第三位にランクされている。
(ちなみに、次の一〇位までを挙げると、オーストラリア、ノールウェイ、アイスランド、デンマーク、ルクセンブルグ、スウェーデン、オーストラリアで主要先進国は含まれていない。)

 狭い国土の中に一億三千万の人間がひしめきあって住んでいるこの日本で、このような平和が保たれていること自体、他国からみれば奇蹟に近いのかもしれない。

「戦争」のないことを含めて、我々世代は「平和」の果実と、それに支えられ展開されてきた「文明」の恩恵の下で長く生きる幸せを得てきたのである。
六五年の大半は経済の高度成長期にあり、貧しかった戦前には想像できない繁栄の中で生を楽しんでいる。
最近はその経済力にかげりがみられるもののGDPは依然として世界第二位、巷には物が溢れる「豊かな時代」は続いており、我々世代は毎年少しずつ年金が減らされてはいるものの、その恩恵のもとで余生を過ごしている。

われわれ世代を「戦争による不当利得者」といった口の悪い上司がいた。
「戦争があったお陰で、君達はさほどの能力がなくてもそれぞれが属する組織の中で昇進が続けられた」 と彼は言うのである。
高度経済成長に伴って組織が拡大し上位ポストが増える一方なのにこれを埋める優秀な人材の多くは戦争で失われていたから、我々世代は誰でも簡単に昇進できたのだ、というのである。
 いささか悔しい言い草だが、そうした言い分に理があることも確かである。

 今、齢八〇歳、戦後六五年という境目に立って、改めて思を致せば、新しい時代を迎えるために解決されなければならない困難な多くの課題を抱えているとはいえ、我々世代に限っていえば、その恵まれた過去に感謝しつつ、これからの残り少ない歳月にも平安があることを祈るだけである。


[追記]
老い行くことの辛さの一つに、親しい友人や知人が次第に減っていくということがある。

五〇歳代では同世代の人が亡くなるなど思いも寄らなかった。
しかし、六〇歳代になると急に亡くなる人が出始め、七〇歳代では次第にその数は増えていく。

そういうと今いる人に差支えが出そうだが、なんだか「親しい人」「いい人」ほど早死する傾向があるようにも思える。

今日は八月一五日、その前後は「お盆」で故人がよみがえるときでもある。
なんらかのはずみで、早く亡くなった親しかった友や知人を思い起こし、その面影がふっと脳裏をよぎることがある。
そのとき思い浮かべる故人の顔は当たり前のことだが、いずれも生前の若さのままである。

「死者老いず 生者老いゆく 恨みかな」 

 という俳句がある。
菊池寛の作だというが、永六輔が「大往生」(岩波新書)の中で二度も引用している。(同書一一七頁・一四七頁)

私も以前からこの句を知っていた。
しかし、私が記憶していたのは永六輔が引用した句とは少しばかり違う。

私の記憶では
「故人若く 生者老いゆく 憾みかな」
というものであった。

 私は俳句のことは皆目わからない。俳句など作ったこともなければ鑑賞するだけの知識もない。
俳句の良し悪しなど云々するのは烏滸がましい限りだが、この句を詠むと哀切な思いを髣髴させるある情景がおのずと目に浮かぶから、私なりにこれは「名句」に違いないと思っていたのである。

 引用された句と私が記憶する句を並べてみると、私の記憶する句の方がいいように思える。
引用句の「死者老いず」では、なにか理屈が勝ってしまって情感に欠けるように思えし、「死者」と「生者」を対にするより「故人」とした方が私の脳裏に浮かぶ情景には相応しい。
それに「老いず」と「老いゆく」の重複より、「若さ」と「老い」を対置させた方が収まりがいい。

更に言わしてもらえば、引用句にある結びの「恨み」はちょっと頂けないのではないか。
私の勝手な解釈だが、同じ「うらみ」でも、「恨み」とは相手に対する深い否定的な感情、たとえば「怨恨」のニュアンスを感じる。
これに対して「憾み」とはもっと主体的な感情、心に感じる否定的な思い、心残りというか、自分だけが生きていることに対する後ろめたさ悔いといったものまで感じさせ、この場面では相応しいのではないかと思ったりする。
(ひよっとしたら、元の句では漢字ではなく平仮名で「うらみ」とあったのが、いつの間にか勝手に漢字があてられたのかもしれない。)

同じ人が似たような俳句を二つ作ることはないであろうから、どうやらどちらかが思い違いしているのであろう。

今更、原典を確かめる気はないし、調べたいと思っても、もはやそんな根気などありはしない。

三金会の諸兄の中には俳句作りが堪能で、俳句の知識に豊富な方が何人かいらっしゃる。
存知よりの方がおられるなら、なにとぞご教示願いたい。
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1 コメント

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後期高齢者が唯一できる社会貢献 (oyakatahinomaru)
2010-08-30 15:09:56
私はまだ50代ですが、「後期高齢者が唯一できる社会貢献」に納得してしまいました。私も残りの人生(20年から30年?)に向けてそのことを意識して生きていこうと思います。

つい最近、年配の知人から「自尊好縁」という言葉を教わりました。自分を信じて自分の好きなことを徹底してやる、そうすると同じ考えの人が現れて新しい人間関係が生まれる、という意味だと私は受け止めました。有意義な人生を送るうえでの一つの指針になる言葉ではないかと思います。
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