木洩れ日通信

政治・社会・文学等への自分の想いを綴る日記です。

京都の旅、マンションの林立にびっくり

2008年07月11日 | Weblog

『源氏物語』ゆかりの旅へ。
7日から9日の日程で、行ってきました。
私は、カルチャーセンターで、この10年ほど「源氏物語を読む」という講座を受けている。
小学館発行のテキストで、原文を一字一句追っていくもので、講師は元信大教授の滝澤貞夫先生。
そして今年は「源氏物語」が成立してからほぼ1000年の千年紀というわけで、「京都御所特別拝観」が組み込まれたカルチャー主催の旅が企画され、参加した次第。
京都で学生時代を過したが、その頃は、古典にさほど興味はなく、御所の周りの公園はよくうろついていたが、中に入ったことはなかった。御所内は宮内庁の管理で、やたらに入れるところではなかったが。
写真などでよく紹介されている儀式の場の「紫宸殿」。
天皇の日常の住居とされる「清涼殿」。
明治維新に際して、国の大変革を決定する会議のおこなわれた「小御所」。など。
平安時代の様式をのこしているのは紫宸殿ぐらいで、あとは、室町時代の書院作り、更に時代の下がった数寄屋造りの様式を取りいれた建物になっている、という説明であった。
だいたい平安遷都以来、何度も火事・戦乱があり、その都度、京都の町の建物は、寺社仏閣から、貴族の屋敷まで焼失・再建を繰り返してきたので、1000年の歴史に耐えた建て物はほぼ「皆無」といっていい。
だいたい御所自体が、平安時代は、もっと西に位置していて、今の京都御所あたりは、貴族の屋敷が並んでいたところ。
内裏の火事のたびに、一時の避難場所、「里内裏」として、貴族の屋敷が使われ、その流れで、現在の場所に移っていったようだ。
私が通った大学(立命館大・文学部)は、御所のすぐ隣、梨本神社の脇にあり、少し北に上がったところに、紫式部の屋敷跡とされる「櫨山寺(ろざんじ)」があった。
今回そこがコースに組み込まれていたので、40年ぶりにそのへんに行けるのかと、ちょっと楽しみにしてたのだが、「櫨山寺」が式部の屋敷跡という根拠はなく、式部の雇い主、藤原道長の別邸のあったところだったという先生の説明でカットされてしまい、がっかり。今は大学はなく、予備校に売却はされてしまっているのだが。
代りに安倍晴明神社に連れて行かれたが、晴明神社より「櫨山寺」のほうがましだった。
泊まりは二条城近くの「全日空ホテル」だったが、すぐ隣には「京都国際ホテル」がある。
この京都国際ホテルは、今年の冊子「木洩れ日」11号の「若者の時代」で取り上げた『二十才の原点』の著者高野悦子が、アルバイトしながら、青春の日々を悶々としたところだ。
「全日空」のほうが、やや格上の感じだが、40年前にはなかった。
このあたりは、中京区といって、職人や商人の町として、いわゆる「町家」が並んでいたところだが、今回行ってびっくり。その「町家」の殆どが、縦長の長方形のマンションに建て変わっていて、林立していた。
このことは、テレビでも報道されていたから知ってはいたが、まさかこれほどの規模とは思っていなかった。よそから来た人間にとっては「醜悪」そのものの風景だが、「町家」の所有者にすれば、「町家風」に立て替えるにはお金がかかるし、不便でもある。いっそマンションにして、1階は仕事場ないしお店、2階以上は自宅と貸しマンションにすればいい、そうすれば税金対策にもなるし、「一石三鳥」と不動産業者なんかに勧められた結果なのだろう。
「町家」は奥に風が通る作りになっていて、それで暑い京都の夏をやりすごす仕組みになっていたのだが、マンションが建ったことによって、風の通り道がなくなり、このあたり、エアコンなしには過せない町になってしまったと思われる。
孤立してへばりつくように「町家」を守る意味がなくなってしまった。
京都市政の無策の結果がそこにある、という感じだ。
「観光で生きる町」と言いながら、正反対の道を行っているような気がするのが、今の京都だ。
各寺院で説明してくれる坊さんの俗っぽさも気になった。
少しも「修行を旨」とする修道者の気配がない。金勘定と自身の欲望を満たすことに関心が行ってしまい、坊さんの仕事は「身過ぎ・世過ぎ」。
これなら地方の名の知られていないお寺や、ガイドのほうがはるかにましだ。
「知られすぎる」ということの落とし穴だが、誰もが簡単
に落ちる穴だ。
「吉兆」や「赤福」の不祥事がいい例。



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