読書日記

いろいろな本のレビュー

思想史のなかの日本語 中村春作 勉誠出版

2017-08-19 09:17:04 | Weblog
 著者は今春、広島大学教育学部教授を退官された。専門は日本思想史で、荻生徂徠の研究家である。その退官記念に出されたのが本書である。実は中村氏は某大学の大学院で共に勉強した学友で、後に徂徠研究のために中退して、他大学に移られた。その後徂徠研究に邁進され、中国の古典をいかに読むかという問題意識のなかで「訓読」をテーマにして書かれた論考をまとめたものだ。中国の古典を訓点(返り点、送り仮名、句読点)によって読む「訓読」は平安時代以来の歴史を持つ有力な翻訳技術である。今私たちが使う漢字とひらがな交じりの文章は、漢文書き下し文の影響を受けたものだが、表記システムとしては極めて優れたものだ。
 この「訓読」の仕方にはいろいろ流儀があり、江戸時代の国学者のなかでも個性がある。その中でも問題になるのが助字の扱いだ。助字とは文中で、語句と語句の関係を示したり、文末で断定・完了・疑問などの意味を示す漢字のこと。助字であっても「也」(なり・や)「哉」(や・かな)などは読むことが多いが、「而」「於」「于」などはその字の文法的意味が送り仮名によって表されているために訓読しない。このような字を置き字という。この助字を始めとして同訓意義・異訓同義の漢字の意味の確定が学者によって大いに変わってくるのが面白いところである。その証拠に江戸時代には助字の研究書が沢山出版されている。
 中村氏の専門の荻生徂徠についていうと、徂徠は「古文辞学」というものを提唱したのだが、それについて中村氏曰く、「儒学は元来、はるか古代に記述された経書を、何千年にもわたり解釈し続け、そこから人生の意味や社会の在り方、政治の基準までをも解き明かそうとする学問である。だから基本的には、テキストは時空を超越した永遠性を有するものである。朱子学では、テキストを貫く真理=「理」があらゆる時空を超えて実在するとする。それに対し、江戸時代古学派の儒者たちは大きく言って、「理」を心中に仮定したものと批判することを通じて、テキストの「テキスト性」を重視する立場を明確化していったといえる。そこでは「真理」は特定の時代性に彩られて「テキスト」の中に封じ込められることになる。荻生徂徠は朱子学批判を、テキストや言語に対する認識の転換において為した」と。明快な説明である。例えば、古代のテキストに頻出する「道」が不分明であるのは、言語は常に限定されたものでしかなく、その言語本来の時間的、空間的に限定される性格に由来する。すなわち、「道」は古代の「言語」によってしか私たちに開示されておらず、私たちも今日の「言語」をもってしかものごとを考え得ないし、語り得ない。この難問を解決しようとしてかれが取った方法は、漢文を中国語で読む「従頭直下」式であった。しかし、そうすれば直ちに「解る」とは言っていないことが興味深い。中村氏曰く、結局彼のとった方法は、古代テキストに載る記述を、後世の論争的言辞による「解釈」を通じて理解するのではなく、その記述を記述として有意味たらしめていた当時の社会内諸事象を、その内に読みこんでいくことを通じて、彼の用語を使えば、「物」=「古言」として把握することを通じて理解しようとするものであり、それは世に見慣れた経書注釈の姿からは飛躍した、独自の「方法」なのであった。しかしこの方法は継承されず、その訓読批判も反徂徠運動から「寛政異学の禁」を経由する過程で、異なる位相へと転じた。すなわち、古代聖人の「言語」を時間・空間うぃ遙かに隔てた江戸の言語空間の中でいかに「読む」かということと、その可能性への徂徠の問いかけが、そのもともとの志とは別の地平で受容され「いかに正しく読めるか」といった別の位相へと展開していったのである。それらは、より「正しい」意味を求めての考証学的傾向、もしくは字訓を精密に求めてその使い分けを分類する方向に展開していったのであると。
 このあと中村氏は徂徠の高弟太宰春台や宇野明霞・皆川淇園を例にあげて、読みの精密化の実相を説明している。徂徠は朱熹の『論語集註』(ろんごしっちゅう)の語義解釈を批判し、古文辞学の立場から独自の孔子像を構築し『論語徴』を著し江戸儒学に新風を巻き起こしたが、紀元前六世紀の春秋時代に向けた歴史の眼を、十八世紀の江戸時代の現実に振り戻し、『太平策』『政談』の時局を論じた書を書いている。この大学者の人となりを知るには、『荻生徂徠』(野口武彦 中公新書 1993)が最適だが、絶版になっている。野口氏はその中で、先述の道について、「道」はその具体性・歴史性・状況性を提示できない。名辞の論理をいかにつきつめていっても、道の実在性にはぶつからない。だがそれをまさにそれとして定立された名辞として提示しなければならない。この論理的アポリア(難問)を突破して徂徠が到達したのは、メタ言語としての「道」である。そしてまた、「道」概念の定立においてなされた日本思想史最初のメタ言語の発見であると述べている。これは要するに「道」とは「何々のようなものである」という言い方で表さざるを得ないことだと思うが、その辺を中村氏に教えてもらいたいところだ。

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