8月25日 (日)
「三金会雑記」の終結がいよいよ直前になった。この次の原稿が最終号となる。1987年に創刊されてから実に26年間、よくぞ続けられたものだと思う。
本日、三金会雑記 105号 秋号 の原稿をword文書で書き上げでメールで編集長に送る。これでひとまず肩の荷が下りる。
「古き良き時代」の残影
前号に、後の三金会の成立につながった諸兄の大学時代の写真を載せたら、
2013-9-30 「黄ばんだ古い写真数葉」 (三金会雑記104号原稿)
三金会雑記が廃刊になる前にその種の写真をできるだけ転載しろという要望がいくつか寄せられた。
その中にはそれらしい写真を持ってる記憶はあるのだが、今はその後六〇年の間に作られたアルバムの堆積の下に沈んでおり、容易にとりだせないから……という物臭さというか横着な意見もあった。
なるほど考えてみれば、私自身古いアルバムを取り出すのにはずいぶん苦労しており、これはもっともな意見に思えてきた。
そこで、せっかく取り出した古いアルバムである。前号に載せた写真だけでなく、三金会に関わる古い写真をスキャナーで取り込み「三金会雑記105五号」に「古き良き時代の残像」と題して原稿とすることにした。
「古きよき時代」? その頃は戦争直後の飢えに象徴される困窮の時代は終っていたとはいえ、はじめの頃はまだまだ貧しい時期だった。「ゲルピン」という言葉が我々の間に行き交っていた時代である。
しかし、お金はなかったしお腹も減ってはいたが、戦前の重苦しい空気から一挙に解放され、どこからも束縛されない、現在よりはるかに自由な空間があり、そしてなによりも私たちは若かった。なにものにも代えがたい「青春」がそこに息づいていたのである。
以来、豊かになった高度経済成長期から景気後退期などを経て今日まで、それぞれの人生の歩みに起伏はあったであろうが、あれほど前途を明るくみて各自が自由に振る舞える時代はなかったように思う。だからあえて「古きよき時代」ということにした。
選んだ写真は、写っている全員が「三金会」関係者、もしくは後の「三金会」の仲間が中心になっている写真のみを探して転載した。
スキャナーを使ってパソコンに取り込む作業をしてみたら意外なことに気付いた。
縦横3㎝くらいの小さな写真をパソコンに取り込み拡大すると、初めて見るようになった写真がいくつかあったことである。こうした写真を見て、「あれっ そんな写真があったのか」と思う人もいるのではないか。
そんなことで、まずは、レディファーストで、三金会に彩りを添えてくれた女性会員を交えた写真から載せる。
この写真の後列男性組は、右から平野哲郎、坂口裕英、一人おいて難波直彦、平野重信、一人置いて小野義秀、一人置いて磯野誠四郎、赤野健、それに後一人と後列が並んでおり、前列女性組は右からは塩谷純子、一人置いて貝島マサ子、長谷川素子、船越弘子(後の赤野健夫人)、そしてあと二人(多分女子高生)が並んでいる。18名中11名が三金会関係者である。
悲しことだがこのうち平野哲郎、平野重信、磯野誠四郎、赤野健、同夫人の五人は今は亡い。
故赤野健が格好良くバットを持っていることから察して、おそらくソフトボールかなにかをした後に写した写真だと思われる。
写真の裏面に1948と鉛筆書きしてあるから時は大学六本松分校教養学部時代である。
その頃は学生運動最盛期で、中村禎里などの共産党分校細胞の連中が眼を光らせていたから、まさか分校の校庭で、男女が集まってソフトボールなどに興じたなど考えられず、どこかのグラウンドを借りるなどの知恵もお金もなかったから、この場所は、当時福岡女專の学生自治会を牛耳っていた塩谷、貝島女史が居るところから察して、どうやら女專の校庭だった可能性が高い。
であるとすれば、この場所は「天神」の須崎、今は福岡の繁華街のど真ん中になっている。
次は、余人を混じえぬ三金会員だけが顔を並べた写真を何枚か掲げる。
いつ、どこで写した写真が判然としない。
ここに写っている二宮清は元三金会会員。「元」というのは「三金会雑記二〇記念号」で水口編集長から「全員出稿」の要請に言を左右して投稿しなかったことから水口の逆鱗に触れ三金会からの除名処分?となったから。
二代目編集長平野の時に復籍の口添えをしたことがあったが、平野は水口の遺言だからと応じてくれなかった。二宮は北九州大学教授(労働法専攻)でその後も私と付き合いがあったが、七〇歳代に亡くなった。
いつのことだったか、九州の最高峰久住山山頂での写真。難波の妹、岡本夫人がいる。4人とも三金会員。
Picasaを使って画像処理してみたが、これ以上には鮮明にならなかった。 ちょっと人物が識別できないが場所は大学の演習室か。左から平野(哲)、平、青野、田村、大森、小野、藤野、吉増、平野(重)?。全員が三金会員。
当時、渡辺通1丁目にあった平の家で、学期末試験の直前に数人集まって俄か勉強をした記憶がある。その時、息抜きと称して勉強そっちのけで将棋を指していた時の写真らしい。
就職の求人案内の掲示でもみているのだろうか。我々の卒業時期は旧制大学と新制大学が同時に卒業し「大卒」が倍になるという学制改革の犠牲となった不運の年であり、しかも不景気の時代だったから、就職が大変な時期だった。それにしてはみんな穏やかな顔をしている。
大学正門前での写真である。裏面には1953.2 と鉛筆書きしているから卒業間近の写真である。
裏に「下関波止場」とある。微かな記憶によれば、山口県のカルスト台地を見に行く途中ではなかったろうか。
最後に、ちょっと艶めくが、大学卒業後の写真である。裏面には1954年クリスマス・イブとあるから、大学を卒業してサラリーマンになるか大学に残るかしていたしていた頃。皆、少し大人っぽくなって、男は背広をきてシャキッと構えている。女性も正装している。
三金会関係者は九名。後にこのうち6人・三組がその後カップルになったのだから真面目な集まりだった。名前を挙げる必要もなかろう。
察するに、その頃はもうそれなりに戦前の生活水準に近づいていたのであろう。
ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の映画「舞踏会の手帳」を連想させるような舞台装置(追憶のなかではシャンデリア輝く豪華な舞踏会場が時を経て訪れてみたら場末のシケたダンス場だった。)だが、その前に飲んだり食ったり、どんな御馳走をたべたか、皆目思い出せない。
こんな集まりをいつも仕切っていたのは平野重信だったから、この集まりもそうだったろう。場所がどこだったかも思い出せない。
《 追記 》
三金会雑記の前号「黄ばんだ古い写真数葉」に青春を回顧する青野橘君の愛唱歌に触れ「歌詞はほぼ記憶しているが題名は知らない」と記した。
その後、湘南に住む日野麻耶会員が「あの歌の題名は「古い顔」というのですよ」と教えてくれた。
(申し訳ないことに、載せた写真のどこにもダントツの美人だった日野さんが入っていないことに気付いた。一緒に写った写真はないのである。その頃は私など相手にしてくれなかったと思うのは僻みか。)
早速、調べてみたら、この歌詞はイギリスの随筆家として知られるチャーラス・ラム(1775-1834)の詩を西条八十が訳し戦前の雑誌「キング」に発表したもの、「古い顔」であった。
原詩は次のようなもの。
The Old Familiar Faces Charles Lamb
I have had playmates, I have had companions,
In my days of childhood, in my joyful school-days?
All, all are gone, the old familiar faces.
I have been laughing, I have been carousing,
Drinking late, sitting late, with my bosom cronies?
All, all are gone, the old familiar faces.
I loved a Love once, fairest among women:
Closed are her doors on me, I must not see her?
All, all are gone, the old familiar faces.
I have a friend, a kinder friend has no man:
Like an ingrate, I left my friend abruptly;
Left him, to muse on the old familiar faces.
Ghost-like I paced round the haunts of my childhood,
Earth seem'd a desert I was bound to traverse,
Seeking to find the old familiar faces.
この西条八十の訳詞に、戦火の下にあった昭和一七年、東北帝大生松島道也が曲をつけ、学生演劇グループの間でひそかに歌われたのが広がったものだとあり、歌詞全文も見つかった。
〽 子どもの頃に遊んでた
学生時代に付き合った
いろんな友がいたけれど
皆みんな今はない
ああ、懐かしい古い顔
〽 夜遅くまで座り込み
笑って飲んだものだった
あの仲良しの飲み仲間
みんなみんな今はない
ああ懐かしい古い顔
〽 恋をしたっけ素晴らしい
美人だっけがあの人も
今じゃ会えない人の妻
ああ、懐かしい古い顔
私の記憶では青野は一番と三番しか歌わなかった。彼は二番の歌詞を知らなかったのだ。もし二番の歌詞を知っていたとしたら、この歌詞こそがあの時代を誰よりも懐かしんでいた彼のことだ。もっともお気に入りの歌詞になっていたことは疑いない。
なお、この歌詞には、その後に四番、五番と続くのだが、この部分は戦没した友を悼むもので、戦後の歌には相応しくなく、あえて割愛した。
いずれにせよ、私は青野に代わってこの歌詞を「三金会雑記」を終えるに当たっての「挽歌」に相応しいと私は思っている。
考えてみれば「三金会雑記」を読みながら、先生の生きていらっしゃる様子を、横から覗き見させていただいたのですね。
知ることのないはずのひとの青春時代を一緒に生きたような気がしています。
すばらしい人生、本当に良かったです!
あとは呆けずに人生を全うすることが願いです。