野口氏はもと神戸大の国文科の教授で近世文学の研究家であった。最近は忠臣蔵や幕末の歴史について浩瀚な資料を駆使して読み応え有る評論・エッセイ・小説を発表している。御年81歳、落語、講談、文楽の世界でいうと、名人の域に達しつつあると言えるだろう。それほど読んでいて面白い。本書の腰巻の惹句に「語られることのなかった幕末の綺譚集」とあり、中身は「戊辰戦争でのヤクザたちの暴走、岩倉使節団の船中『ワイセツ』裁判、悪女・高橋お伝の名器解剖等々」日本史の教科書ではお目にかかれない話題が続く。
江戸から明治への転換点では、体制のドラスティックな変更があり、その中で人々はそれぞれの持ち場において様々の試練を経験することになった。上は為政者から下は草の根の庶民に至るまで、様々な人間模様が展開され、それを写し取る歴史・文学も勢い豊饒なものになったのは、後世の文学者・歴史家にとっては幸運だったと言える。
収められた七編の作品は、いずれも主人公の存在感を描いて秀逸だが、それを支えているのが著者の表現力である。野口氏は若いころから小説を書いておられ、実際私も40年以上前に『紅旗』という作品を読んだことがある、題から連想すると、藤原定家関連の古典小説かと思いがちだが、現代版のエロチックな者であった。話の展開は忘れてしまったが。ことほど左様に、氏の小説家としてのキャリアは長いのである。
例えば、高橋お伝にまつわる「名器伝説」の一節はこうだ。「昨日と同じ窓枠に陣取り、解剖室を窺って見ると、だだっ広い板敷の部屋にぽつんと解剖台が置かれ、その上に横たえられたお伝の胴体が白布をかぶせられている姿は昨日のままだったが、死体からにおってくる異臭は昨日よりはるかに強く、鼻を衝くような防腐剤のにおいを圧倒する存在感を放っていた。それはあたかもお伝の首のない胴体が、自然の摂理を味方に付け、医学界の大立者を頤使(アゴで使う)しているかのようだった」。名器伝説のあるお伝の刑死体を目的不明のまま興味本位で解剖する医者たちの下劣さが、お伝の死体に復讐される様子をものの見事に描いている。「私の体触るんじゃねーよ」と言っているがごとく。
「木像流血」では廃仏毀釈で岩清水八幡宮のお寺が災難にあって、神社側が集めた有象無象の人間を次のように描く。「だが、作七がこりゃ敵わんと直感的に思ったのは、集められた人間の顔立ちに見られる名状しがたい下司っぽさだった。日頃見下している八五郎の顔つきなどこれに比べれば春のそよ風みたいなものだ。この連中ときたら、眉はゲジゲジ状、鼻は粘土をこねてぺっちゃりとくっつけたよう、目はどれも三白眼で、額はあくまで狭く、生まれてこのかた物を考えたことなど一度もないような手合いだった。こういう連中が神主や禰宜の尻馬に乗って そや、そや とゲラゲラ笑いながら賛同したり、ソリャチャウデ、反対や とみな一斉に抗議の声をあげたりする。そんな風に付和雷同する叫び声がその場の多数意見とみなされてものごとが強引に運ばれてゆくのだった」。廃仏毀釈の理不尽さが目に浮かぶ。ここにも権力側と非権力側の圧倒的な落差が読みとれる。
全編野口流のレトリックがちりばめられ、読書の楽しみを満喫できる。最後に文庫版あとがきで、現・支配権力者(長州閥の系譜)は現行政治を歴史的な栄光に満ちた維新政府の延長上に位置づける演出しているが、明治維新の仮面劇を上演しているかの感があり、支配権力者の知的レベルでさえ、歴史知識は大衆読み物並みとの指摘には同感する。氏の次の作品が待ち遠しい。
江戸から明治への転換点では、体制のドラスティックな変更があり、その中で人々はそれぞれの持ち場において様々の試練を経験することになった。上は為政者から下は草の根の庶民に至るまで、様々な人間模様が展開され、それを写し取る歴史・文学も勢い豊饒なものになったのは、後世の文学者・歴史家にとっては幸運だったと言える。
収められた七編の作品は、いずれも主人公の存在感を描いて秀逸だが、それを支えているのが著者の表現力である。野口氏は若いころから小説を書いておられ、実際私も40年以上前に『紅旗』という作品を読んだことがある、題から連想すると、藤原定家関連の古典小説かと思いがちだが、現代版のエロチックな者であった。話の展開は忘れてしまったが。ことほど左様に、氏の小説家としてのキャリアは長いのである。
例えば、高橋お伝にまつわる「名器伝説」の一節はこうだ。「昨日と同じ窓枠に陣取り、解剖室を窺って見ると、だだっ広い板敷の部屋にぽつんと解剖台が置かれ、その上に横たえられたお伝の胴体が白布をかぶせられている姿は昨日のままだったが、死体からにおってくる異臭は昨日よりはるかに強く、鼻を衝くような防腐剤のにおいを圧倒する存在感を放っていた。それはあたかもお伝の首のない胴体が、自然の摂理を味方に付け、医学界の大立者を頤使(アゴで使う)しているかのようだった」。名器伝説のあるお伝の刑死体を目的不明のまま興味本位で解剖する医者たちの下劣さが、お伝の死体に復讐される様子をものの見事に描いている。「私の体触るんじゃねーよ」と言っているがごとく。
「木像流血」では廃仏毀釈で岩清水八幡宮のお寺が災難にあって、神社側が集めた有象無象の人間を次のように描く。「だが、作七がこりゃ敵わんと直感的に思ったのは、集められた人間の顔立ちに見られる名状しがたい下司っぽさだった。日頃見下している八五郎の顔つきなどこれに比べれば春のそよ風みたいなものだ。この連中ときたら、眉はゲジゲジ状、鼻は粘土をこねてぺっちゃりとくっつけたよう、目はどれも三白眼で、額はあくまで狭く、生まれてこのかた物を考えたことなど一度もないような手合いだった。こういう連中が神主や禰宜の尻馬に乗って そや、そや とゲラゲラ笑いながら賛同したり、ソリャチャウデ、反対や とみな一斉に抗議の声をあげたりする。そんな風に付和雷同する叫び声がその場の多数意見とみなされてものごとが強引に運ばれてゆくのだった」。廃仏毀釈の理不尽さが目に浮かぶ。ここにも権力側と非権力側の圧倒的な落差が読みとれる。
全編野口流のレトリックがちりばめられ、読書の楽しみを満喫できる。最後に文庫版あとがきで、現・支配権力者(長州閥の系譜)は現行政治を歴史的な栄光に満ちた維新政府の延長上に位置づける演出しているが、明治維新の仮面劇を上演しているかの感があり、支配権力者の知的レベルでさえ、歴史知識は大衆読み物並みとの指摘には同感する。氏の次の作品が待ち遠しい。