豆の育種のマメな話

◇北海道と南米大陸に夢を描いた育種家の落穂ひろい「豆の話」
◇伊豆だより ◇恵庭散歩 ◇さすらい考
 

土屋武彦著「パラグアイから今日は!」、恵庭の本-6

2020-05-19 16:38:15 | 恵庭散歩<本のまち、私の本づくり>

新型コロナウイルス(COVID-19)が世界中で猛威を振るい、WHOは2020年1月31日緊急事態を宣言した。日本でも4月7日(7都府県)、4月16日(全国)、5月3日(延長)に緊急事態宣言を発し、外出自粛や休業要請が行われる事態となった。
本書「パラグアイから今日は!」(土屋武彦著、A5版196ページ、2020年6月1日発行)は、外出自粛の機会を活用し取りまとめたもの。無線とじ自家製本。先の「ラテンアメリカ、旅は道づれ」(土屋武彦著、A5版246ページ、2020年3月1日発行)の姉妹編にあたる。 
著者は、かつて国際協力事業団のプロジェクトでアルゼンチンとパラグアイ両共和国に派遣されたことがある元専門家。長い南米での滞在経験をもとに取りまとめ、このたび上梓した。挿入した多数の写真はいずれも著者の手による。


一年後の2021年6月1日改訂第二版を発刊した。業者によるオンデマンド印刷製本である。目次の赤字項目を補筆している。

(写真左は2020年6月1日発行の自家製本版、写真右は2021年6月1日発行の改訂版)

出版趣旨と内容をご理解いただくために、「はじめに」「目次」「あとがき」を引用する。目次の赤字は改訂版で追加。

 

◇ はじめに
アスタ・マニヤーナ(Hasta mañana)。直訳すれば「朝まで、明日まで」の意味のスペイン語だが、別れの挨拶として「また明日ネ」の感覚で使う。和西辞典で「さようなら」を検索すると、アデイオス(Adiósしばらく会わない別れ)、アスタ・ルエゴ(Hasta luegoその日のうちにまた会う場合、また後で)などの用例と併せて記載されている。親しい間柄では別れしなに手を挙げて、イタリア由来のチャオ(Chao)で済ませることもあったが、アスタ・マニヤーナは最も頻繁に使う挨拶だった。
時を経るに従い、このアスタ・マニヤーナには、「明日があるさ、何をアクセクするの」という意味が含まれているのではないかと思うようになった。もちろん理屈があるわけではないが、ラテンアメリカの人々は貧しいながらも陽気でおおらかな生活を送っていて、何事にも「明日があるさ」とどっしり構えている大人ように見えたからである。日本は高度成長期で誰もが働き蜂の時代であったから、当時の私にとってこの言葉は新鮮で羨ましくさえあった。これがラテンの気質なのかと思った。
時代が変わり日本ではいま、少子高齢化、温暖化、環境問題が顕在化し、行き過ぎた消費文化や過度な競争社会に対して警鐘が鳴らされている。地球環境問題を考えるとき、もう急激な成長を求めることは出来まい。贅を求めずシンプルに、自然を守り、愛する家族や仲間とゆったり暮らす幸せを享受する時代(成熟時代)に入ったと言えるだろう。いわゆるアスタ・マニヤーナの感性が大事になってきたのではあるまいかと、南米で暮らした昔を思い出している。
本書は、筆者が仕事の関係で南米のアルゼンチンとパラグアイで暮らした頃の記録である。地球の反対側で生活してみると、ラテンの人々の気質や暮らしぶりに戸惑うことも多く、彼らが作り出してきた文化や歴史は非常に興味あるものだった。また、日本と大きく異なる自然も珍しく、今でも当時の感慨が鮮明に蘇ってくる。
アルゼンチンでの暮らしは、1978年(昭和53)から1984年(昭和59)にかけて4回、延べ2年4か月間。今から40年ほど前の事で、筆者もまだまだ若かったが、為替相場は1ドルが250円、天文学的なインフレーションの時代であった。また、パラグアイには2000年(平成12)から2008年(平成20)にかけて3回、延べ5年間滞在した。こちらは、現役を退いてからの仕事だったので比較的ゆとりがあり、生活を楽しむことが出来た。
本書は、ラテンの国で暮らした折々の出来事を「落穂ひろい」のように集めたものである。内容は些か統一性に欠けるが、これらの国々に対し親近感を懐いて頂ける端緒になれば幸せである。そして、アスタ・マニヤーナの一端に触れて頂けたら有難い。
本書は先に上梓した「ラテンアメリカ、旅は道づれ」(2000)の姉妹編。併せてご覧下さい。

 

◇目次構成
はじめに  

第1章 南米からの便り

(1)パラグアイからの便り

1  パラグアイ国から今日は! 初年目、友への便り(2000年)

2  やはり日本から遠い国です(2006年)

3  セマナ・サンタのパラグアイにて(2006年)

4  近況報告申し上げます(2006年)

5 広報カレンダーの絵となる(2006年)

6  親愛なる皆様、いかがお過ごしですか(2007年)

7  大豆新品種公表とプロジェクト終了式典(2008年)

8  パラグアイ政府からの感謝状(2008年)

9  パラグアイ政府は記念プラカを掲げて謝意を表した(2008年)

10  元旦にフェリシダーデスと電話あり(2014年)

(2)アルゼンチンからの便り

1  アルゼンチン雑感(1979年) 

2  総理官邸での昼食会(1979年)

3  アルゼンチンの人々(1980年)

4  フォークランド戦争の中で(1982年)

5  研修員のことなど(1984年) 

6  パンパ平原に君の姿は良く似合う(1984年)

7  アルゼンチンの大豆教科書に記された日本の協力(2001年)

8  歴史に刻まれたとみるべきだろうか?(2001年)

第2章 南米の暮らし
1  ゴミの話  
2  釣銭は飴玉ですか、アスピリンですか? 
3  新札はどこへ消えた  
4  セニョリータと呼ばれたくない  
5  ロマーダで車のスピードを落とせ  
6  運が良かった? 南米の車社会は事故と紙一重  
7  異国での講演会  
8  南米人の気質  
9  グアラニー語、言葉は民族のアイデンテイテイー  
10  南米で暮らした家 

第3章 南米の食事
1  アルゼンチンの主食はアサード 
2  ブエノス・アイレスの焼き肉レストラン「ラ・エスタンシア」
3  世界を養う「マンジョカ」 
4  家庭の食事 
5  飲むサラダ「マテ茶」の作法 
6  エンパナーダとチパ 
7  南米でエントラーダ(前菜)に何を選ぶ? 
8  南米のデザート、「アロス・コン・レチエ」とは何だ? 
9  海外では食中毒に気をつけろ  
10  パパイア、甘さが強く独特の癖がある 
11  南米の香り懐かしマラクジャ(パッションフルーツ、時計草)  
12  マンゴーを食べ過ぎかぶれた話 
13  ジャボチカバ、木の幹に白い花が咲きブドウが実る? 
14  タマリンド、果肉を食べる豆 
15  南米で和食を御馳走する  

第4章 南米の動植物
1  遠目には満開の桜、ラパチョの花に望郷の想いが募る  
2  聖なる木、「パロ・サント」 
3  ケブラッチョ、斧も折れる硬さ、皮の「なめし」に使われた  
4  酔っぱらいの樹パロ・ボラーチョ  
5  バルサ、中南米原産の世界で最も軽い木  
6  ハカランダ(ジャカランダ)  
7  パラグアイの森林事情と木材加工品  
8  アルゼンチンの国花「セイボ」 
9  大豆試験圃場でのできごと 
10  南米の蟻と蟻塚、大豆畑でも蟻にはご用心 
11  ツリスドリの群がるのをみた  
12  南米の鳥と聞いて君は何を思い出す? 
13  アルゼンチンの国鳥「オルネーロ」(カマドドリ) 

第5章 南米の民芸品
1  アオポイ、パラグアイを象徴する繊細な刺繍の綿織物  
2  ニャンドウテイ、「蜘蛛の巣」と呼ばれるパラグアイ刺繍  
3  銀細工のボールペン  
4  サボテンの民芸品、アルゼンチンのフフイにて  
5  パラグアイ神話の主人公  
6  インカローズとカルピンチョ 
7  チリのお土産 
8  アルパとボトル・ダンス 
9  パラグアイの画家「ルーベン・シコラ」の水彩画  
あとがき

 

◇ あとがき
アルゼンチン共和国、パラグアイ共和国、どちらも日本から遠い国である。ちょうど地球の反対側にあるため、成田からニューヨーク、サンパウロを経由してブエノス・アイレスやアスンシオンまで約30時間余りのフライト。この年齢になると体力的にも「これは無理だ」と感じるが、当時はまだまだ元気だった。数えてみると、アルゼンチンへは5往復、パラグアイへは6往復している。
アルゼンチンへ国際協力事業団から専門家として派遣されたのは1978年で、小学校4年と5年生の子連れ、しかも初めての海外だったので戸惑いや苦労が多かった。派遣前の研修がなかった時代で、スペイン語も分からないまま外国人の中に放り込まれた暮らしは、子供たちや妻にとってストレスは想像を絶するものだったろうが、よく耐えたと感謝している。一方、パラグアイは2000年からで、妻と二人だったこと、日系社会が近くに存在したこともあり比較的余裕があった。
アルゼンチンとパラグアイでの体験は時代も国民気質も異なるので一括りにできないが、ラテンの生きざまに「なるほど、こういう生き方もあるか」と感じることが多く、いつかラテンアメリカの人々の暮らしや文化を紹介する機会があればと考えていた。本書は、両国で暮らした折々のエピソードをかき集めた記録、全て妻との弥次喜多道中記である。二人ともスペイン語が堪能と言う訳ではなく、何とか生活ができる程度の会話力だったので、中には誤った認識があるかも知れないが、ご容赦願いたい。
昔々の記憶を紡ぎながらの編纂作業だった。写真を整理していると、お世話になった多くの方々の顔が次々と浮かんでは消え、今も彼の国にいるような錯覚にとらわれ、「元気にしていますか」「お会いしたいですね」と思わず呟いた。本来なら、お世話になった方々のお名前を挙げ謝意を表したいところだが、割愛させて頂く。
時が過ぎて、二人とも「終活」「断捨離」の言葉が似合うような年齢となった。人生の記憶を整理し記録に残すのも悪くないだろうと考えて、本書を取りまとめた。いわば回顧録の一コマ、履歴書(自叙伝)の1ページとも言えるようか。
本書を手に取りご笑覧賜った皆様、ラテンアメリカの暮らしに興味を持ち「南米に行ってみようか」と思われたら、筆者にとって望外の喜びである。有難う。
2020年6月1日
恵庭市恵み野の草庵にて   著者

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

土屋武彦著「ラテンアメリカ、旅は道づれ」、恵庭の本-5

2020-03-28 13:09:26 | 恵庭散歩<本のまち、私の本づくり>

著者は、かつて国際協力事業団のプロジェクトでアルゼンチンとパラグアイ両共和国に派遣された経験を有する元専門家。長い南米での滞在経験をもとに、「ラテンアメリカ、旅は道づれ」と題する私家本をこのたび上梓した(2020年3月1日)。A5版246ページの自家製本(無線とじ)で、カラー写真を多く含んでいる。挿絵の地図や写真はいずれも著者の手による。
閲覧の要望が多かったことから、業者に依頼し第二刷をオンデマンド印刷製本した。A5版276ページ、2021年6月1日発行。6月1日発行の第二刷版はモノクロ印刷であるが、本文の理解を深めるために付表(旅の記録)を添付した。

 

(写真左は2020年3月1日発行、写真右は2021年6月1日発行の第二刷版)

出版趣旨と内容をご理解いただくために、「はじめに」「目次」「あとがき」の文章を本書から引用する。

 

◇はじめに
旅とは何だろう? 人は何故、旅をするのか? そんな思いを潜在的に抱きながら、長い間生きてきた。
人類にとって旅の始まりは、狩猟時代に獲物を求めて移動したことだと言われる。歴史的には、その後の巡礼や神社詣でなど宗教的な旅、居住地を求め、或いは弾圧を避けるための民族大移動、先進地への遊学ブームなども時代を代表する旅の姿であった。近年では観光や買い物ツアーなどがあげられようか。しかし、旅の本質はもっと個人的なもので、目的もなくふらりと旅立つような姿を想像するのは私だけだろうか。
あなたにとって旅とは? の問いに、「人生そのもの」「心の洗濯・癒し」「新しい出会い・発見」「非日常」「冒険心」「知識欲求・冒険欲求」など多様な答えが返ってくる。それで良いのだと思う。誰にだって夫々の事情があり、旅に出るのだから。
本書は、筆者が仕事の関係で、南米のアルゼンチンとパラグアイで暮らした頃の旅の記録である。地球の反対側で暮らしてみると、ラテンの人々の気質や暮らしぶりに戸惑うことも多く、彼らが作り出してきた文化や歴史は非常に興味あるものだった。また、日本と大きく異なる自然も珍しく、今でも当時の感慨が鮮明に蘇ってくる。
アルゼンチンでの暮らしは、昭和52年(1977)から昭和59年(1984)にかけて、延べ2年4か月間。今から40年ほど前の事で、筆者もまだまだ若かったが、為替相場は1ドルが250円の時代であった。また、パラグアイには平成12年(2000)から平成20年(2008)にかけて、延べ5年間滞在した。こちらは、現役を退いてからの仕事だったので比較的ゆとりがあり、休暇にはたびたび遺跡を訪ねた。
ラテンアメリカでは紀元前から16世紀までアンデス文明が栄え、コロンブスが新大陸を発見したのを契機に大航海時代が到来、16世紀から18世紀にかけてはスペインやポルトガル支配の時代であった。その後、ヨーロッパからの移民の時代を経て、19世紀には各国が独立戦争を経て近代国家となった。現在は農業国として栄え、日本からの移住者も多数活躍している。
今回旅した国々は、全てスペイン語圏であるが、原住民言語も公用語にしている国が多い。いわば、多民族、混血の大陸である。もちろん、治安が悪い地域もあるが、人々は総じて明るく、親切である。ラテンの国々は、「オーラ、アミーゴ」「コモ・エスタ?」「アスタ・マニヤーナ」と、旅人を誘う。

 

◇目次構成
はじめに 
第一章 アルゼンチンの旅  
1  ブエノス・アイレスに遊ぶ 
2  大豆の都と呼ばれる町がある  
3  コルドバの地名で思い出すのは? 
4  マル・デル・プラタ、アルゼンチン最大のビーチ・リゾート  
5  メンドーサのワインとアコンカグア展望  
6  北西部のサルタとフフイ、「雲の列車」とウマワカ渓谷
7  世界最大イグアスの滝、「何だ、こりゃあ!」 
8  南米のスイス「バリローチエ」
9  世界最南端の町ウスアイア、哀愁を感じる町だ 
10  世界の果て国立公園、テイエラ・デル・フエゴ 
11  最果ての海峡「ビーグル水道」、鉛色のうねりにオタリアが群れる
12  ペリト・モレノ氷河クルーズとウプサラ氷河探訪 
13  アルゼンチン心の詩集「ガウチョ、マルテイン・フィエロ」
14  南米大陸へ最初に渡った日本人、フランシスコ・ハポン
15  アルゼンチンの大牧場主「伊藤清蔵博士」、札幌農学校から世界へ 
16  パンパ平原を札幌生まれのガウチョが駈ける「宇野悟郎氏」

第二章 ウルグアイの旅  
1  ウルグアイ東方共和国モンテビデオ 
2  世界遺産の町コロニア・デル・サクラメント 

第三章 パラグアイの旅 
1  イエズス会の遺跡トリニダを訪れる
2  信仰の町カアクペ、パラグアイ巡礼の道  
3  ボケロンのユートピア、原住民はどう思う?  
4  ピラールの牛は腹まで水に浸かって草を食む 
5  パラグアイの豆乳飲料、フルテイカ社を訪ねる 
6  パラグアイ最初の日系移住地「ラ・コルメナ」
7  戦後初の計画移民の地「チャベス」 
8  パラグアイ大豆発祥の地「ラパス」
9  周到に進められた直轄移住地「ピラポ」
10  最後の直轄日系移住地「イグアス」 
11  ジョンソン耕地に抱いたコーヒー生産の夢は大豆で実ったか?「アマンバイ」 
12  日本人は山へ帰れ・・・ 

第四章 チリの旅 
1  パイネ国立公園を行く 
2  君はアンヘルモでクラントを食べたか? 
3  サンチアゴに雨が降る  
4  チリのアカプルコと呼ばれる「ビーニャ・デル・マル」 
5  旧都、天国のような谷「バルパライソ」 
6  南米チリに渡った最初の日本人  
7  英雄詩人パブロ・ネルーダと革命家チエ・ゲバラ 
8  年間降水量が1.1ミリ、チリ北部のアリカ 
9  世界最高所のチュンガラ湖に水鳥が遊ぶ  
10  イースター島の旅、モアイは歩いたのか? 悲しみの顔は何を語る 

第五章 ペルー、ボリビアの旅  
1  リマ、黄金の都はどうなった? 
2  ナスカの地上絵、何のために描いたのか? 
3  クスコ、インカ帝国の都は黄金の輝き 
4  マチュ・ピチュ、インカの失われた天空都市、ミステリアスな想いに浸る
5  チチカカ湖、トトラの浮島で子供らは歌う 
6  チチカカ湖再訪、高山病で急遽サンタクルスへ、友との邂逅  

第六章 メキシコの旅  
1  アステカ神殿の上に立つ大聖堂、メヒコの旅の始まり  
2  君は「国立人類学博物館」を訪れたか? 
3  テオテイワカン遺跡のピラミッド 
4   陶器「タラベラ焼き」とグルメの町「プエブラ」 
5  チョルーラに昔の栄華を偲ぶ 
6  コロニア様式の町「タスコ」に遊ぶ
7  殉教壁画に「太閤さま・・・」、クエルナバカ大聖堂 
8  カンクン、一度は訪れたいカリブ海のリゾート
9  チチエン・イッツア、森に埋もれるマヤ遺跡 

第七章 スペインの旅(17世紀中南米で覇権を握った国)  
1  ガウデイとサグラダ・ファミリア聖堂  
2  カタルーニャの芸術家たち 
3  落日に染まるアルハンブラ宮殿 
4  石柱の森のメスキータ、宗教に共存はあるか? 
5  ラ・マンチャの風車 
6  スペインの農業 
7  プラド美術館でみる夢 
8  ソフィア王妃芸術センターの「ゲルニカ」
9  マドリード王宮、豪華絢爛スペイン王室の歴史 
10  ラス・カサスに学ぶ、「ビラコチャと見間違えた」では済まされない 

第八章 アメリカ大陸の歴史  
 1  アメリカ大陸、移民の歴史 
 2  新大陸における農耕文化の起源と新大陸原産の作物たち 
 3  文明を変えた作物「大豆」、新たな開拓者
あとがき   

 

◇あとがき
ラテンアメリカ、日本から遠い国である。情報が瞬時に世界中を駆け巡るような時代になっても、わが国の新聞やテレビが彼の国々のニュースを取り上げる機会は少ない。
しかし、ラテンアメリカは旅人にとって魅力的だ。アンデス文明、パンパ平原、パタゴニア、アルゼンチンタンゴ、リオのカーニバルと聞くだけで心が踊る方も多いだろう。筆者はかつてアルゼンチンとパラグアイに通算七年余り暮らし、ラテンの生きざまに「なるほど、こういう生き方もあるか」と感じ入っていた。そしていつか、ラテンアメリカの人々の暮らしや文化を紹介する機会があればと考えていた。
本書は南アメリカを中心とした旅の記録、全て妻との弥次喜多道中記である。行く先々の旅行会社の紹介で現地ツアーに参加し、インフォメーション・オフィスを頼りに街を歩いた時の印象を綴っている。二人ともスペイン語が堪能と言う訳ではなく、何とか旅ができる程度の会話力だったので、中には誤った認識があるかも知れないが、ラテンアメリカについて少しでもご理解いただけたなら幸いである。
昔々の旅なので記憶を紡ぎながらの編纂作業だった。写真を整理していると、旅の先々でお世話になった多くの方々の顔が次々と浮かんでは消え、今も旅の延長線上にあるような錯覚にとらわれ、「元気にしていますか」「またお会いしたいですね」と思わず呟くのだった。本来なら、お世話になった方々のお名前を挙げ謝意を表したいところだが、あまりにも多いので割愛させて頂く。
時が過ぎて、二人とも「終活」「断捨離」の言葉が似合うような年齢となった。人生の記憶を整理し記録に残すのも悪くないだろうと考えて、本書を取りまとめた次第。いわば回顧録の一コマ、履歴書(自叙伝)の1ページとも言えるようか。本書ではラテンアメリカの暮らしや文化については触れていないが、次に予定している冊子「パラグアイから今日は!」に譲りたい。
本書を手に取りご笑覧賜った皆様、ラテンアメリカに興味を持ち「旅に出て見ようか」と思っていただけたなら幸甚です。有難う。
2020年3月1日

恵庭市恵み野の草庵にて 著者

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冊子「幼少期の記憶」発刊、恵庭市長寿大学大学院第十七回生、恵庭の本-4

2020-02-29 15:28:23 | 恵庭散歩<本のまち、私の本づくり>

令和2年3月、手作りの小冊子「幼少期の記憶」(A5判、72ページ)が発刊された。編集発行は、恵庭市長寿大学大学院第十七回生「幼少期を語る会」。編集から印刷製本まで手作りの小冊子。12名の高齢者が幼少時の記憶をたどり、自分の言葉で記録に留めようと試みた、貴重な一冊である。彼らは、歴史的なスパンの中で今をみつめている。
発刊の意図と内容をご理解いただくために、本誌から「はじめに」「目次」「編集後記」を引用する。

◇はじめに
私たちは歴史から多くを学ぶことが出来る。戦争体験からは今後二度と戦争を起こしてはならぬと思い、どうしたら戦争を回避できるかを考える。地震や水害の被災体験からは堤防を築き安全な場所に住むことを考える。私たちは、歴史の教訓を現在の暮らしに生かし、未来設計に役立てているのだ。
ところで、歴史とは何だろう? 歴史は、古文書や公文書、映像、遺跡などに残された記録を掘り起こし、それらを検証し、集大成したものと言えるのではあるまいか。この時の資料は国立国会図書館に集積されるような公の記録に限定されるものではなく、市井の人々の暮らしの記録も価値ある資料となり得る。従って、私たちが次世代に語り継ぐこと、記録に残すことは極めて重要と思われるが、記録を残すことに対して私たちはかなり無頓着である。
この冊子は、恵庭市長寿大学大学院第十七回生の仲間が「幼少期を語る」と題して、子供の頃の記憶を辿りその一端を取りまとめたものである。著者の年齢は69歳から83歳なので、幼少期と言えば第二次世界大戦終盤から戦後の復興期にあたる。今の若い皆さんには、知らないこと理解できない場面が多々あろうが、これも真実、歴史の一コマなのだ。この冊子をお読みになった皆さんが、「こんな時代があったのか」と些少なりとも何かを感じ取って頂ければ有難い。
戦後、個人の権利と自由を尊重する個人主義が過剰なまでに浸透した結果、核家族化が進み、三世代同居の家は少なくなった。当然のことながら、爺婆が孫たちに昔の体験を語る機会も少なくなった。今の若い皆さんは、戦争の悲惨さや戦後の貧しさを教科書で習う歴史の一事象としか認識していないだろう。いつの日か、この冊子を読んだ孫たちが戦争戦後の暮らしを知り、「爺婆は無人島でも生きる残る知恵がある」と思い、「豊かさとは何か? 幸せとは何か?」を考えるに違いない。本誌には、そんな思いと期待を込めた。
高齢者にとって、昔を思い出すこと、文章化すること、編纂することはかなり大変な作業であった。五木寛之は「若者に対する年配者のアドバンテージは圧倒的な記憶の集積にある。高齢者は積極的に昔話をしたほうがいい」と述べているが、私たちもその言葉を信じ、思い出すこと書くことは「脳の活性化に役立つだろう」と作業に集中した。そして、本日ここに本冊子を上梓できたことは喜ばしい。
巻末には、私たちが生きた時代背景を理解頂くために、年表「私たちの生きた時代とその背景(昭和~令和)」を添付した。内容に誤りがあるかも知れない。ご叱正、ご指摘を賜れば幸いである。

目 次
幼少期の記憶(大﨑能永)
思い出すこと(本林尚之)
幼少期の想い出(宮﨑健一)
私の幼少期(菊田 曠)
私の幼い日思い出(竹山惠美子)
幼少期の記憶(コスモスの花)
私の幼少期(小山田やす子)
今は亡き母と五歳の引き揚げ記(佐々木満里子)
幼少期の食の思い出(千目留利子)
子供の頃の思い出(牧田妙子)
幼少期の思い出(水正幸江)
幼少期、記憶の断章(土屋武彦)
編集後記
付表、私たちが生きた時代と背景(昭和~令和)
〇表紙画「サイロの見える風景」=坂田眞利子
〇本文写真・イラスト=土屋武彦 

◇編集後記
平成30年4月に恵庭市長寿大学大学院に進学した私たちは、これまでの4年間とは違う、より深化した学習の場を模索していた。自主学習として取り組む案件を探していた。そんな折、懇親会の場で「子供たちはゲームに夢中、外で遊ばなくなった」「昔は暗くなるまで、友達と遊んでいたね」「家の手伝いがあたり前だった」「今の子供たちは、戦争の悲惨さも戦後の苦労も知らないだろう」等々の会話が広がった。
この会話には、スマホの深みにはまった孫たちを「ちょっと困ったものだ」と思いやる心と、今の世の便利さは確かに嬉しいことだが一方で、「異常気象」「環境汚染」「格差拡大」「排他主義」など何処かがおかしいと思い、隠蔽と傲慢な振舞いは歴史の中の「いつか来た道」に通じるのではないか、と時勢を憂える心が透けて見える。急激な経済成長や文明進化の過程で何かが変わり、何かを忘れてしまったのではないか、こんな時世だからこそ昔の体験を語り継ぐ意味があるのではないかと、私たちは考えた。
折しも、平成30年9月6日午前3時7分、北海道胆振東部地震発生、そして北海道全域停電。いわゆるブラックアウトは電気に依存した文明社会の欠陥を思い知らされる出来事であった。大勢の人々が食糧や電池を求めて走り廻る中で、怪我はなかったかと周りを気遣い、比較的落ち着いていたのは戦後を生きた高齢者であったように思う。この災害をきっかけに、昔を振り返り、語り、記録に残そうと言う機運が高まった。
〇 おしゃべり会の案内(院一学年通信第12号、平成30年12月5日)
〇 第一回「昼食会&おしゃべり会」(学年行事、平成31年1月30日)
〇 第二回「昼食会&おしゃべり会」(学年行事、平成31年4月24日)
〇 発刊協議(院二学年通信第7号、学年別自主学習、令和元年9月4日)
おしゃべり会には延べ69名の方が参加、十数名の方から貴重なお話を伺い、「そうだったね、私もこんな経験がある」と話が展開、有意義な時を過ごした。戦時・戦後の体験談からは二度と過ちを繰り返してはならないとの思いを強くした。そして、多くの方が「生きてきて良かった、今は幸せだ」と話を結んだ。冊子発刊協議で、「趣旨は理解できるが、語りたくない人もいる」「誰が読むのか」などの意見が出されたため、原稿提出は任意とし、有志(幼少期を語る会)として取りまとめることにした。
当初、各自の原稿は800~1,600字程度を想定したが、著者の熱い思いを汲み原文尊重、最終的には長短混載とした。「幼少期」の捉え方は各自多様であるが、貴重な体験、個性豊かな作品に出会えたことは幸いである。また、執筆を予定しながら期限の関係で寄稿できなかった方もいらっしゃるが、大学院修了前の発刊にこだわり取りまとめたのでご容赦を。これに懲りず、幼少期の記憶を語り続けていただけたら有難い。
本誌は、編集から印刷、製本まで手作りの簡易製本誌である。この拙い冊子に関心を持ち、ご一読頂いた皆様には心から感謝を申し上げる。
最後に、本冊子発刊に際し、議論に参加しご協力頂いた親愛なる学友の皆さん、長寿大学という学びの場を提供頂きご指導賜った大学事務局に対し、深甚の謝意を表します。有難うございました。 
令和2年3月15日       
恵庭市長寿大学大学院第十七回生「幼少期を語る会」(文責土屋武彦)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幼少期、記憶の断章

2020-02-11 13:56:55 | 恵庭散歩<本のまち、私の本づくり>

2020年3月発行の冊子「幼少期の記憶」(恵庭市長寿大学大学院第17回生「幼少期を語る会」編)に、以下の文章を寄せた。

幼少期、記憶の断章

◇ 追想、一枚の写真
一枚の写真が手元にある。3.5×5.0cmと小さなサイズで、色褪せ、しかも折れ曲がった跡が付いている。写真は、陽だまりの筵の上で男の子が犬と一緒に日向ぼっこをしている構図で、後方に家の板壁が写っている。季節は冬だろうか、帽子をかぶり、綿入れの着物に前垂れを掛け、大きな目を眩しげにしている。これは、唯一残っている幼い頃の写真である。この写真を眺めていると、撮影したのが昨日のような錯覚に捉われるが、1~2歳とすれば記憶に留まっている筈もない。場所は小学校を卒業するまで暮らした生家の庭先である。
生まれたのは、山間に僅か25戸が暮らす奥伊豆の小さな集落である。集落を流れ下る渓流は、下田港に注ぐ稲生沢川水系の一つであるが「沢」と呼ぶほうが相応しい佇まいで、沢蟹と小エビが生息する小さな流れであった。茅葺の生家があったのは集落のどん詰まり、あとは茅場に繫がる山道があるだけの一番奥まった狭い台地で、近くに山の神を祀る「子之神社」と6戸の家があった。
時代は太平洋戦争が始まって間もなくの頃で、男達は戦線や開拓へと次々に駆り出されていた。米の強制供出も始まっていたが、山奥の農家には戦線のひっ迫感はまだ伝わって来なかった。脳裏に浮かぶ幼年期の映像といえば、農作業に明け暮れる祖父母と母の姿。畑の隅で籠に入れられ眠っていたこと、夜なべ仕事に炭俵を編む祖母、牛の搾乳や給餌する父母の姿、寝しなに祖父が話してくれるお伽噺、祖母に手を引かれて神社に詣で武運長久を祈ったこと・・・。
だが、平穏な暮らしの中にも、4~5歳になるころには迫りくる敗戦の足音が聞こえていた。金属類回収令が出され「これは出す、出せない」と揉めていた祖父母の声、軍事用にラミーや棉を作ることになった話、ゼロ戦用に松脂をとる話に「松脂で飛行機が飛ぶのか」と不思議に思ったこと。空襲警報が発せられる度に防空壕に潜み、頭上を越えて下田市街方向に急降下する敵機の姿に慌てて畑の中に伏せたことが思い出される。
このような時代であったから、小学校入学以前の父の記憶は少ない。両親に甘えた記憶もない。両親は働きずくめ、物心つくころには父が出征していたので、親子の触れ合いは少なかった。どちらかと言えば、長男として祖母の庇護下にあって、家の中の立ち居振る舞いと心構えを躾られていたような気がする。
父がガダルカナルから帰還し静岡日赤病院で療養中との一報が入り、祖母に手を引かれ会いに行った時のことが、父との記憶では最も古い。父は白衣を着て痩せ細った姿で笑っていたが、寄りつけず祖母の背に隠れていた。後年、老いた母は「母ちゃんと呼ばれたことが一度もない」と語ったと伝え聞いた。父の思いはどうだったろうか? とふと思う。両親とも既にこの世にいない。

◇ 囲炉裏端は「学び」の場
部屋の中央に囲炉裏があり、薪を焚くので煙が出る。煙は屋根裏に上り、茅葺屋根の排気口から外に排出される仕組みになっているが、柱や戸棚、屋根を支える梁や竹材は煤で黒ずむ。その結果、燻製のように、建築材に防虫・防腐効果をもたらしていた。柱や戸棚は毎日雑巾がけするので光沢を帯びている。
「家の柱は、黒檀で出来ているのだ・・・」と、叔父(父の末弟、当時旧制中学)が冗談めかして言う(黒檀であるわけがない)。
「黒檀? それは何だ?」「インド南部の木で、とても貴重で・・・」と言いながら、囲炉裏の灰を均して、火箸で地図を描く、「ここが日本で、こっちがインド(天竺)・・・」と。
この叔父は、いつも文字や算数を「謎かけ」してきた。「十、百、千、万、次の位は?」「糸に冬って何だ?」。恐らく、正しい答えに喜び、分からないと泣いて悔しがるのが面白かったのかも知れない。気が小さいのに時折大胆で負けず嫌いと言う性格は、どうも生まれつきらしい。叔父は囲炉裏の灰に火箸で字を書き、消しては書くのを繰り返して漢字の練習をしていた。
大人たちは夜なべしながら、村の事、戦争の事、やりくりの事、農作業の予定、明日の天気などの話をした。それらの会話は、子供たちの耳にも自然と入って来た。囲炉裏端は「学び」の場であったと言えるだろう。
「囲炉裏の灰で栗を焼くときは、硬皮の一部を剥いて焼かないと破裂する」。誰それの失敗談として語られ、「猿蟹合戦」へと話は進展する。
「鉄瓶の口から上がる湯気で火傷をする」。熱湯はもちろん熱いが、湯気でも火傷をする。誰某の火傷の跡は、鉄瓶を自在鉤から下ろそうとしたときの火傷だと子供に注意を促す。
昔の日本家屋で良い所は囲炉裏があったことだろう。囲炉裏端は夜に家族が集う場所で、囲炉裏の火を囲んで家族がいつも対面していた。だが、戦後75年「自由主義」「個の尊重」が過剰浸透した結果、社会が潤いをなくしてしまったように見える。家族のつながりも組織のコミュニケーションも、行き着くところ「対面が重要」と言うことなのか。

◇ 異邦人のような来訪者たち
太平洋戦争末期には下田市街や伊豆大島からの疎開者があった。「何故、大島の人は水桶を頭に載せて運ぶのか?」「何故、町の子は色白なのだ?」と、祖母の背に隠れながら聞いたものだ。山奥で暮らす子供にとって異邦人との最初の出会いとも言える体験だった。
代わって物々交換で食糧を求める女性や物乞いがこの山奥にまで訪れる時代となった。赤子を背負った婦人が、縁側で乾かしていた南瓜を指さして、「南瓜を譲ってくれませんか? この着物を置いてきます」。「着物は要らないから・・・」と祖母は台所の蒸した薩摩芋と一緒に渡した。また別の日にやって来た脚の悪い乞食には、一合ほどの米か握り飯を施すのを遠くから眺めていた。
太平洋戦争に突入し働きづくめだった時代、そして戦後の貧しい混乱時代にも、山奥の集落へ来訪者がなかった訳ではない。例えば、「富山の薬売り」「養蚕技術者」「牛の人工授精師」「行商」等である。子供心には、彼らはいつも異文化を纏ってやってきた。
富山の薬売りは、重ね葛籠を大きな風呂敷で背負ってやってきて、各戸の薬箱を点検し使用分を補填、新しい薬に詰め替える。熱が出た、食あたり、虫に刺されたと言っては富山の置き薬の世話になり、余程の大怪我でもなければ病院に行くことも無かった時代である。「反魂丹」の匂いだったのか独特の薬臭さと、葛籠に魔法のように詰められた薬の多さに驚いたりもした。紙風船が子供らへのお土産だった。
後で知ったことだが、売薬回商のきっかけは元禄3年江戸城腹痛事件だと言う。それから三百年余、つい最近まで、全国津々浦々で「一人の商人と顧客」と言う形の商売が続いてきた。この成功の要因には、利潤追求を最優先させる現在の商いに対し「顧客本位の商い」という理念があるという。これこそ究極の商業原理ではないかとの指摘もある。さらに、薬売りの傍ら、種もみやレンゲ種子を広め、田植え定規や富山犂の普及指導など地域貢献の姿が見られる。富山の薬売りには伝道師の一面もあったのだろう。

◇ 百姓の時代
太平洋戦争が行き詰り、そして敗戦(4歳半の時に終戦を迎えた)。終戦直後の日本は物資が不足し、混乱の時代であった。大人たちは直向きに働きながらも、時代の変化に戸惑っていたように思う。
水があるところには一畳ほどの広さでも稲の苗を植えた。うどんや雑炊のために麦を、豆腐・味噌・醤油を造るために大豆を播いた。お祝い用に小豆も忘れず、胃袋を満たすために薩摩芋や南瓜を植え、油用の菜種を播いた。鶏の餌にと粟や黍を、牛の飼料にと燕麦、玉蜀黍、蓮華草も忘れない。また、家の周辺には、柿、蜜柑、栗、枇杷、桃、無花果などの果樹、椎茸の種木があった。
春には、蕨、薇、独活、蕗、明日葉、野蒜、筍など山野草の旬を味わい、秋には自然薯(じねんじょ)を掘った。加工にも生活の知恵が生かされていて、何処の家でも味噌を作り、冷暗所に安置された醤油樽は醗酵促進のため毎日かき混ぜていた。豆腐や蒟蒻ももちろん自分で作り、梅干し、紅生姜、辣韭や漬物、干し芋、切り干し大根、干し柿、乾燥薇など保存食も揃えていた。
養蚕は数年続いた。春になると母屋の座敷を通して棚を作り、種卵が配布される前には部屋を密閉して燻蒸消毒をした。製糸会社から配布された卵が孵化したら羽箒で蚕座に移し、寒い日は炭火で部屋を暖め、稚蚕(1齢から3齢)のうちは桑の葉を刻み、壮蚕(5齢)になると葉をそのまま与えるが、早朝から深夜まで多数回給桑する作業は一か月弱続いた。蚕が桑を食む「バリバリ」という音に目を覚ますと、祖母や母がうたた寝していることが多かった。熟蚕になると繭を作らせるために藁で編んだ「蔟(まぶし)」に移した。蛹化した繭は羽化する前に製糸会社に出荷したが、祖母はくず繭から糸を繰り、機織り機で布を織った。
数頭の乳牛を飼育していたが、給餌、搾乳、敷き藁の管理など忙しい作業であった。牛乳生産が目的であるが、牛糞堆肥の生産も重要であった。化学肥料が手に入らない当時は、人糞尿(溜桶で醗酵)も利用していた。糞尿からメタンガスを採ろうと大人たちが話すのを聞いて、燃える気体に興味を覚えた。
鶏は放し飼いであったが、夜は野犬や鼬を避け小屋の高い所で眠り、猛禽が近づくとかなりの距離を飛ぶことを知った。ある年、鶏の孵化を請け負った。鑑定士が雛の性別を見分けるスピードに、職人技とはこういうことかと驚きもした。百姓の時代は子供もそれなりに働き、幼少時の体験を通じて知識が蓄積された。
さて、このような多様な農業はいつ消えてしまったのだろう? 戦後の経済発展は若い労働力を都会に集め、農業後継者が里山からいなくなった。昭和四十年代以降急激に進んだ機械化により、規模拡大が進み農業は単純化した。大規模・単品目栽培は確かに効率的で生産性は向上したが、土壌を損ない、地球環境を壊しているのではないかとの指摘もある。

◇ 珠玉の味が忘れられない
小学校に入学したのは昭和22年4月。太平洋戦争が終わって一年半が過ぎたばかり、物資はまだ不足していた時代である。ランドセルではなく軍隊が使っていた背嚢を再加工した鞄を背にしての入学だった(風呂敷包みの子もいたし、藁草履が通常の履物だった)。同級生は34名、一学年一クラスの山村校である。運動場は50mの直線走路を取ることが出来ないほどの狭さで、前年まで運動場には薩摩芋が植えられていた。弁当を持参できない者や幼い弟を背負って来る子も珍しくなかった時代である。
家から学校までの距離は2km余り、標高差が160mほどある山道を歩いて通学した。「道草するな」と言われてはいたが、帰り道は誰もが遊びながら帰った。夏には川で泳ぎ、小魚を獲った。遊び疲れた空腹を路傍の果実が癒してくれた。「山イチゴ」の赤い実は光沢があり、瑞々しく、口に含めば甘さが広がった。「桑の実」「さくらんぼ」「山ぶどう」は実が黒く熟れると食べ頃で、小鳥と競うように食べた。口の中が青く染まり母親に見つかるのが嫌で、沢の水で口を漱ぐが簡単に消えるものではなかった。「あけび」は紫色の実が割れ、中に種子を包む胎座が白く集まっていて、上品に甘い。口に含み、舌先を使いながら残った種子を吹き飛ばして食べるが、次第に面倒になり、「種子のまま食べても大丈夫だ」と言うことになるのだった。「グミ」「やまもも」も美味しいと思った。
秋には、「山栗」「椎の実」を拾った。「山栗」「椎の実」は縄文人の主食になっていたと言うから、昔から自生していたのだろう。渋皮を歯で剥いて生で食べればコリコリと甘みが拡がる。「椎の実」はフライパンで炒って食べると滅法美味しかった。水に浸して浮いてくる虫食い粒を除き、炒ると厚皮が割れ、子供でも簡単に実を取り出せた。熱い実を掌で転がしながら口に運んだ。
どの家にも子供がいて、毎日のように群れていた。メンコやベイゴマが流行していたが、椿に集まる「メジロ」のさえずりを聞き、「鳥もち」で捕獲し、蝉やカブトムシを追うのも楽しみであった。遊び疲れるとニッキの根を掘って、その皮をかじった。泥がジャリッと口に付くこともあったが、辛味と独特の芳香は疲れを癒した。ニッキはクスノキ科の常緑樹で、樹皮から香辛料(シナモン)が作られる。生薬の桂皮である。子供らは何時も遊びに暮れていたが、自然の中で夢を育んでいたように思う。
ちなみに、この山奥は今でこそ不便であるが、当時の古道を辿れば容易に山を越え、「谷津」に下り「河津」に出ることが出来た。駿河湾を一望できる尾根の道を右に下れば、「下田」へ通じていた。古道は、昭和30年頃まで生活道路と言えたが、今は木や竹が繁り茅に埋もれて通ることが出来ない。古道を復活させれば、伊豆を訪れる旅人の楽しみが増えるだろにと、余計な事を考える。

◇ 竹、今昔物語
生家の近くには竹の群生地が多かった。記憶に残る名前は、「孟宗竹」「真竹」「破竹」「女竹」「矢竹」の5種類であるが、正確にはもっと多かったかも知れない。何しろ、竹は世界中に1,200~1,500種、日本にも600種あると言う。
孟宗竹は「筍」「竹皮」「竹材」などに利用するため、竹林として管理されていた。孟宗竹の筍は、地面が盛り上がったのを足の裏で見つけては掘り取る。掘り取る時期や鍬の入れ方、皮の剥し方などにもコツがあった。アク抜きを要し堅い食感だが味わい深く、料理の仕方も多彩であった。一方、破竹や真竹の筍は伸びたものを手で折り取っても軟らかく、中でも破竹はアク抜きせずに美味しく食べることが出来た。
竹の生長は早い。数日で天を突くほどになった。筍が伸びるにつれ竹皮が剥がれ落ちる。竹皮を拾い集め乾かしたものは、握り飯を包むのに重宝していた。また、竹皮は細く裂いて草履を編むことも出来た。新しく伸びた竹の稈には白い粉が吹き、指先で文字や絵をかいて遊んだ。
真竹は、エジソン電球のフィラメント(京都の石清水八幡宮産で成功)としても知られる。真竹の稈は、弾力性があり曲げにも強いことから、竹籠など加工して使われることが多かった。祖父が、6尺ほどに切った竹を何本かに割り、その割り竹をくねらせながら「竹ヒゴ」に削ぐ作業を、手品を見るように眺めていた。
「木もと、竹さき、と言って、竹は細い先の方から刃を入れるのだ」と言う。「木もと、竹さき? ふーん」。この言葉は、後になって何度も「なるほど」と頷くことになる。薪わりや木材にカンナ掛けする場合、根元に近い方から刃を入れればスムースに処理でき綺麗に仕上がる。一方、竹材では太い方から刃を入れると先端が等分されないことが多い。
女竹の藪は川辺など広範囲に存在していた。不動尊を祀る滝の上に、矢竹の群落が一か所だけあった。矢竹は節が滑らかで、矢、筆軸、釣竿、キセル等に利用される種類だが、子供心に「綺麗な竹だ」と感じ、その群落を秘密にしておくことにした。当時、仲間の間では紙玉鉄砲、杉玉鉄砲を作って遊ぶのが流行っていたからである。
紙玉鉄砲は、竹を輪切りにし細長い円筒としたものを胴、その内径より細い竹の棒をピストンにし、紙を噛んで丸めたものを玉にする。まず一つの球を筒の先端まで押し込み、次の球をピストンで押し込みながら空気圧で最初の球を飛ばす遊び道具である。同様に、「杉玉鉄砲」は杉の雄花を玉として使い、「草の実鉄砲」は草の種子(名前を忘れた)を玉にした。
小刀(肥後の守)を手に入れてからは、女竹や矢竹を転がしながら筒を切って、この道具を作って遊んだ。その他にも竹を使った遊び道具は、竹トンボ、凧、竹馬、釣竿、メジロを飼う鳥籠、ウナギやモズク蟹を獲るモジリ(竹筒)などがあった。手が届かない高い所の柿や蜜柑を採るにも、竹の先を割った竿を使った。また、当時の日用品にも手作りの竹製品が多かった。竹籠、ざる、箕、網代、簾、団扇、簀子、箸、しゃもじ、柄杓、火吹き竹、箒、物干し竿、樋など挙げればきりがない。茅葺屋根や土壁など建材としても、野菜の手竹や稲の乾燥架などにも使われていた。
不思議なもので、「これらの竹製品を作ってみろ」と言われたら、今でも何とか完成させることが出来る。幼少時に見ていた作業工程が蘇ってくるのだ。幼少時体験は生活の知恵として蓄えられる。例えば藁草履作りにしても、藁を叩き柔らかくして縄を綯い、足の指に縄をかけて藁を編む工程が、祖父の姿と重なって現れる。下駄づくりも同様、木材をブロックに切り、鋸とノミを使って歯を作り、カンナを掛け、焼いた鉄箸で穴をあけ、鼻緒を通す・・・。
一方、集落から若者が消えてからは、放置された竹林が里山にまで拡がり、山一面が竹に覆われる現象が見られる。いわゆる「竹害」である。「これでは駄目だ」と里山自然回復運動がようやく緒に就いたが、他の植生と共生出来る環境を整備するためには、パンダの餌も結構だが、アクチブな竹の利用促進が重要である。竹材、竹工芸品、竹炭、竹酢液など可能性は大きいが、問題なのは対応できるマンパワーと企画調整力だろう。バイオマスとしての活用も面白い。
21世紀の今この山奥に住む人は消え、残念なことに竹と雑木が繁茂している。野生の猪、鹿、猿が闊歩している。先日、久しぶりに子之神社に詣でたが、祠は森に埋もれ、父が晩年に奉納した石の鳥居は苔むしていた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ダイズの大百科

2019-02-19 14:49:42 | 恵庭散歩<本のまち、私の本づくり>

平成311月の或る日一冊の書籍が届いた。農文協(農山漁村文化協会)発行の「丸ごと探求!世界の作物」シリーズ「ダイズの大百科」国分牧衛編56p3,500円)である。編集局の求めに応じて2枚の写真を提供したことに対し、謝辞と本が完成したので寄贈するとある。

扉には、「さまざまな食品として利用されるダイズは、私たちの毎日の食生活に欠かせない作物です。東アジアでは古くから五穀のひとつとして大切にされ、イネとともに農耕や食文化を形づくってきたダイズは、いまでは油の原料としての役割も加わって、人びとの暮らしや産業を支えるだけでなく、世界を動かす作物にもなっています。そんなダイズと人間のかかわりを、地球規模の動きに注目しながらみていきましょう」とある。出版社と編者の意図を示すものだろう。

内容は、大百科と言うだけあって、作物の成り立ちと特性から、栽培技術、日本と世界の情勢、加工と利用、展望まで網羅している。

 写真が多く、文章の漢字には全てルビが振られている。小学高学年から中学生を対象にしたような作りだが、単なる紹介本・学習本でなく、内容は極めて全うで一般読者の欲求にも耐えうるものだ。ちょっとした時間にパラパラと開いて、ダイズの全てが分かる。そして、問題点も考えさせてくれる。

「こんな本はいいなあ」ふと呟く。編者とほぼ同時代に生きた育種家の感想である。

◆目次

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

前田桂子著「北海道開拓を支えた高知県人」

2018-02-26 10:51:06 | 恵庭散歩<本のまち、私の本づくり>

2月某日,高知県南国市在住の前田桂子さんから一冊の書物が届いた。「北海道開拓を支えた高知県人,土佐藩の箱館探査から昭和の許可移民まで」と題する出版物で,A4402ページの大作である(写真)。北海道開拓150年の年に,本書が出版されたことを嬉しく思う。

氏の挨拶文によると,67歳から高知短期大学に学び,専攻科の時まとめた論文「大河のごとし礎を醸成した聖園と北光社の開拓精神,先人たちの子孫を訪ねて」,及び高知大学大学院での論文「高知県の北海道移民史,許可移民制度の成立過程と実態分析からの再検討」を柱に加筆し,自費出版したとある。

本書は,第1部:土佐藩と蝦夷地(土佐藩の箱館探査,坂本龍馬の蝦夷地開発計画),第2部:明治期渡道した高知県人(北海道支配地の被命,札幌農学校の土佐ボーイたち,湧別原野開拓の祖徳弘正輝,武市安哉と聖園農場,前田駒次と北光社),第3部:根釧原野を拓いた高知県人(許可移民制度と現地実態調査)の3部構成となっている。特徴は,関連資料の調査と実態調査のために,北海道の現地に足を運び,多くの関係者から聞き取りをした努力が大成されたことにあろう。

帯には,「始まりは幕末,土佐藩の箱館探査」「土佐の自由民権運動者たちは北見の地にキリスト教の里を拓かんと移民団を送った」「艱難辛苦の移民団はカボチャ弁当で陳情を重ね,網走―北見―池田間に鉄道を完成させた」「根釧原野は死の荒野だった」「許可移民台帳から浮かび上がる移民像」「北海道随一の酪農地帯を拓いた高知の許可移民の実像に迫る」「北海道厚岸町にあり,高知小中学校」の文章が付されている。

そして何よりも,「第62回高知県出版文化賞受賞作品」の文字が躍る。受賞を喜びたい。

因みに,氏との最初の出会いは,拙著の「恵庭散歩(1)恵庭の彫像」「恵庭散歩(2)恵庭の記念碑」の記事(「恵庭稲作事始め,中山久蔵より前に稲作を試みた高知藩」「恵庭北の零年,開拓の先駆け高知藩」)をブログで読んだので,資料として利用したいので冊子を送って欲しい旨の電話を受けたことによる。面識はないが,高齢にして(失礼)本書を取りまとめ出版された行動力に敬意を表したい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

力強い北海道農業の構築に向けて、技術が明日を拓く ~品種開発の観点から~

2018-01-18 17:42:34 | 恵庭散歩<本のまち、私の本づくり>

昨年、在札の某研究所所長から、会報の特集記事「力強い北海道農業の構築に向けて」の執筆を求められた。その任にあらずと断っていたが、断り方が下手なため、下記のような拙文を公表することになった次第。後になってみると忸怩たる気持ちが残るが、想いは単純で「北海道農業の明日を拓くのは技術革新」「技術開発への投資が必要」と言いたいのである。

詳しくは掲載誌をご覧いただきたい・・・そして願わくば、当研究所の活動にもご理解賜り、北海道農業の応援団になって頂けると幸いである。

 

はじめに

北海道の耕地面積は全国の約4分の1を占め、多くの農産物生産量が全国1位です。全国生産量に対する道産の割合は、甜菜の100%を筆頭に、菜豆97%、小豆92%、馬鈴薯80%、小麦66%、生乳53%、蕎麦42%、大豆36%と高く、玉葱、南瓜、スイートコーン、長芋、大根、人参なども高い出荷量を誇ります(平成28年度)。また、冷涼な気象条件、昼夜の温度格差はクリーンで高品質な農産物生産に適し、北海道ブランドは高い評価を得ています。

 このように、わが国食糧生産の多くを担うまでに発達した北海道農業ですが、その歴史は開拓から数えて僅か150年、険しい道程でした。発展の原動力となったのは、開拓から農業振興に携わった人々の弛まぬ自活への熱望と実践であり、寒地に適応する技術開発により北海道農業を支え続けた技術力でありました。

北海道は主業農家が7割を超え、1戸当たりの経営耕地面積が全国の15倍と大規模経営ですが、一方、地方の人口減少、高齢化や担い手不足など深刻な問題も顕在化し、先行きは必ずしも安穏ではありません。グローバル化の観点で物事が論じられ、混沌の時代だからこそ、敢えて、農業の拠りどころとなる技術開発の重要性を考えてみたいと思います。

1. 技術が先導した北海道農業の歴史

(1)稲作

 北海道における稲作の歴史は、1692年(元禄5)文月及び大野村(現北斗市)での試作に始まります。しかし、高温作物である稲を寒地で栽培する試みは困難を極め、道南に稲作が定着したのは19世紀中頃でした。その後、1873年(明治6)に中山久蔵が島松沢で「赤毛」の試作に成功し、稲作は空知、上川へと広がりました。

当初は、北陸や東北地方から導入した稲籾の中から北海道で栽培可能な品種を選び、雑駁な集団から優良個体を見つけては増殖を図る繰り返しでした。「赤毛」「坊主」誕生については、苦難に満ちた闘いの記録が語り継がれています。明治中期に農事試験場が開設され、1913年(大正2)から交配育種が開始されると、品種改良は大きく進展します。従前の穂重型品種から短稈・穂数型の強稈品種へ、度重なる低温年での安定生産を目指して耐冷性強化、化学肥料の使用で多収を目指すようになると耐肥性や耐病性(いもち病)強化が図られるなど、時代に対応した改良が進められました。その結果、強稈多収の「富国」、耐肥・耐病・多収性の「農林20号」「栄光」、早生種の「しおかり」、機械移植の普及にともない「イシカリ」「ゆうなみ」など多くの品種が誕生し、農業発展に寄与しました。

 しかし、1970年(昭和45)前後から国内産米が過剰基調となり(北海道でも123万トンの生産量を記録した)、時代は量から質への転換期を迎えます。食味が劣る北海道米は危機的な状況にありました。そこで、1980年(昭和55)に「優良米早期開発プロジェクト」を立ち上げ、低アミロース専用アナライザーの導入、暖地での世代促進栽培、葯培養による育種年限短縮、育種規模の拡大など関係者の総力を挙げた事業が展開されました。その成果は、「キタヒカリ」「ゆきひかり」の誕生を足掛かりに、「きらら397」「ほしのゆめ」、さらに「ななつぼし」「ふっくりんこ」「おぼろづき」「ゆめぴりか」など良食味品種として結実しました。

一方、栽培技術では、府県式水苗代から直播栽培へ、さらに安定生産のための温床苗代・畑苗代へと進み、第二次世界大戦後に農業資材(ビニール、肥料・農薬など)が投入されると昭和30年代は単収向上の時代でした。昭和40年代以降は機械化が進み、平成の時代に入ると極良食味米生産、省力・少資材栽培などが重要課題となり、栽培技術は一段と進展しました。

北海道稲作は、北限の地における安定生産への挑戦、府県産良食味米を凌駕しようと挑戦した歴史でありました。その推進者は生産者自身であり、行政、生産団体など関係者が一体となった推進力に負うところが大きく、新品種など技術革新の支えがあって成就したものと言えましょう。

(2)畑作

大豆の事例を見ましょう。北海道における大豆栽培最古の記録は1562年(永禄5)ですが、一般農家栽培は1870年頃(明治初期)道南で始まり、本道内陸の開拓にともない増加を続け、栽培の中心は道南から道央を経て十勝地方へ移行しました。全道の栽培面積は、1961年(昭和36)の大豆輸入自由化まで約50年間、6~8万haで推移しています。

大豆に関する試験は、明治初めに七飯開墾場、札幌官園、札幌農学校が導入品種の適否試験を実施していますが、実質的には1895年(明治28)十勝農事試験場が設置されてからと言えます。当初は、各地に適する品種選定試験が中心で、「大谷地」「石狩白」「鶴の子」「赤莢」などが選定され、純系分離育種法では「大谷地2号」「石狩白1号」「赤莢1号」等を選抜し普及に移しました。

1926年(大正15)から交配育種を開始し、当時被害が大きかったマメシンクイガ耐虫性を目標に「大粒裸」「長葉裸」など無毛茸(裸)品種を育成しました。また、第二次世界大戦直後に世に出た「十勝長葉」は、既存品種に比べ大幅な多収を示したことから栽培が拡大し、戦後の食糧増産に貢献した品種として記録に残ります。本品種は晩熟であったため度重なる冷害で被害を受け、耐冷性の「北見白」「キタムスメ」「キタホマレ」が育成されるとこれら品種に置き換わり、中粒褐目品種(秋田大豆銘柄)は道東地方及び道央水田転換畑の基幹品種として長く栽培されました。

昭和20年代には十勝地方の豆作率が50%を超え、シストセンチュウ被害が顕著となり、十勝支場では東北地方の在来種「下田不知1号」の抵抗性を導入した「トヨスズ」を育成しました。「トヨスズ」は短稈、耐倒伏性で作り易く、大粒白目の良質性が評価され急速に普及し、全道大豆栽培面積の50%以上を占めました。特筆すべきは、大豆輸入自由化後に国内生産が減少し続ける中、海外産で代替えできない良質性が輸入嵐の防波堤となった事実です。その後、「トヨスズ」の改良型である「トヨムスメ」「トヨコマチ」「ユキホマレ」が育成され、今も北海道を代表する品種となっています。さらに、中国原産の「Peking」からシストセンチュウ強度抵抗性を導入した「スズヒメ」「ユキシズカ」も開発されました。

一方、昭和40年代に入り農作業の機械化が進む中、豆類の収穫作業は機械化が遅れていました。十勝農試ではタイ国品種から難裂莢性遺伝子を導入した「カリユタカ」を育成し、その後の「ユキホマレ」「トヨハルカ」などコンバイン収穫を可能にしました。また、納豆用の「スズマル」「ユキシズカ」、枝豆・製菓用の「大袖の舞」、煮豆用として評価の高い「いわいくろ」など多様な用途向け品種が開発され、実需者の高い評価を得ています。

以上、北海道の大豆作は冷害や病害虫との戦いでしたが、収量及び品質の向上に加えて、耐冷性、センチュウ抵抗性、ダイズわい化病抵抗性、機械化適応性などが着実に進歩し、最近は重要特性を複合的に具備する品種が誕生しています。

大豆以外にも、歴史の分岐点となるような技術開発が数多くありました。例えば、小麦の耐病性及び加工適性向上、馬鈴薯のセンチュウ抵抗性や多様な食用加工用品種の開発、小豆の土壌病害抵抗性品種の開発などが挙げられます。北海道農業発展に果たした技術開発の貢献度は計り知れません。

 

(3)先人の言葉

これまで見てきたように、寒地気象条件への対応、各地域に適応する品種創出、病害虫への抵抗性付与、省力化のための機械化適性向上、実需や消費者が望む品質向上など、多くの努力の積み重ねがあって北海道農業は発展してきました。

北海道における農業研究は、札幌農学校や開拓使試作場(官園)の時代から「農は実学」との信条で進められてきました。現在も続く揺るぎない考えです。今から80年前、北海道農事試験場長、北海道農会長などを務めた安孫子孝次氏は、「・・・農村非常時に直面し農業合理化を叫ばれて居る今日、その合理化の基礎ともなるべき農業技術の改善は、一日も忽せにすべからざることを痛感せらるるのであります。(中略)凡そ健全なる農家、農村を建設せんとするには農業を経済的に経営するにあります。農業の経済的経営は各種の科学を取り入れ、優秀なる技術により合理的に応用するにあるのであります・・・(北農創刊号巻頭言、昭和9)」と、技術に支えられた農業の重要性を述べています。寒地農業は技術に裏付けられ、技術開発によって進展するとの考えは今に通じるものです。

2. 技術開発のこれから

(1)対応型育種から提案型育種へ

農耕を始めた当初から、人々は食料確保のために、収量の多い個体を選び次年度はその種子を播くというような作業を繰り返してきました。以来、育種目標は、生産性の向上、安定生産を基本に進んできました。広大な北海道では、地域ごとに適応する品種開発も重要でした。病虫害の被害が拡大すると抵抗性をターゲットに、品質や食味向上が求められるとそれらを目標に改良が進みました。いわば、「対応型育種」でした。

課題への迅速対応はこれからも重要ですが、その上で、新たな特性を付与した品種を開発し実需者に利用を促す、戦略育種を目標に加えるのは如何でしょうか。健康志向に沿った品種開発なども一例です。多様な用途を対象にした「提案型育種」の試みです。

(2)重要性を増す遺伝資源

交配育種の成否は母本の能力に掛かっていると言っても過言ではありません。どの品種を交配親に選ぶかは育種家の経験がものをいう場合が多く、多数の遺伝資源を保有していなければ勝負になりません。例えば、水稲では良食味改良のために、府県産やカリフォルニア産の良食味品種、低アミロース突然変異系統などが使われ、大豆のシストセンチュウ抵抗性育種では東北地方の在来種「下田不知1号」や中国原産の「Peking」、大豆の難裂莢性ではタイ国の「SJ2」などを利用し成果を上げています。海外からの導入遺伝資源を含め、多様な育種素材の蓄積が必要であることが理解できます。

わが国では農業生物資源ジーンバンク(農業食品産業技術総合研究機構遺伝資源センター、つくば市)が稲2万5千、麦3万、豆類1万6千など総計約11万点を保有し、利用に供しています。北海道でも道総研中央農業試験場遺伝資源部(滝川市)が約2万8千点を管理しています。生物の多様性条約(1993)が結ばれてから、植物遺伝資源の重要性の認識と共に権利意識が広がりました。世界各国とも、それぞれの国の責任において遺伝資源を保護しています。もし遺伝資源が一企業の財産となったらどうなるか、自由度は極めて制限されるでしょう。

(3)進化する育種手法

北海道における品種改良法は、在来種や導入品種の選定試験、純系分離育種を経て、およそ100年前から交配育種が開始され、現在も交配によって拡大した変異集団から有望個体を選抜する方法が主体となっています。一方、1990年代に遺伝子工学技術が開発され、大豆、玉蜀黍、棉などでは遺伝子組換え品種がUSA、カナダ、ブラジル、アルゼンチン、中国などで90%を超えるシエアを占める状況にあります(国際アグリバイオ事業団2011)

選抜手法の進化も著しいものがあります。医学や犯罪捜査でDNA鑑定が一般化したように、農業分野でもDNAの塩基配列の違いを目印(DNAマーカー)として利用する選抜法が急速に実用化されています(遺伝子組換えではありません)。北海道の研究機関でも病虫害抵抗性や障害抵抗性、加工適性等について判別可能なマーカーを開発し、育種事業の中で活用しています。シストセンチュウ抵抗性を導入した大豆「ユキホマレR」「スズマルR」、落葉病抵抗性を導入した小豆「エリモ167」、黄化病抵抗性を導入した菜豆「福寿金時」などが、マーカー選抜と戻し交雑法により育成されました。

従来は、現地選抜圃や人工気象室など選抜条件を設定して行うため時間と労力が掛かったのに対し、本法は茎や葉など組織の一部を用いて遺伝的な違いを調べることが出来るため効率的な選抜が可能になりました。現在、多くの作物でDNAマーカーが開発中であり、マーカーを利用した選抜は今後さらなる進展を見せることでしょう。

(4)蓄積される研究成果

北海道では開拓当初から大学や農事試験場が一体となって、寒地農業確立のための技術開発に邁進してきました。第二次世界大戦後に農業試験場は国立と道立の組織に分かれましたが、その後も両機関の研究者が集う会議(北海道農業試験会議)で具体的な試験設計や成果について真剣な議論を重ねています。この会議では民間育成の品種についても検討しています。

そして、研究成果は普及奨励、指導参考事項として普及に移されています。直近5年間で、普及奨励事項47課題、普及推進事項45課題、指導参考事項188課題が新たに公表されました。また、除草剤、殺虫剤、殺菌剤についても新資材試験の結果毎年100課題以上が認定されています。これら成果は新技術発表会、農業改良普及センター、技術情報誌、ホームページなどを通じ生産者の手元に届く仕組みになっています。

インターネットなど情報氾濫の時代ですが、試験条件が明らかで、成果の適応場面や注意事項が記された確かな情報選択が重要となっています。

(5)研究投資と連携

北海道農業は、行政、農業団体、生産者及び民間が協力して課題解決にあたってきた歴史があります。例えば、良食味米早期開発プロジェクト、道産小麦品質向上プロジェクト等は典型的な成功例です。また、豆類基金協会や澱粉工業会等の支援も技術開発を促進させました。技術開発投資の意義を再認識したいものです。

北海道には農学部を有する大学、国や道の試験研究機関、農業団体や民間の研究機関が揃っており、研究者層は厚く人材豊富です。共同研究プロジェクト推進は大きな成果をもたらすでしょう。生産現場からの積極的なアプローチが望まれます。

(6)育種は継続・総合・人間性

育種の現場にいた頃、育種は人間らしさの追求である、と考えていました。20世紀に私たちは化学肥料、農薬、除草剤を開発し、機械化を飛躍的に押し進めました。しかし結果として、化学資材への過大依存と作目の単純化が進み、病害虫の多発や土壌の病弊など農業が本来有していた「人間らしさ」を失いかねない状況にあります。私たちは今こそ、環境に優しい農業、活力ある農業経営、うるおいのある農村を目指して、人間らしく、品よく生きる術を身につけねばなりません。

育種家たちはこれまで「育種は持続型、育種は総合型、育種は生活型」との考えで取り組んできました。「持続型」とは、選抜の過程でふらふらしない選抜眼の継続性、先輩から後輩への育種心の継続性、さらには育種事業の継続性を意味しています。中断した育種を再開するときの何と無駄の多いことか。「総合型」とは、単一な特性がいかに良くても品種としては落第と言う意味での総合性、育種グループ全体で取り組むという総合性、環境や機械など関連研究分野が一体となる総合性、さらには生産者や実需者も含める総合性を意味します。そして「生活型」とは、人間を中心にして考えるという意味です。

育種事業は、遺伝資源部門(遺伝資源の収集保存、特性評価、情報提供)、育種部門(交配、選抜、固定、評価)、種子増殖部門(優良種子の維持増殖)、普及部門(地域性を考慮した栽培技術に合わせた普及)など専門技術者の一貫した協力で完結します。育種は膨大な数の材料を扱い、人員や時間をかけ、コストが掛かるが確率の低い事業です。自国の食に係る主要農作物の育種及び種子事業は、当然のことながら国家(公的機関)が主体的に関わらねばならぬ案件だと考えます。

しかし世界は今、市場原則重視の名のもと、大資本バイオ化学企業のGM品種が席巻する状態です。

3. GM大豆栽培が拡大する現場で体験したこと

(1)南米の事例

アルゼンチンは1996年にGM大豆(グリホサート耐性)の一般栽培を開始しました。監督官庁は農牧省で、農業バイオテクノロジー国家諮問委員会が科学的環境リスク調査を実施、食品の安全性については保健衛生・農業品質管理局のガイドラインに従うことになっています。GM大豆は急速に普及し5年後には98%に達しました。GM大豆普及では米国より先行した国として知られています。

 しかし、GM大豆が拡大する過程で種子のロイヤリテイを回収できない状況が頻発し、種子会社は輸出先の港で陸揚げ時に徴収する提案までする有様した。その後、特許使用料に関する軋轢を抱えながらもGM大豆は定着し、現在、公的研究機関の育種も種子会社と共同で進められています。

 ブラジルは当初GM大豆導入に慎重な姿勢をとっていました。1997年種子会社がGM大豆販売を申請し、翌年に国家バイオ安全技術委員会が安全性を認めると、消費者団体や環境保護団体が栽培の禁止を求めて提訴し勝訴します。以降、GM大豆を支持する農牧省や生産団体と、反対する環境省、消費者・環境保護団体、零細農家組織、NGO等が対立し、訴訟が繰り返され政治問題化しました。

  こうした中、GM大豆はアルゼンチン及びパラグアイから非合法的に導入栽培され、膨大なGM大豆の在庫を抱えることになった政府は、やむなく在庫大豆に限って販売を認可、自家採取種子についても生産・販売を限定付きながら認め、その後も生産種子の利用、GM大豆産品の販売認可など、なし崩し的に認可することになります。

 この過程で、GM非汚染州を標榜するパラナ州が州内へのGM大豆持込を禁止し、最大の輸出港であるパラナグア港への搬入路を閉鎖するなど強行措置をとったことから、連邦法との衝突、隣接州からの訴訟など混乱を生じ、パラグアイ産大豆のトラック搬送が阻止されるなど国際問題に発展したこともありました。そして、2005年に大統領は「バイオセキュリテイ法」にサインし、GM大豆栽培は合法化されました。現在、92%がGM大豆と推定されています。

 パラグアイでは、1997年にアルゼンチンから非合法的に持ち込まれ、栽培が急速に拡大しましたが、当初は低収で旱魃に弱いなど適応性の低さが問題になりました(地域適応性試験を実施していないので当然のこと)。認可を求める農牧省及び生産者と、反対する環境省、環境団体、小農組織等が対立して政府の対応は遅れましたが、2001年に試験栽培を認可、2004年に品種登録が承認されました。

 GM大豆栽培が拡大する中で、特許料を回収できない種子会社は出荷流通段階でロイヤリテイを支払うよう要求し、大豆生産者団体はこれを認めました。この額はシカゴ相場に対応して決められ、2006年産では1トン当たり4ドルを超えていました。なお、この額の10%をバイオ技術振興のための研究基金とすることも決められ、農業生物工学協会が組織され、公的研究機関は同協会の資金を得て育種を行っています。

(2)GM大豆の光と陰

南米でGM大豆が広まったのは、不耕起栽培、大規模経営であった事情があります。従来の除草剤体系に比べ環境負担が小さい、管理作業回数の減少により利益が出るなどの利点がありました。一方、除草作業の効率化にともない、1戸当り大豆栽培規模は拡大し、さらには放牧地や未開墾地を大豆畑化するのも容易になりました。環境破壊に連なるとの意見を受けて、政府は未開墾地の樹木伐採の禁止、農地面積に応じた植林の義務付けなど対応していますが、効果は大きくありません。

GM大豆の商業栽培が開始されてから20年が経過しました。これまで安全性に関するリスクは報告されていないと言うものの、耐性雑草の出現が大きな問題となっています。また、小農が大農に飲み込まれ、雇用されていた労働者が土地なし農民となって都市へ流れ込むなど社会問題も指摘されています。

(3)バイオ化学企業の寡占化

 GM大豆導入過程で明らかになったことは、バイオ化学企業の寡占化です。今もなお合併を繰り返し巨大化しています。僅か数社の企業が、種子・農業資材・集荷流通を握る状況は、国家にとって安心と言えるのか、気象条件の異なる地域に適応する品種を揃えることが出来るのか、種子の安定供給が会社の都合に左右されないか、種子価格が高騰するのではないか、品種の単純化が進むのではないか(在来種や多様な品種の消滅、遺伝資源の抱え込みの危惧)など、考えさせられました。

数百、数千ha規模での輸出向け生産ともなれば、効率を優先したGM品種導入が当然の成り行きだったかもしれません。しかし今になって、これらの国々でも種子事業の危機感が論じられ、公的品種の役割を見直す動きが起きています。

一方、わが国は自給率が38%と低く、経営規模からしても進むべき道は当然異なります。多様性を尊重し、「安全性」「高品質」をキーワードにした戦略こそとるべき道でしょう。

4. 技術が明日を拓く

 これまで述べてきたように、北海道の農業は技術開発に支えられて発展してきました。しかも、単なる外国や府県のコピー技術ではなく、北海道に根差した固有の先駆的技術です。北海道では30年前からクリーン農業を推進してきましたが、今では道産品の代名詞になっています。産地間競争、海外商戦を勝ち抜くには、戦いの素材である技術開発成果品があってのこと。これからも技術開発に期待するところが大きいと確信します。

 育種に関して言えば、公的機関は育種システムの根幹を維持することに努め、民間活力を生かす工夫を考えたい。育種家も「育種は継続・総合・人間性」の理念を大事にして、常に農家の畑に立ち、消費者や実需者の声に耳を傾け、迅速な対応を心掛けたいものです。

技術は日々進化しています。生物工学技術、GPSを活用した栽培技術、IT技術が既に多くの場面で活用されています。また、人工知能の開発も進んでいます。間違いなく、技術革新は北海道農業の明日を拓くことでしょう。

参照:土屋武彦2018「技術が明日を拓く~品種開発の観点から~」地域と農業 第108号12-23、北海道地域農業研究所

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「むーべる」,小さな親睦会の機関誌

2013-06-15 12:01:32 | 恵庭散歩<本のまち、私の本づくり>

上川農業試験場に,「むーべる会」と言う名の職員親睦会があった(今もあると思う)。会員相互の親睦,福祉及び健康をはかり生活を豊かにすることを目的に,歓送迎会,リクレーション,慶弔見舞金の贈与,会誌発行等の事業を行うと会則に謳っていた。「むーべる」とは何だ? と聞いたら,「飲む」「食べる」の合成語だと誰かが応えた(「駄弁る」だったかもしれない・・・)。名は体を表すと言うが,まあ楽しい集まりだった。

 

同様の職員親睦会は十勝農業試験場にもあり,こちらは「緑親会」と言った。「緑親会」の発足は嶋山〇(金偏に甲)二氏によれば昭和13年とあるから(十勝野2号),「むーべる会」の発足も恐らくその頃のことであろう。これら親睦会は,発足から戦後しばらくの間は時代背景もあり福利厚生に重きを置いていたようだが,昭和4050年代になると親睦行事が盛んに行われるようになっていた。

 

 

ある時,砂田さんが酒の席で,

「上川農試でも親睦会の機関誌を出すことにした。緑親会の「十勝野」を参考にして・・・」

と話しかけてきた。小生が「十勝野」創刊に関っていた(昭和44年度幹事)ことを知っていて,仁義を切ったつもりだったのだろうか。「むーべる」と名付けられた親睦会機関誌の創刊は昭和46年のことである。

 

機関誌には親睦会行事の記録,記事のほかOBからの寄稿もあった。誌の性格上,誰もが肩ひじ張らずに書いているので,

「彼奴はこんな趣味があったのか」

「洒落た文章を書く奴だ,見直した・・・」

と,感心したり微笑んだりした。試験成績や事務文書など形式に拘って書く日常から解き放たれた機関誌の紙面には,会員の素顔が現れていた。

また,OBからの寄稿文には,試験場移転や研究遍歴などの裏情報が愛情を込めて語られており,貴重な資料として残るものであった(公的な年報や事業報告書に書けない記録が刻まれた意味は大きい)。

 

試験場を離れて久しいので,「むーべる」の発刊が継続されているか否か知らない。手元に残された「むーべる」(2630号)を書棚から取り出し,埃を払ってページをめくってみた。若い頃の生きざまが蘇ってきて懐かしい。

新聞の発行部数が減少し,雑誌が廃刊に追い込まれるなど,紙文化の衰退が進んでいる昨今ではあるが,小さな組織の小さな機関誌は存続してほしいものだ。

 

ちなみに,小生が「むーべる会」会員だったのは2年間だったが(士別時代は準会員),前後を含め下記の拙文が紙面を汚している。それにしても,青臭く生真面目に書いているなあ・・・。これも,今から十数年前,二十世紀末の時代意識と捉えてもらえるなら(当時の空気を感じて貰えるなら),まあ良いか。と恥ずかしながら添付する(略)。

 

K1個人の行動」むーべる26,15-161997

K2「農民に愛され信頼される(巻頭言)」むーべる28,1-21998

K3「育種・人との出会い(新入会員の挨拶)」むーべる28,67-691998

K4 「フレキシブルに,迅速に,そして専門性を総合化(巻頭言)」むーべる29,1-21999

K5「パラグアイ国から今日は(旧会員からの寄稿)」むーべる30,3-52000

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ユリノキが見守り続ける「道南農業試験場」の沿革

2013-03-12 15:40:41 | 恵庭散歩<本のまち、私の本づくり>

道南農業試験場(地方独立行政法人北海道立総合研究機構,北斗市)の前庭に,大きなユリノキLiriodendron tulipifera L.)がある。何年に植えられたか確かな記録はないが,大正時代の写真には陳列館の屋根を越えるほどであるから,樹齢百年と言って良いだろう。まさに,道南農試の歩みを見守り続けている。

先日,OB会があって場長にお会いしとき,

「今年もユリの木の花が咲きました」

と伺い,筆者も道南農試に勤務していた頃,来客があるたびに「道南農試のシンボルツリー」と紹介していたことを思い出した次第。

 

さて,このユリノキ(百合の木)はモクレン科の落葉高木で,「ユリに似た花が咲く樹木,Liriodendron」の意味を学名としたもので,和名でユリノキ,英名では種小名のtulipifer(チューリップのような花をつける)からAmerican tulip treeと呼ばれる。また和名では,特異な葉の形からハンテンボク(袢纏木),軍配の木,奴凧の木などと呼ばれることもある。

北アメリカ中部原産で,日本へは明治時代初期(89年頃)に渡来したとされ,北海道では北大植物園,札幌大通公園などでみられる。

 

道南農業試験場は北海道庁立渡島農事試験場としての創設(1909,明治42)以来,このユリノキと共に百余年の歴史を刻んだことになる。先輩によれば,

「遭難した洞爺丸をユリの木に登って眺めた」

「落雷により真二つに裂けたが,よく再生したものだ」

「花が咲く頃,新聞社が訪れる」等々と,話題は尽きない。

 

ところで,道南地域における農業試験機関の歴史を紐解いてみると,明治42年の開基以前にも,函館奉行所の御薬園,ガルトネル農場(函館奉行所許可),明治政府が開拓使の下で進めた七重官園などがある。ガルトネル農場の顛末は幕末混乱期の一大事件として知られるが,ヨーロッパ農業が試みられた初の事例でもあった。また,七重官園は農事試験場の前身といえる組織であるが,官園廃止から農事試験場開設までには15年の空白期間があった。

 

御薬園時代(18541866,七重)

ガルトネル農場時代(186770,七重)

七重官園時代(187094,七重)

公的研究機関空白(1901以降は北海道農事試験場(札幌)が対応か?)

北海道庁立渡島農事試験場時代(1909,大野)

農事(農業)試験場渡島支場時代(19101949,大野)

道立道南農業試験場時代(19502009,大野,北斗)

地方独立行政法人北海道立総合研究機構時代(2010~現在,北斗)

 

この間,社会情勢の影響を受け度重なる組織改編が行われているが,道南農業試験場が地域の農業発展を技術革新で支え,地域経済をリードしていたことは間違いない。現在も,少数ながら精鋭の研究者らが頑張っている。ユリノキに見守られながら。

 

添付の表には,道南農業試験場の沿革を中心に道南地域農業発展の概要を整理した。

 

付表1 道南農業試験場・七重官園の沿革

 

付表2 道南農業試験場歴代場長

 

Img324

Img323b

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

80年前の「北農」創刊号,技術改善の重要性を語る創始者

2012-05-30 18:16:41 | 恵庭散歩<本のまち、私の本づくり>

北海道にある公益財団法人北農会が,農業技術普及誌「北農」を発刊している。内容は,研究論文など新しい研究成果情報に加えて,農業に関する論説提言,研究情報,資料解説など多岐にわたる。学会誌でなく,かと言って商業誌でもない,特徴ある技術情報誌で,他に代えがたい。わが国でも貴重な存在であろう。

その「北農」誌の創刊は1934年(昭和9)であった。創刊から数えて,来年が80年目になる。この間,農業を取り巻く環境は大きく変化し,農業自体も幾度となく困難な場面に遭遇したが,生産者や農業関係者の尽力のお蔭で北海道農業は大きな発展を遂げた。この発展の支えたのは,技術開発の成果であったことは衆目の認めるところであろう。「北農」の歴史も,北海道農業の歴史に重なっている。

 

80年前「北農」創刊に当たって,北海道農事試験場長安孫子孝次氏は,技術改善の重要性を説いている。創刊号巻頭言の一部を以下に引用する。

 

・・・農村非常時に直面し農業合理化を叫ばれて居る今日,その合理化の基礎ともなるべき農業技術の改善は,一日も忽せにすべからざることを痛感せらるるのであります。(中略)今回北海道農事試験場北農会が組織せられ,その機関雑誌として月刊「北農」を発行し,農事試験場の試験成績を広く且敏速に普及せしめ,併せて会員相互の親睦と知識の交換とを図られるに至ったことは洵に機宜の企てであって,(中略)衷心から欣ぶ支第であります。それ故に当場においてはこの計画の遂行に対しあらゆる援助を吝まぬものであります。

 

凡そ健全なる農家,農村を建設せんとするには農業を経済的に経営するにあります。農業の経済的経営は各種の科学を取り入れ,優秀なる技術により合理的に応用するにあるのであります。(中略)農を営む人,農事の指導に任ずる人は勿論のこと,苟くも農を政し農を談ずる人の心掛くべきことと信ずるのであります。幸ひ雑誌「北農」の理想が這般の実情に徹し,よく農事関係諸氏の伴侶となり,農業の改善発達に資することが出来ますれば,この上なき喜びと存じ,茲に大方の振るって本誌刊行の趣旨に賛成せられんことを望むと共に本誌の発展を祈る次第であります・・・。

 

北海道では今年も,1月に開催された北海道農業試験会議(成績会議)での検討を経て,多くの新技術が普及に移された(普及奨励事項12課題,普及推進事項13課題,指導参考事項237課題,研究参考事項10課題)。これらの成果は,多くの媒体を経て生産現場に届けられるが,北海道農業発展の糧になることは間違いない。「北農」も技術情報誌として,微力ながら北海道農業発展の一翼を担う努力を続けている。

 

北農編集子のつぶやき:先人の詞は,今の時代にも褪せることがない

 

参照:土屋武彦2012「編集後記」北農第79巻第2号,公益財団法人北農会

 

 

 

Hokunou_aa

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする