市内中心部の四条烏丸付近の山鉾町にある撞木図子(しゅもくずし)と了頓図子(りょうとんずし)を紹介します。
撞木図子(観音堂東辻子)
中京区にある南北に走る新町通と室町通の間、東西の四条通と錦小路通の間の通りです。
北端は錦通、南端は四条通で、途中新町通に抜ける100mほどの通りです。
T字型の通りが、鉦を鳴らす仏具の撞木の似ていることから「撞木図子」と呼ばれています。
四条通の入口は1階がコーヒー店になっているビルの間を北へ上ります。

ビルとビルの間の通りです。


ここから左にも行けます。

突き当たりが六角通で、近くには祇園祭の霰天神山、占出山の町会所があります。

左折し新町通にも抜けられます。

飲食店が多いです。日中は静かですが、夕方以降は賑わう場所です。


途中、小さな路地があります。




新町通りに出ました。
放下鉾の町会所です。



新町通り
江戸時代の大店が集まった通りです。

途中の百足屋町の路地です。

町屋の宿泊者があります。

この近くは江戸時代
茶屋四郎の住居があった場所です。




了頓図子
中京区の室町通と新町通の間、三条通から六角通へ抜ける長さ約100mの路地です。
廣野了頓邸が明治初めまであった場所です。
廣野家は足利家代々の従臣で、安土桃山時代に末裔の廣野了頓は剃髪して、この地に茶亭を構え茶道を広めました。
豊臣秀吉が京に入洛したとき、了頓邸を訪れ茶を点じ、その縁で二百八十石の知行があてがわれます。
その後1594年5月11日には徳川家康が訪れ、古田織部らも同席しています。
江戸時代に入り徳川幕府から知行四百石を受け厚遇され、明治に及びました。
邸地は了頓の意思により、表門から裏門まで一般の通行が許され、表門は将軍家御成門と称しました。
了頓図子
ビルに駒札があります。


六角通から三条通に北上します。








駒札と石碑があります。




三条通に出ました。

左は祇園祭期間中鷹山保存会がお囃しをしたり、ちまきを売っていた場所です。

三条通から六角撮影
