読書日記

いろいろな本のレビュー

パンとペン  黒岩比佐子  講談社

2011-06-18 17:54:30 | Weblog
 副題は「社会主義者・堺利彦と『売文社』の闘い」。売文社とは堺が平民社解散後、社会主義運動の「冬の時代」を耐え抜くために設立したもの。堺が出した広告には、ペンとパンの交叉は即ち私共が生活の象徴であります。私共は未だ嘗て世間の文人に依って企てられなかった商売の内容を茲にご披露するの光栄を担いますと言い、*新聞、雑誌、書籍の原稿製作並びに編集、*論文、美文、小説、随筆、記事文、慶弔文、書簡文、趣意書、意見書等、各種文章の代作及び添削 *英、独、仏、伊、露、漢等、一切外国文の翻訳並びに立案、代作 *談話、演説等の筆記及び速記などの能書きが並ぶ。一見してインテリでなくてはできぬ仕事だ。それもそのはず、堺は福岡県出身で中学を優等で卒業し旧制一高入学(後除籍)するぐらいの秀才だった。いわばインテリの立場で社会主義運動をしていたわけだが、「われわれの社会主義運動はインテリの道楽だよ。幸徳秋水でも僕でも士族出で本物の社会主義ではない。本当の社会主義運動は労働者や小作人の手で、進められるのだよ。だからと言ってインテリの社会主義道楽が無価値で、真摯でないとはいわんがね。道楽で命を落とす人はいくらでもある」と述べているが、現今のインテリ左翼に聞かせたい言葉だ。この洒脱さが「売文社」という一風変わった会社を作らせたのだろう。
 本書は売文社に集う社会主義者の面々を膨大な資料をもとに、生き生きと描いている。大逆事件の描写も細かで迫力がある。堺は別件で監獄にいたので、連座をまぬかれたが、なんとも怖ろしい権力側の謀略である。その時日本国内の新聞は政府にすり寄る報道を見せた。政府の発表を鵜呑みにしたからだ。24人もの大量死刑の判決に対して何らの疑問を抱くことなく、被告たちは「一種の黴菌」だと暴言を吐いている。このような社説を読むと、三十数年後のあの敗戦まで、各新聞が思考停止に陥って権力をチェックできなくなったという著者の指摘は誠に鋭いものがある。この左翼アレルギーの残滓は今も健在で、この国に健全な権力批判主義の生育不良を助長しているように思える。ヨーロッパで健在の社会主義がこの国にはないからだ。誠に慙愧に堪えない。
 この書は著者の遺作となった。本書発刊の一ヶ月後膵臓がんで逝去された。私も二年前に弟を膵臓がんで亡くしているので、彼女の苦痛が他人ごとではない気がした。あとがきに「実は、全体の五分の四まで書き進め、あと一息というところで、膵臓がんを宣告されるという思いがけない事態になった。しかも、すでに周囲に転移している状況で、昨年十二月に二週間以上入院し、抗がん剤治療を開始したが、体調が思わしくない日々がしばらく続いた。(中略)死というものに現実に直面したことで『冬の時代』の社会主義者たちの命がけの闘いが初めて実感できた気がする。(中略)私の『冬の時代』はまだ続きそうだが、どんなに苦しいときでも、堺利彦のようにいつもユーモアを忘れず、楽天囚人ならぬ〝楽天患者〟として生きることで、きっと乗り越えていけるだろうと信じている」とある。こんな感動的なあとがきは読んだことがない。まさに渾身の力を振り絞ったあとの静謐な、死を相対化した境地が語られており、読む者の心を打つ。天は時に酷いことをする。司馬遷の「天道是か非か」という叫びが今聞こえてきた。合掌。