ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

墓(はか)

2021-08-22 09:04:48 | 日記・エッセイ・コラム
日本は本当に風物詩が豊かだ。
今年はオリンピックがあってなお特別ではある。
そのオリンピックが無事に終えることができた。
と思えば、夏の高校野球が始まった。
2年ぶりである。
無観客なのがちょっと寂しいが。
それにお盆である。
盆と正月、これは本当に味わい深いものです。
でもコロナのせいで、帰省は控えてくれとか。
いやはやである。
・・・・・
お盆は一般的には仏教の行事である。
この時期、お坊さんが駆けずり回る。
各家では準備をしてご先祖様をお迎えする。
私は毎年墓参りをするのだが、
実は墓にはご先祖様はいない、
それぞれの家に帰られていて。
だから墓参りをする時期としてはふさわしくないとも。
でも墓参りをしている。
同じようにしている人も多くいる。
そも墓にはご先祖様はいないとか、
既に神仏のもとに帰っておられて。
墓は残された者にとっての支えで、
ご先祖様との繋がりの起点である。
そこは思いの交錯する場所であり、
その思いの交錯こそ参る者にとって糧となる、
そういうことだと。
だから私にはお盆の墓参りに違和感はない。
それに終に独り身で子孫を残せてもいない。
昔で言えば末っ子の放蕩暮らし。
野垂れ死にがいいところ、
だから何ぞ今更である。
それに家に迎える準備もしていない。
墓参りが妥当なところ。
なお、
迎えるという点では正月もそうである。
歳神様を迎えておもてなしする。
そして終わればお見送りをする。
だからお盆と正月は神道の行事なのです。
迎える神様が自然神か祖先神かの違いだ。
と謂うことです。
表向きは仏教行事になっているが、
でもその基は神道行事に違いなし。
亡くなった人の御霊を祀ると謂う。
靖国神社でも毎年御霊祭りが行われている。
そも神社とは御霊を祀るところである。
私は知らない、神道葬はあっても神道墓は…。
氏神の社は各地にあって、
そこではご先祖様(の御霊)を祀っている。
もとより墓ではない。
ただ天皇の陵には遺体が埋葬されているとか。
でも遺体は主役ではないだろう。
御霊こそが祀られているのだと。
にしても墓は必要なのだ。
そこは仏教と棲み分けをしたのかも。
その点、中東や欧米は遺体を大事にする。
それを復活再生の基とするから。
大方エジプトを起源としているようだ。
日本はそうではない。
遺体と記すように、本体ではないのだ。
遺産が残された財産なら、
遺体は残された自分であったものである。
本体は別にある。
それを「たま」(魂)と言っている。
それが日本人の想いである。
勝手ながらそう思っている。
・・・・・
もう40年位になるだろう。
母が亡くなってから。
その時は凄い衝撃であった。
目の前が紫色になった。
漫画によくあるあれで、
額に斜線を引いたあの図柄のように。
それが何日も日続いた。
そして思ったのである。
これは永遠の別れではないと。
大いなる再会の初めなのだと。
私もいずれそこへ帰ると。
それで何とか落ち着いた。
そこで、もう一つ思った。
葬儀は亡くなった人の為にあるのではないと。
残された人の為だと。
勿論亡くなった人の為でもある。
でも亡くなった人はその時点で救われている。
神仏によって。
まさにそこへ帰るのだから。
して見ればである。
墓もそうだと。
礼を以って霊を送った後、
礼を以って遺体(遺骨)を始末せねばならない。
だから必要なのだ。
だがそれは残された者にこそ意味があるのだと。
その残された者とは、
今いる者だけでなく、
これから生まれてくる者らもで、
つまり子孫の為に必要なのだと。
つくづく思う。
先祖供養は世界のどこにでもある。
祖先崇拝は世界のどこにでもある。
言葉を持ち意識を持ったときから。
そこは十字路である。
思いの十字路である。
今生きている者達の横の繋がりと、
祖先と子孫を繋ぐ縦の繋がりとの。
墓参りとは、
その起点に立つことである。
そして己の原点に立ち返る。
そういうものだと。
ちなみに、
神社に参ることは同じ線上にある。
棲み分けたのはこの故かもと思う。
・・・・・
それにしても今や墓は危うい。
どんどん失われている。
子孫が絶えれば致し方ないが、
子孫がいても危うくなっている。
嘆かわしいことだ。
その理由はあきらかだ。
言葉が溢れ情報が溢れ、
ゆえに分かったような気になってるが、
逆にそれが目くらましとなる。
表面をなぞるだけで、
想いが至らないのだ。
しかもである、
言葉が恣意的に選別されている、
当然だが情報も選別されている。
私はそれに抵抗している。
微々たる力だが。