読書日記

いろいろな本のレビュー

朱子 木下鉄也 岩波書店

2009-06-06 16:42:23 | Weblog

朱子 木下鉄也 岩波書店



 北宋の思想家朱熹の思索の跡を、『大学』『中庸』に対する彼の注釈の冒頭に現われる「理」「事」や「命」「性」などのキー・タームをもとに読み解いたもので、今まで手薄だった朱子学の研究に新境地を拓いている。そもそも朱子学は封建的な大義名分論としてイメージされるが、「朱熹」その人は朱子学者ではない。
 彼が生きた北宋時代は皇帝のもとで官僚制度が完備された時代であった。国家は体系的に文節される各「職」によって担われ、そしてそれぞれの職については細かな「職務事項」が箇条書きされ、一種の法令として公開されていた。それぞれの「職」に任ぜられる国家職員が職員として行う活動は予め明示されている国家作用について公開された約束を実現する行為であった。国家を法令として公開された職のパブリックな体系=機関と理解する、とは、その構成員=職員各位にはその活動を分担する「職務」が課せられていると捉えることである。ある特定の活動が「職務」として課せられている時、そのことを「為すべしとパブリックに課されている活動」という意味で、ただの「活動」例えば身体的欲求を満たすための活動などから区別して「つとめ」と呼ぶことができるだろう。朱熹の生きた時代とは、このような「債務」と「職務」に通用する「つとめ」の感覚が国家職員の中に育ちさらに広く「つとめ」の感覚が支える信用秩序創出の可能性が育ちつつある時代なのであったと著者は述べる。官僚がこのような意識で仕事をすれば、国の繁栄充実は自ずから保証されるだろう。皇帝は絶対権力者だが実務は官僚に任せるしかない。全体のバランスを見て政治的な決断を下すことになる。なんでもかんでも口出しする為政者は国を混乱に陥れる。わが国では霞ヶ関の官僚に対する風当たりが最近強いが、これをぶっつぶしては国が成り立たない。彼らの優秀な能力を発揮させるのが政治家の仕事である。橋下、東国晴、森田などの知事の頭よりよっぽど賢い連中が官僚になっているはずだ。民意で選ばれたと事あるごとに彼らは主張するが、今の普通選挙は民主主義を体現する唯一の方法ではない。これに関しては『民主主義という錯覚』薬師院仁志 (PHP)に詳しく書かれている。ルソーやモンテスキューは、議員や統治者をくじ引きによって選ぶことが民主主義にかなうものだと論じたことはあまり知られていない。しかしくじ引きが民主主義の本質だという指摘は奥が深い。くじ引きが神の意志という考え方もある。実際、本邦足利将軍、義教はくじ引きで選ばれたのだ。岩清水八幡宮の神殿でくじ引きが行われたということは、くじの結果は神の意志ということで、だれも文句が言えないということになる。足利時代においてルソーのいう民主主義的手続きによって将軍が選ばれたといいうことは興味深い。薬師院氏の著書は上記のようなバカ知事(石原東京都知事も含めるとよい)が選挙で選ばれてしまうという欠点を憂慮して書かれたものに違いない。普通選挙と民主主義は関係ないのだ。著者曰く、民主主義は強制されるものではない。人々がそれを望んで、はじめて受け入れられるものである。だから、たとえ国民主権や普通選挙を謳う憲法が存在したとしても、国民が民主主義を望まないのであれば、民主主義的な国家など生まれようが無いと。あのヒトラーも選挙で選ばれたのだという事を我々は思い出す必要がある。(閑話休題)
 宋代についてこのような分析をした書物は今までなかったと思う。宋代官僚制の本質を鋭く突いた記述である。この時代に朱熹が到達した認識は、人には「万物(生きとし生けるもの)」を生み出し育む「天地(自然)」から託された責務がある。この託された「いのち」を十全にいきるという責務は、いわば「自然」より任ぜられた職務である。生きてある限り「自然」と「生きとし生けるもの」の前に質されている「人としてのつとめ」である。これが朱熹の生涯を賭けた思索の帰結であり、同時代に示し、そして後世に遺した哲学であったとパブリックな存在としての人間のあり方を取り上げている。今までの朱子学に対する偏見が洗い流されるような見解である。公と私の問題は近現代の哲学の重要なテーマである。それを12世紀に生きた朱熹がすでに取り上げているのは驚きである。