日本は本当に風物詩が豊かだ。
今年はオリンピックがあってなお特別ではある。
そのオリンピックが無事に終えることができた。
と思えば、夏の高校野球が始まった。
2年ぶりである。
無観客なのがちょっと寂しいが。
それにお盆である。
盆と正月、これは本当に味わい深いものです。
でもコロナのせいで、帰省は控えてくれとか。
いやはやである。
・・・・・
お盆は一般的には仏教の行事である。
この時期、お坊さんが駆けずり回る。
各家では準備をしてご先祖様をお迎えする。
私は毎年墓参りをするのだが、
実は墓にはご先祖様はいない、
それぞれの家に帰られていて。
だから墓参りをする時期としてはふさわしくないとも。
でも墓参りをしている。
同じようにしている人も多くいる。
そも墓にはご先祖様はいないとか、
既に神仏のもとに帰っておられて。
墓は残された者にとっての支えで、
ご先祖様との繋がりの起点である。
そこは思いの交錯する場所であり、
その思いの交錯こそ参る者にとって糧となる、
そういうことだと。
だから私にはお盆の墓参りに違和感はない。
それに終に独り身で子孫を残せてもいない。
昔で言えば末っ子の放蕩暮らし。
野垂れ死にがいいところ、
だから何ぞ今更である。
それに家に迎える準備もしていない。
墓参りが妥当なところ。
なお、
迎えるという点では正月もそうである。
歳神様を迎えておもてなしする。
そして終わればお見送りをする。
だからお盆と正月は神道の行事なのです。
迎える神様が自然神か祖先神かの違いだ。
と謂うことです。
表向きは仏教行事になっているが、
でもその基は神道行事に違いなし。
亡くなった人の御霊を祀ると謂う。
靖国神社でも毎年御霊祭りが行われている。
そも神社とは御霊を祀るところである。
私は知らない、神道葬はあっても神道墓は…。
氏神の社は各地にあって、
そこではご先祖様(の御霊)を祀っている。
もとより墓ではない。
ただ天皇の陵には遺体が埋葬されているとか。
でも遺体は主役ではないだろう。
御霊こそが祀られているのだと。
にしても墓は必要なのだ。
そこは仏教と棲み分けをしたのかも。
その点、中東や欧米は遺体を大事にする。
それを復活再生の基とするから。
大方エジプトを起源としているようだ。
日本はそうではない。
遺体と記すように、本体ではないのだ。
遺産が残された財産なら、
遺体は残された自分であったものである。
本体は別にある。
それを「たま」(魂)と言っている。
それが日本人の想いである。
勝手ながらそう思っている。
・・・・・
もう40年位になるだろう。
母が亡くなってから。
その時は凄い衝撃であった。
目の前が紫色になった。
漫画によくあるあれで、
額に斜線を引いたあの図柄のように。
それが何日も日続いた。
そして思ったのである。
これは永遠の別れではないと。
大いなる再会の初めなのだと。
私もいずれそこへ帰ると。
それで何とか落ち着いた。
そこで、もう一つ思った。
葬儀は亡くなった人の為にあるのではないと。
残された人の為だと。
勿論亡くなった人の為でもある。
でも亡くなった人はその時点で救われている。
神仏によって。
まさにそこへ帰るのだから。
して見ればである。
墓もそうだと。
礼を以って霊を送った後、
礼を以って遺体(遺骨)を始末せねばならない。
だから必要なのだ。
だがそれは残された者にこそ意味があるのだと。
その残された者とは、
今いる者だけでなく、
これから生まれてくる者らもで、
つまり子孫の為に必要なのだと。
つくづく思う。
先祖供養は世界のどこにでもある。
祖先崇拝は世界のどこにでもある。
言葉を持ち意識を持ったときから。
そこは十字路である。
思いの十字路である。
今生きている者達の横の繋がりと、
祖先と子孫を繋ぐ縦の繋がりとの。
墓参りとは、
その起点に立つことである。
そして己の原点に立ち返る。
そういうものだと。
ちなみに、
神社に参ることは同じ線上にある。
棲み分けたのはこの故かもと思う。
・・・・・
それにしても今や墓は危うい。
どんどん失われている。
子孫が絶えれば致し方ないが、
子孫がいても危うくなっている。
嘆かわしいことだ。
その理由はあきらかだ。
言葉が溢れ情報が溢れ、
ゆえに分かったような気になってるが、
逆にそれが目くらましとなる。
表面をなぞるだけで、
想いが至らないのだ。
しかもである、
言葉が恣意的に選別されている、
当然だが情報も選別されている。
私はそれに抵抗している。
微々たる力だが。
今年はオリンピックがあってなお特別ではある。
そのオリンピックが無事に終えることができた。
と思えば、夏の高校野球が始まった。
2年ぶりである。
無観客なのがちょっと寂しいが。
それにお盆である。
盆と正月、これは本当に味わい深いものです。
でもコロナのせいで、帰省は控えてくれとか。
いやはやである。
・・・・・
お盆は一般的には仏教の行事である。
この時期、お坊さんが駆けずり回る。
各家では準備をしてご先祖様をお迎えする。
私は毎年墓参りをするのだが、
実は墓にはご先祖様はいない、
それぞれの家に帰られていて。
だから墓参りをする時期としてはふさわしくないとも。
でも墓参りをしている。
同じようにしている人も多くいる。
そも墓にはご先祖様はいないとか、
既に神仏のもとに帰っておられて。
墓は残された者にとっての支えで、
ご先祖様との繋がりの起点である。
そこは思いの交錯する場所であり、
その思いの交錯こそ参る者にとって糧となる、
そういうことだと。
だから私にはお盆の墓参りに違和感はない。
それに終に独り身で子孫を残せてもいない。
昔で言えば末っ子の放蕩暮らし。
野垂れ死にがいいところ、
だから何ぞ今更である。
それに家に迎える準備もしていない。
墓参りが妥当なところ。
なお、
迎えるという点では正月もそうである。
歳神様を迎えておもてなしする。
そして終わればお見送りをする。
だからお盆と正月は神道の行事なのです。
迎える神様が自然神か祖先神かの違いだ。
と謂うことです。
表向きは仏教行事になっているが、
でもその基は神道行事に違いなし。
亡くなった人の御霊を祀ると謂う。
靖国神社でも毎年御霊祭りが行われている。
そも神社とは御霊を祀るところである。
私は知らない、神道葬はあっても神道墓は…。
氏神の社は各地にあって、
そこではご先祖様(の御霊)を祀っている。
もとより墓ではない。
ただ天皇の陵には遺体が埋葬されているとか。
でも遺体は主役ではないだろう。
御霊こそが祀られているのだと。
にしても墓は必要なのだ。
そこは仏教と棲み分けをしたのかも。
その点、中東や欧米は遺体を大事にする。
それを復活再生の基とするから。
大方エジプトを起源としているようだ。
日本はそうではない。
遺体と記すように、本体ではないのだ。
遺産が残された財産なら、
遺体は残された自分であったものである。
本体は別にある。
それを「たま」(魂)と言っている。
それが日本人の想いである。
勝手ながらそう思っている。
・・・・・
もう40年位になるだろう。
母が亡くなってから。
その時は凄い衝撃であった。
目の前が紫色になった。
漫画によくあるあれで、
額に斜線を引いたあの図柄のように。
それが何日も日続いた。
そして思ったのである。
これは永遠の別れではないと。
大いなる再会の初めなのだと。
私もいずれそこへ帰ると。
それで何とか落ち着いた。
そこで、もう一つ思った。
葬儀は亡くなった人の為にあるのではないと。
残された人の為だと。
勿論亡くなった人の為でもある。
でも亡くなった人はその時点で救われている。
神仏によって。
まさにそこへ帰るのだから。
して見ればである。
墓もそうだと。
礼を以って霊を送った後、
礼を以って遺体(遺骨)を始末せねばならない。
だから必要なのだ。
だがそれは残された者にこそ意味があるのだと。
その残された者とは、
今いる者だけでなく、
これから生まれてくる者らもで、
つまり子孫の為に必要なのだと。
つくづく思う。
先祖供養は世界のどこにでもある。
祖先崇拝は世界のどこにでもある。
言葉を持ち意識を持ったときから。
そこは十字路である。
思いの十字路である。
今生きている者達の横の繋がりと、
祖先と子孫を繋ぐ縦の繋がりとの。
墓参りとは、
その起点に立つことである。
そして己の原点に立ち返る。
そういうものだと。
ちなみに、
神社に参ることは同じ線上にある。
棲み分けたのはこの故かもと思う。
・・・・・
それにしても今や墓は危うい。
どんどん失われている。
子孫が絶えれば致し方ないが、
子孫がいても危うくなっている。
嘆かわしいことだ。
その理由はあきらかだ。
言葉が溢れ情報が溢れ、
ゆえに分かったような気になってるが、
逆にそれが目くらましとなる。
表面をなぞるだけで、
想いが至らないのだ。
しかもである、
言葉が恣意的に選別されている、
当然だが情報も選別されている。
私はそれに抵抗している。
微々たる力だが。