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京都で定年後生活

2013年3月60歳で定年退職。

美術館と庭園めぐり、京都の四季の行事と花を綴ります。

撞木図子、了頓図子 中京区

2019-08-15 05:41:36 | 京都の町 町屋・建造物


市内中心部の四条烏丸付近の山鉾町にある撞木図子(しゅもくずし)と了頓図子(りょうとんずし)を紹介します。

撞木図子(観音堂東辻子)
中京区にある南北に走る新町通と室町通の間、東西の四条通と錦小路通の間の通りです。
北端は錦通、南端は四条通で、途中新町通に抜ける100mほどの通りです。
T字型の通りが、鉦を鳴らす仏具の撞木の似ていることから「撞木図子」と呼ばれています。

四条通の入口は1階がコーヒー店になっているビルの間を北へ上ります。





ビルとビルの間の通りです。










ここから左にも行けます。





突き当たりが六角通で、近くには祇園祭の霰天神山、占出山の町会所があります。





左折し新町通にも抜けられます。





飲食店が多いです。日中は静かですが、夕方以降は賑わう場所です。










途中、小さな路地があります。




















新町通りに出ました。
放下鉾の町会所です。













新町通り
江戸時代の大店が集まった通りです。





途中の百足屋町の路地です。





町屋の宿泊者があります。





この近くは江戸時代
茶屋四郎の住居があった場所です。



















了頓図子
中京区の室町通と新町通の間、三条通から六角通へ抜ける長さ約100mの路地です。
廣野了頓邸が明治初めまであった場所です。
廣野家は足利家代々の従臣で、安土桃山時代に末裔の廣野了頓は剃髪して、この地に茶亭を構え茶道を広めました。
豊臣秀吉が京に入洛したとき、了頓邸を訪れ茶を点じ、その縁で二百八十石の知行があてがわれます。
その後1594年5月11日には徳川家康が訪れ、古田織部らも同席しています。
江戸時代に入り徳川幕府から知行四百石を受け厚遇され、明治に及びました。
邸地は了頓の意思により、表門から裏門まで一般の通行が許され、表門は将軍家御成門と称しました。

了頓図子
ビルに駒札があります。










六角通から三条通に北上します。








































駒札と石碑があります。



















三条通に出ました。





左は祇園祭期間中鷹山保存会がお囃しをしたり、ちまきを売っていた場所です。





三条通から六角撮影