Ma Vie Quotidienne

一歳に二度も来ぬ春なればいとなく今日は花をこそ見れ

ついに! 歌舞伎デビューしました。

2010-12-19 17:42:57 | Art/Performance
寿司友Mさんは、
歌舞伎を観るためだけに年に何度も上京してるお方・・・。

この度、ご一緒させていただくことになりました~♪

毎月演目が変わるみたいですが、
今月は日比谷の日生劇場にてコチラの演目ということで。



通し狂言 摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)

人形浄瑠璃初演、安永年2月。
菅専助・若竹笛躬合作。
歌舞伎、明治18年7月。
大詰めの「合邦庵室」の場は歌舞伎の人気演目として
現在でもよく上演される。

継子に恋心を抱く若い継母の思いと
お世継ぎ問題がからみあうベタなテーマではありましたが、
「見取り狂言」ではなく「通し狂言」(後述)で観ることができたお陰で
歌舞伎狂言の醍醐味を知ることができました。


歌舞伎舞踊 達陀(だったん)
昭和42年2月歌舞伎座にて初演。
作・萩原雪夫、監修・平岡定海、振付・藤間勘齋(二世松緑)。
振付師の松緑が「お水取りを舞踊化したい」と発案し、
作者の萩原が前後3回、お水取りに参籠して構想を練ったとのこと。

「お水取り」は奈良の東大寺二月堂の3月行事。
もとは旧暦の2月1日から行われ
二月に修する法会「修二会(しゅにえ)」といい
二月堂の名に由来している大切な行事である。
「達陀(だったん)」の行法は
修二会の期間中、3月12・13・14日の3日間二月堂の内陣で行われる。
達陀=梵語で「火の苦行」。


東大寺に言い伝えられる
「青衣の女人(しょうえのにょにん)」のお話と、
実際にも行われる達陀の行法がテーマ。
歌舞伎舞踏はとても迫力があって、
3月に東大寺で行われる本物の達陀も見てみたくなりました。


    


ここでちょっと歌舞伎についてお勉強 byウィキ

江戸時代の歌舞伎は成立の過程から
(1) 歌舞伎踊り
(2) 歌舞伎劇
に分けられるともいう。

(1) 歌舞伎踊りは若衆歌舞伎までを言い、
  流行の歌に合わせた踊り
  (若衆歌舞伎は曲芸なども見せていたといわれる)を指す。
  またその後に創作された踊り主体の演目(歌舞伎舞踊)も
 含める場合もある。
一方、
(2) 歌舞伎劇は自然に現代に見られるような
舞踊的要素を備えた演劇となった。
若衆歌舞伎が禁止される際に、
幕府より「物真似狂言づくし」を義務付けられたことも
その一因となった。
つまり幕府は舞踊主体の公演は売色などを伴い、
風紀上望ましくないと考えていたのである。
演劇の内容は史実や物語、事件などを題材にして演じる芝居であり、
歌舞伎狂言とも呼ばれる。

現在に伝わる江戸時代に創作された歌舞伎狂言の演目は、大きく分けて、
(1) 人形浄瑠璃(文楽)の演目を書き換えたものと、
(2) 歌舞伎狂言として創作されたものがある。

(1) 人形浄瑠璃の演目を書き換えたものは丸本物と呼ばれる

内容としては、
(1) 江戸時代より前の時代に起きた史実を下敷きとした時代物と、
(2) その当時の世相を描写した世話物
に分けられる。

歌舞伎は江戸っ子にとって一日がかりの娯楽であり、
そのためもあって当時書かれた演目には概ね長大なものが多い。
しかし江戸時代も後期になると、
このように一つの演目だけ通しての上演(通し狂言)は稀となり、
一日の中で二つ以上の演目の人気場面をつなぎ合わせて上演すること
(見取り狂言)が一般化した。
これが今日にも連なる歌舞伎独特の上演形態となっている。

歌舞伎音楽について
長唄 ;歌舞伎の伴奏音楽として発達した音楽。
    舞踊劇や舞踊で演奏される(例:『勧進帳』『連獅子』など)。
    また囃子方と共に下座音楽を担当する。
義太夫節 ;人形浄瑠璃は、義太夫節(浄瑠璃の一種)の演奏に
      合わせて劇が進行する構成であり、
      歌舞伎でも人形浄瑠璃から移入した演目
     (『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』など)は同様に
      義太夫節が演奏される。
人形浄瑠璃では登場人物の台詞と状況説明を全て
義太夫節の太夫(語り手)が行うが、
歌舞伎での台詞は基本的に役者が担当し、
太夫は状況の説明のみを語ることになる。


確かに歌舞伎はある程度の基礎知識がないと
物語の背景や人物設定が分かりにくいところがある。
「見取り狂言」仕立ての興行で発達した歌舞伎では、
複数の演目から人気の場や幕をのみを拾って見せるのが通常である。
また仮に「通し狂言」を上演したとしても、
そもそも歌舞伎には一日のうちに時代物と世話物、
荒事と和事、狂言と舞踊といった相対する分野を
くまなく網羅するという決まり事があるため、
例えば江戸の遊郭の遊女たちが羨望する粋でいなせな美男の助六が
実は姿を変えて父の仇討ちの機会を待つ
武士の曾我五郎(鎌倉時代に実在した人物)だったりする必然性があった。
こうした歌舞伎を愛する者にとっては当たり前な設定も、
明治の洋行帰りの知識人にとっては奇妙奇天烈な展開にしか見えなかった。

こうしたことを受けて歌舞伎様式の改良運動が起こった。
この運動のひとつの成果として、現在につながる歌舞伎座の開場がある。
また新派と呼ばれる、日本の新しい演劇形式が成立した。


    


ふむ~。
こうしてお勉強してみると
俄然また行きたくなってきました。
演目はまだまだ分からないものが多いので、
「この役者みたい」系で来年何回か観劇できたらいいなと思ってます。
私、昔から歌舞伎よりは人形浄瑠璃のほうがなんとなく好きで、
そっちも観たくなっちゃいました。
それには関西に行かなきゃならないのかな


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