東京から伊豆に向かう特別急行は「踊り子号」と呼ばれている。伊豆半島の中央部に当たる湯ヶ島から湯ヶ野までの旧下田街道は「踊り子歩道」と呼ばれている。
これらはいずれも川端康成の小説「伊豆の踊り子」に由来する。
中伊豆から下田に向かう道にはしばしば踊り子とマントを着た一高生の像を見かける。
伊豆の踊り子はあたかも伊豆半島の象徴にでもなったような按配である。
私はかねてからこれには違和感を感じていた。川端康成の「伊豆の踊り子」はたかだか30頁の短い小説に過ぎない。確かに「伊豆の踊り子」という小説には過ぎ去った青春の感傷を呼び起こす何物かがあったように記憶しており、いま読み返してみても短編小説としてはよくできている。だが、所詮それだけのものではないであろうか。
川端康成は日本という島国の美しさとこれによせる日本人の心情を繊細な表現で描き出した小説家とはいえるが、大作家ではなかったように思われる。
ノーベル賞は作品がもたらしたものというより、川端は果たした小説家集団の地位と当時の世界規模の文化事情が反映しただけのものではなかったろうか?
川端康成がノーベル賞を受賞したことがその最初の代表作とも言えるこの小説を過大評価しているのではないであろうか?
もともと私は川端康成がノーベル賞を貰ったことにすら驚いたものである。
「伊豆は海山のあらゆる風景の画廊である・・・伊豆半島全体が一つの大きい公園である。一つの大きい遊歩場である。つまり、伊豆は半島のいたるところに自然の恵みがあり、美しさの変化がある。」(伊豆序説)
「湯「出づ」から、伊豆という国の名が起こったと称える俗説もあるくらいだ・・・伊豆を詩の国とするのは、出で湯より風景だ。海の美しさと山の美しさを持った半島だからだ。・・・伊豆には風景のあらゆる美しさの模型がある。・・・伊豆の海山は男性的なところもあり、より多く女性的なところもなる。何国の男と女と、それも人形のように可愛い。」(伊豆温泉記昭和4年)
「一たいに伊豆は、歩くべきところだ。熱海から伊東へ海岸を歩くのもよい。下田から谷津へ海岸をあるくのもよい。だが、修善寺から下田へ天城を越え、街道沿いの幾つかの温泉を訪ねながら歩くのが、やはり伊豆らしい旅であろう。」(冬の温泉・昭和9年)
ただ、こんな文章もある。この時代(昭和2年)に伊豆高原などない。人の通えぬ雑木林が一面に広がっていたのであろう。「伊豆高原」が開発されたのは昭和30年代後半に伊豆急行が伊東・下田間に開通してからである。
「熱川温泉は宿の部屋から海が見晴るかせるし、山の明るさもいいが、何しろ交通が不便で、伊東温泉あたりから山の乙女のひく馬にでも乗せて貰って行くより仕方ない」(伊豆の印象・昭和2年)
また、その後の昭和9年には「熱海から熱川まで、2時間あまり海岸線を乗合自動車にゆられて参りましたが・・・沖に浮かぶ伊豆の七つの島がここの宿の部屋からきれいに見えます。伊豆の温泉場でも、よそにはないことでありましょう。それから夜空をこがす三原山の御神火が、やはり海の遠くにほの赤く見えます」(熱川だより)とある。私が当地に居住した平成2年。その前年に三原山が噴火し避難騒ぎがあった直後で我が家からも立ち上る噴煙はまだみることができた。
これらはいずれも川端康成の小説「伊豆の踊り子」に由来する。
中伊豆から下田に向かう道にはしばしば踊り子とマントを着た一高生の像を見かける。
伊豆の踊り子はあたかも伊豆半島の象徴にでもなったような按配である。
私はかねてからこれには違和感を感じていた。川端康成の「伊豆の踊り子」はたかだか30頁の短い小説に過ぎない。確かに「伊豆の踊り子」という小説には過ぎ去った青春の感傷を呼び起こす何物かがあったように記憶しており、いま読み返してみても短編小説としてはよくできている。だが、所詮それだけのものではないであろうか。
川端康成は日本という島国の美しさとこれによせる日本人の心情を繊細な表現で描き出した小説家とはいえるが、大作家ではなかったように思われる。
ノーベル賞は作品がもたらしたものというより、川端は果たした小説家集団の地位と当時の世界規模の文化事情が反映しただけのものではなかったろうか?
川端康成がノーベル賞を受賞したことがその最初の代表作とも言えるこの小説を過大評価しているのではないであろうか?
もともと私は川端康成がノーベル賞を貰ったことにすら驚いたものである。
「伊豆は海山のあらゆる風景の画廊である・・・伊豆半島全体が一つの大きい公園である。一つの大きい遊歩場である。つまり、伊豆は半島のいたるところに自然の恵みがあり、美しさの変化がある。」(伊豆序説)
「湯「出づ」から、伊豆という国の名が起こったと称える俗説もあるくらいだ・・・伊豆を詩の国とするのは、出で湯より風景だ。海の美しさと山の美しさを持った半島だからだ。・・・伊豆には風景のあらゆる美しさの模型がある。・・・伊豆の海山は男性的なところもあり、より多く女性的なところもなる。何国の男と女と、それも人形のように可愛い。」(伊豆温泉記昭和4年)
「一たいに伊豆は、歩くべきところだ。熱海から伊東へ海岸を歩くのもよい。下田から谷津へ海岸をあるくのもよい。だが、修善寺から下田へ天城を越え、街道沿いの幾つかの温泉を訪ねながら歩くのが、やはり伊豆らしい旅であろう。」(冬の温泉・昭和9年)
ただ、こんな文章もある。この時代(昭和2年)に伊豆高原などない。人の通えぬ雑木林が一面に広がっていたのであろう。「伊豆高原」が開発されたのは昭和30年代後半に伊豆急行が伊東・下田間に開通してからである。
「熱川温泉は宿の部屋から海が見晴るかせるし、山の明るさもいいが、何しろ交通が不便で、伊東温泉あたりから山の乙女のひく馬にでも乗せて貰って行くより仕方ない」(伊豆の印象・昭和2年)
また、その後の昭和9年には「熱海から熱川まで、2時間あまり海岸線を乗合自動車にゆられて参りましたが・・・沖に浮かぶ伊豆の七つの島がここの宿の部屋からきれいに見えます。伊豆の温泉場でも、よそにはないことでありましょう。それから夜空をこがす三原山の御神火が、やはり海の遠くにほの赤く見えます」(熱川だより)とある。私が当地に居住した平成2年。その前年に三原山が噴火し避難騒ぎがあった直後で我が家からも立ち上る噴煙はまだみることができた。