伊豆高原シニア・ライフ日記

「老い」を受容しながら自然の恵みに感謝しつつ「残躯天所許不楽復如何」の心境で綴る80老の身辺雑記 

12月8日、戦時の思い出

2010年12月08日 | 雑文
12月8日(水)

今日は12月8日、我々世代にとって忘れることができない日である。今から69年前のこの日早朝、連合艦隊が真珠湾を奇襲しわれわれ日本人の運命を変えることになる太平洋戦争が始まったのだから。

今はそれを知る人も随分少なくなったろう。今日のマスコミもこれに触れることはほとんどない。それはあまりにも遠い昔のことだから忘れられても致し方ないことである。

開戦の日は、私が小学6年生を終えようとするときであり、その苛烈な戦争が終わったのは中学3年の時である。

我々世代は前線で戦う「兵隊」ではなかったとはいえ、もはや「学徒」というより実態は戦う「軍需工場労働者」でしかない中学生だった。

中学校に入ってからというもの断続的な勤労奉仕(援農作業や航空基地の道路工事作業)が続いていたのだが、昭和19年3月には「決戦非常措置要綱に基づく学徒動員実施要領」が定められ、すべての中学生は常時勤労動員されることになり、当時大分中学2年生だった私は大分航空隊基地に隣接する「第12海軍航空廠」に動員された。

同級生はそれぞれ小隊に分けられ、航空機課、機関課、精密機器課、補給課などの部門に配属されたが、私を含む40名前後の配置箇所は会計課の「リザイ工場」、会計課と聞こえはいいが「理財」ではなく「利材」、つまり着陸などに失敗し大破した飛行機の機体から使える部品を取り出し、その後の機体は鉄とジュラルミンに区分してジュラルミンは簡易溶解炉で溶かしてインゴットを作るという作業。現在のポンコツ屋・解体工場である。

汚く荒っぽい作業だったが、沢山の種類の海軍航空機を扱ったから海軍機種には詳しくなった。

今にしても奇妙にも思えるのだが、この短い苛烈な1年間が私の中学生活の中で最も濃密な時間だったように感ずる。

それは銃爆撃に身をさらして働らかされた動員生活だったからか、生死にかかわるあまりにも多くの出来事を経験し、死を身近に見聞きしていたからであろうか。(利材工場に出役していた40名前後の同級生に死者は出なかったが、重傷者1名。同じ廠内にあった航空機課の鍛治工場では直撃を受け爆死者数名)

第12大分海軍航空廠が接していた大分海軍航空基地は、第5航空艦隊司令部が置かれた特攻作戦基地でもあった。この基地から特攻機は鹿屋基地を経由して飛び立っている。

終戦の日の夕刻には、この基地から司令長官宇垣纏中将が艦上爆撃機「彗星」11機22名を引き連れ特攻出撃をするという出来事もあった。今思えば自殺というべき愚かしい出撃だった。

そんな基地に隣接する航空廠だったから、本土空襲が常態化し航空廠が完全破壊され機能しなくなるまでは絶えず米軍機空襲の標的となっていたのである。

基地・航空廠が最初に空襲されたのは3月18日、艦載機1400機が九州・四国一帯の航空基地を銃爆撃したと記録されており、大分航空基地と航空廠は艦上戦闘機グラマンを主体とする米軍機の波状攻撃が早朝から夕刻まで繰り返された。

瞬時の爆発音と振動で終わる爆撃より、防空壕で身を潜めている我々の頭上で絶えず鳴り響く機銃掃射の方が、今にも体が串刺しにされそうで本当に怖かった。

これが最初に経験した空襲だったが、その後は足摺岬から豊後水道を北上するB29爆撃機や艦載機の通路に当たることから、職場も家も空襲に何度もさらされ、B29の爆撃と艦載機による機銃掃射にも次第に慣れて恐怖心は薄れていった。(大分市街は7月16日、B29、30機による夜間の焼夷弾攻撃で炎上、その後も焼夷弾攻撃があった。幸い我が家は焼失を免れた。なお、家内の家は6月19日福岡空襲で全焼している。)

そんな生々しい戦争経験の記憶だが、毎年12月8日や8月15日がくると思い出すのである。


この日、パソコンでユーチューブの音楽サイトをサーフしていたら、さだまさしが歌う「防人の詩」というのを見付けた。

映画「二百三高地」でさだまさしが主題歌として歌ったものらしい。

さだまさしの歌もよかったが、なによりもそこに映し出された戦争中の海軍機の映像に私は釘付けにされてしまった。


さだまさし 防人の詩


鮮明さを欠く古い映像だが、そこに見た海軍機の多くを私は見分けることができた。

ゼロ式艦上戦闘機・97式艦上攻撃機・99式艦上爆撃機・彗星艦上爆撃機・天山艦上攻撃機?などが見え忘れられない記憶と重なる。

このほか大分航空基地に飛来していた飛行機には、1式陸上攻撃機・銀河陸上攻撃機、紫電局地戦闘機・紫電改局地戦闘機・雷電局地戦闘機・彩雲偵察機などの海軍機、それにたまには飛燕戦闘機・隼戦闘機など陸軍機も姿をみせていた。

ただ、映像に出てくる水上偵察機は知らない。基地に飛来することはなかったし、海上着水に失敗すれば水没するだろうから解体対象にはなかったからである。
もちろん数多く登場する軍艦の名も知らない。

さらに映し出された特攻出撃の姿。なんとも胸が迫る映像である。

私たちは出撃機を直接見送ったことはない。しかし、飛び立った後に上空を旋回するところは目撃している。それが特攻機であることは知らされていた。

この映像を見て、いいようもない辛さと悲しみと、懐かしみを感じる世代がいつの間にかずいぶん少なくなったであろう。

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