川口保 のブログ

1市民として市政を眺めつつ、社会のいろいろな出来事を取り上げています。

3500の灯 第4回深野棚田まつり開催される

2015-10-24 21:20:36 | 日記


 日本棚田百選にも選ばれた、松阪市飯南町深野の「深野だんだん田」で平成27年10月24日、「深野棚田まつり」が開催されました。この祭りは、柿野住民協議会(稲葉丈治会長 会員約600人)深野支部と深野棚田保存会が主催して3年前から行われているもので、今年が4回目を迎えます。この日やほとんど風のない絶好の条件でした。今年は竹の燭台とペットボトルで作った燭台3500本以上の灯が灯りました。
 私はほとんど毎年行っているのですが、この日は初めて来たという大平議長とともに灯りの芸術を楽しみました。

 祭りは午後2時からの開会式に始まり、仮設ステージでは三重大学生によるジャグリングやミニコンサートがあり、あべ静江さんが飛び入りで参加するサプライズもありました。午後3時頃には来場者全員におにぎり・おはぎ・お餅、深野未来汁が振る舞われました。



 午後4時30分から点火式があり、ローソクに一斉に点灯されました。やがて夕闇が迫ってくると、灯りが浮き出てきて、辺りが漆黒の闇に包まれるころ、棚田の畦沿いに設置された灯りが、畦の形を浮き上がらせました。ローソクの炎が竹筒の横穴からチカチカと風に揺れ、何とも言えない素敵な光景でした。今年も子ども達がロ-ソクで作った「フカノ棚田まつり」という文字も闇の中に浮かび上がりました。
 準備していただく方々は大変だったと思いますが、多くの市民が山あいの光りの祭りを楽しみました。

 第1回の祭りの会場で松阪市文化財保護指導委員の野呂修三さん編集の「日本棚田百選 深野棚田の考察」という文書をいただきましたので、全文紹介します。 
 
             日本棚田百選  深野棚田の考察

 稲作文化のなかった縄文期は別として、現在の深野の里は何時ごろより集落化したのかを調べるとき、資料があまりにも少なく疑問が多くありますが、古代の大和と伊勢を結ぶ線上に位置する地点だけに、櫛田川沿いでは比較的に古い時期より水田も開かれていたと思われます。
 江戸時代の文献に、東沖と深世古にまたがって宮城があり、氏神としてお祀りされてきた「東の宮午頭天王八王子社」の社伝に「村の草分けは700年ほど前」とされており、当時より200年を加えると約900年遡ることができ、平清盛の時代頃にはすでに集落ができていたと推測できます。
 また神路山地区の橋ヶ谷には木地屋廣という所があって、数百年以前より、数軒の生地師がすんでいたという伝承も残っています。
 その後永正7(1510)年 伊勢国司6代目北畠材親(きちか)が疱瘡(天然痘)を患って、伊勢国司職を家督の7代晴具に譲り、多くの家臣を伴い隣村の大石村字御所に隠遁しました。いわゆる大石御所と呼ばれる所です。
こ の際元国司の北畠材親に随行してきた家臣たちは、大石御所周辺の原野を開拓して軍事拠点の城郭や狼煙場・馬場等や、狩猟のための狩場を造ったり、家臣団の食料生産の場として荒地を開墾して農地を拡大してゆきました。(現在も地名とつて御所、馬場山、狩場、城山、矢下が残り使われています。)
 深野地区内にある宇長野は、家臣の長野左京の居城長野城があったところで、この辺りを拠点に傾斜地の荒地を開墾して、段々に田畑を作っていったのでしょう。棚田の造成はこのころより本格的に始まったと思われます。この集落は開墾者の名に因み今も「長野」と呼ばれています。
 慶長年間(1596~1615)長野城の奥詰として居住していた郷土の野呂俊光(改名前松本市太夫)は、この地が紙すきに適していることを悟り、美濃の国に赴き紙漉き職人2名を連れ帰り当地で冬場農閑期の副業として、里人達に紙を漉くことを奨励しました。
 時は移り江戸時代、元禄の世となり経済も発展し庶民のくらしも豊かになり、紙の需要も次第に増大してゆきました。ところが紙の生産には立地条件があり、今と違ってどこででも紙を生産するということができませんでした。
 当時紙生産の最適地であった深野は、そのために近在はもとより、遠くは松阪・南島・志摩方面からも、深野へ行けば紙を漉く仕事があるというので、江戸時代中頃より明治初期まで、荒地原野であった夏明地区に人家が集中して、冬場の紙が透ける時期は紙を漉き、紙すきができない夏場に食料生産の場として棚田を造成してゆきました。
 この地方の方言で、原野や荒地を切り開くことを「地明け(ぢあけ)」と呼んでいます。私はこの夏場に荒れ地を地明けして田んぼを造っていったために、地名を「夏明」としたのではないかと推測しています。
 したがって平成11年に日本の棚田百選に認定された「深野のだんだん田」夏明地区の棚田は、元禄時代頃~明治時代(約320年~130年位前)の間に造成された比較的に新しいもので、中世期の開田された長野地区などとは150年以上も後に造られたものです。
 又この夏明地区の狐岩と呼ばれている所には、深野上郷地区の旦那寺として浄土宗宝泉寺というお寺がありますが、当時江戸幕府はキリスト教を取り締まるための宗門改により、夏明地区の入植者は全戸他所4ヶ寺の門徒宗の信者で、宝泉寺の檀信徒ではありませんでした。
しかし現在の様に交通手段が発達していなかった時代の事、普段の弔いは地区内の宝泉寺に以来をしていたために記録が残されていて、江戸中期より明治中期までの間は増加傾向にあり、これは幕府の新田開発奨励も相俟って、夏明地区の戸数増加と棚田の増加が立証されます。当時深野の戸数は250戸、内本郷100戸上郷150戸となっていて上郷集落の方が多くなっていました。
 明治末期から和紙需要の減少に伴い、夏明地区の入植者も次第に減少していきました。
               文責 松阪市文化財保護指導委員 野呂修三      』
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第20回 嬉野宇気郷まつり 開催される

2015-10-24 15:22:57 | 日記
 第20回「嬉野宇気郷まつり」が平成27年10月24日(土)、松阪市嬉野小原町の嬉野宇気郷公民館グランドをメイン会場として開催されました。この祭りは嬉野うきさと村おこし協議会(森下静男会長)が主催して毎年行われるもので、今年は20回記念の催しとなりました。
 私も以前から一度見たいという思いがありましたが、今年やっと行くことができました。

 この日は宇気郷物産・山野草販売、まつり屋台、あまご釣り、ステージ演奏、陶芸実演・展示、散策ツアー、髯山に登ろうなどの企画があり、また宇気郷汁や宇気郷味ご飯なども販売されました。私も宇気郷汁や唐揚げ、うどんなどをいただきました。
 ステージショーでは小山貴美夫さんの司会とものまね、小椋あかり・あや乃藤子・吉田みのるなどプロ歌手の歌謡ショー、しんどう幹司のものまねなど豪華な出演者が祭りを盛り上げました。
 この日は山間の静かなムラも大勢の来場者で盛り上がりました。
 この祭りは私の松阪市の祭り100選に加えました
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松阪もめんフェスティバル2015開催される

2015-10-24 14:11:18 | 日記
 松阪もめんをより身近に感じて、さらに知ってもらおうと「松阪もめんフェスティバル2015」が平成27年10月24日(土)松阪市の中心市街地一帯で開催されました。この催しは、商店主、市民団体、学校、もめん関係者で構成される「松阪もめんフェスティバル実行委員会(吉田正博委員長)」が主催して行われるもので、今回が2回目です。
 私も議長とともに開会セレモニーに参加させていただきました。

 開会セレモニーはカリヨンビル1階で行われ、吉田実行委員長のあいさつ、竹上市長祝辞、田村代議士祝辞などがあり、私たち来賓が紹介されました。この日の来場者は松阪もめんの着物やシャツ、ネクタイなどに身を包んで訪れていました。

 この日は市内の各会場で松阪もめんにちなんだいろいろな催しが、次のように開催されていました。
  ①もめんカフェ⇒松阪もめんにちなんだお菓子が楽しめる
  ②もめんウォーク⇒旧長谷川邸などを巡るウォークラリー
  ③もめんアート⇒旧長谷川邸でもめん作品展
  ④赤壁コンサート⇒もめんを身につけた松工吹奏楽部の演奏
  ⑤もめんファッションショー⇒もめんの着物・洋服・ドレスなどのファッションショー
などが行われました。

 カリヨン3階の「もめん未来」では松阪工業高校 繊維デザイン科の生徒たちが考えた松阪もめんを生かした商品のデザイン画の展示発表があり、そのうちスマホケースや靴などの試作品も展示してありました。この日松阪の市街地は松阪もめん一色になりました。
 この祭りは私のブログ 松阪市祭り100選に記載しました。
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