読書日記

いろいろな本のレビュー

無量の光  津本陽  文春文庫

2011-06-25 15:40:52 | Weblog
 親鸞聖人の生涯。親鸞は阿弥陀仏の請願を信じつつ、専修念仏の教えをひろめてゆく生涯を貫いた。彼の一生は四つの時期に区切ることができる。最初は二十九歳で比叡山を下り、法然の専修念仏門に入ったとき。次は三十五歳で越後へ流罪となり、四年後に赦免されたがなお二年間を越後国府で過ごした時期。次は建保二年(1212)関東へ向かい、約二十年間、常陸を中心に布教をした時期。次は、六十三歳の頃京都へ帰り、その後九十歳で示寂(逝去)するまで、著述・思索に日を送った時期である。九十年の人生で、阿弥陀仏への信仰を無文字の民衆に布教したその気力と体力は称賛に値する。
 他力本願の極意は「南無阿弥陀仏」を唱えることにあり、それを実践すれば極楽往生できるという教えは誠にわかりやすい。しかし、そこに至るまでどれほどの思索の時間が費やされたことか。仏との縁はこちらからいくら求めても得られるものではない。厳しい修行や荘厳な寺院での読経は自力本願の基本であるが、これによって仏に救われることはないということを比叡山で悟り、親鸞は山を下りたのである。仏の救いは仏の側から差し伸べられる。それがどれほどの確率で行なわれるのかは分からない。しかし、南無阿弥陀仏と唱えることが必要条件となる。仏はキリスト教の神同様、基本的に俗事には関わらない。神は沈黙したままなのだ。遠藤周作の誤りはそこにある。親鸞はそれを理解したうえで、ひたすら念仏を唱えたうえで、仏からの機縁を待とうと言ったのである。
 本書は親鸞の『教行信証』等の著作を読み込んだうえで書かれている。親鸞の思想に迫ってその人間像を明らかにしようとしており、極めてレベルが高い。哲学書の解説にも匹敵する出来栄えと思う。五木寛之の『親鸞』(講談社)とは全くアプローチの仕方が異なる。こちらは青春時代の親鸞を扱ったもので、親鸞の全体像を追求したものではない。津本氏は自身も門徒である由、あとがきに書かれていたが、それならばこその記述が多かったと思う。清貧の中で最後まで布教と思索に明け暮れた親鸞のような人間がいたことは、本当に感動的だ。学ぶことに定年はない。死ぬまで勉強せねばという気持ちが湧いてきた。

漢字が日本語を滅ぼす  田中克彦  角川SSC新書

2011-06-25 11:35:27 | Weblog
 日本語は外に閉じた言語(外国人にとって学びにくい言語)で、それを助長しているのが漢字である。漢字を減らしてひらがな・カタカナ・ローマ字で表記すべきだというのが本書の内容。漢字は知識人のもので、庶民を馬鹿にした反動的な文字だという考え方が諸所に顕れている。このような議論は明治維新や太平洋戦争が終わった時に漢文の反動性を非難するのと同時に行なわれたもので、話題としては新しくない。東南アジアからきた看護士希望の人々が国家試験の際に難解な漢字のために、合格できない現状を漢字廃止の論拠としているが、少々的はずれだと思う。最近、難解な専門用語をやさしく言い換えることで合格率を増やそうという流れになっている。
 漢字かな交じりで文章を表記するシステムは非常に優れた表記法で、世界に誇れるものだ。漢文訓読の長い歴史を鳥瞰することなく、外国人に使われなければマイナーな言語として、行く行くは消滅するであろうという危惧を述べているが、杞憂に過ぎない。話が大げさすぎる。著者はベトナムの漢字廃止、韓国のハングル使用を称賛しているが、韓国の場合その弊害は顕著だ。ハングルは表音文字であるため同音の衝突が頻繁に起こり、発音からものそのものをイメージするのに時間を要してしまい、非常に不便を強いられている。ハングル採用の裏には宗主国中国の桎梏から逃れようとするナショナリズムがあったことを忘れてはならない。日本はその点、非常に柔軟で、表意文字の漢字を捨てず、便利で利用できるものは何でも利用しようという高い見識があったとみるべきだろう。
 また漢字廃止と声高に言う割にどういう表記がいいのか、具体例を示していないのが欠点だ。また漢字廃止を漢字かな交じり文で滔々と述べている点が自己矛盾に陥っている。辛亥革命のときに白話(口語)運動を提唱した胡適がそれを文語で書いていたのと同じだ。著者はモンゴル語の専門家である。中国の帝国主義によって弾圧され続ける内モンゴル自治区などの状況に思いをはせた時、漢民族の象徴である漢字に対して憎悪の念がふつふつと湧いてきて、この書を書かせたのかもしれない。穿った見方であるが、可能性は無いとも言えない。著者には、晩節を汚さないためにも、もう少し冷静な議論をしてもらいたい。