川口保 のブログ

1市民として市政を眺めつつ、社会のいろいろな出来事を取り上げています。

松阪祗園まつりと蘇民将来

2010-07-17 15:13:38 | 日記
 7月17日、前日まで梅雨の終わりの不安定な天候が続いていましたが、この日は晴天に恵まれ、夏の日差しの中で松阪祗園まつりが始まりました。松阪祗園まつりは初午祭り(2月)、氏郷祭り(11月)と並ぶ松阪の3大祭りの1つで、宵宮の17日には三社みこしや小若みこしが市内で練り歩き、本日の18日にはしょんがい音頭や、松阪鈴おどりなどが行われます。

 祗園祭りは初午祭りと同様に厄除け、厄落としを願う信仰の祭りで、「松阪の文化財案内(市教育委員会発行)」の冊子には『平安時代京都で始まった御霊会(ごりょうえ)に由良し、牛頭天皇(ごずてんのう)を祀る八坂神社の祭りが松阪に波及したもので、以前は旧暦の7月14日、15日に八雲・雨竜・御厨・八重垣の四天王社が行った祗園会であったが現在は松阪・御厨・八雲神社の祭礼としてとり行われている。』と示されています。
 
 松阪祗園まつりは、蘇民将来伝説に支えられた夏祭りで、もともと雨竜神社のみで行われていたものが、ほかの神社でも行われるようになったものです。雨竜神社(雨竜天王)は蒲生氏郷が入城以前からあった古い神社で、もともとの位置は現在の殿町のカトリック教会付近にあり、明治41年に松阪神社に合祀された時には魚町にありました。また八重垣神社(毘沙門天王)は西町にあり、同じく明治41年に松阪神社に合祀されました。
 
 牛頭天皇はスサオウノミコトのことです。蘇民将来伝説とはスサオウノミコトが旅の途中、ある村で宿を請うたところ、金持ちの弟の巨旦将来(こたんしょうらい)は「家が貧しいから」と断ったが、貧しい兄の蘇民将来(そみんしょうらい)は「汚い家でよかったら」と泊めて親切にもてなしたということです。翌日スサオウノミコトは身分をあかし、「疫禍あれば茅の輪を作り門に懸けよ」と教えました。その後疫病が流行った時、蘇民将来は茅の輪を掲げ、一家は災禍から逃れることができ、子孫の代まで栄えたということです。一方の巨旦将来の子孫は皆、絶えてしまったそうです。

 この蘇民将来伝説の舞台となったのが、伊勢市二見の蘇民の森・松下社です。この地方ではしめ縄には「笑門」ではなく「蘇民将来子孫家門」と書かれたものを飾ります。また「蘇民将来子孫家門」と書かれたお札もよく見かけます。「岩手県で1000年の歴史のある蘇民祭もこの蘇民将来を祀る祭りです。
 松阪祗園まつりの神輿もこの「蘇民将来」を掲げて町を練り歩きます。