ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

リトマス試験紙

2017-08-21 08:56:54 | 日記・エッセイ・コラム
これは酸性とアルカリ性とを簡便に判別するものです。
昔からあるもので、今でも重宝されている。
私も同様のものを持っている。
しごく簡便なもので、それは人を判別するのです。
それは保守とリベラルとを見分ける。
とは言っても、世間の仕分けとは違うかも。
・・・・・
判別に用いる要素は否定という概念である。
神ならぬ人間は当然のこと突き詰めれば何も分かっていない。
言葉という道具を使って、いかにも分かったような気にはなれるが。
それはあくまで分かったような気になるだけだ。
所詮何も分かっていないのです。
然して目の前の現実を只認めるのみ。
そしてそれに従って生きるのみ。
そこは人以外の生物と代わらない。
人もまた只の生物なのだ。
違うのは言葉を持ってしまったことである。
この言葉というのが実に奇妙かつ特別なものなのです。
だから取扱に注意を要する。
聖書によればである。
言葉は本来神のものである。
言葉は神であり現実である。
人の身にとって現実を的確に言葉に置き換えるのは難しい。
それなりに表現しても、本当に的確かは誰にも分からない。
あくまでも分かったような気になるだけだ。
それは止むを得ない。
だから分からないことは分からないと認めよう。
そして何より現実を否定しない。
たとえそれが気に入らなくとも。
否定という概念は余程慎重に使わねばならない。
綾を表現するのに時に有用だとしても。
・・・・・
現実は一つだ、神の目から見れば。
しかし、それを的確に言葉にするのは難しい。
人にはおよそ難しい。
人には人の数だけ現実があるから。
私には私の現実が…。
彼方には彼方の現実が…。
人の思いの数だけ現実があるのだ。
それを否定してはいけない。
気に入らなければ、気に入らないと言うのはいい。
私と違うのなら、私とは違うと言えばいい。
それだけのことだ。
だが世間には否定する人がいる。
頑なに否定して譲らない人がいる。
所謂リベラル人士である。
中にはそうでない人もいる。
そういう人はむしろ保守系だと思っている。
討論などを聞いていれば分かるだろう。
相手の意見は意見として認め、その上で自分の意見を主張する。
これが保守陣営である。
就中、真正保守である。
所謂保守陣営の中にも相手の意見を否定する人がいる。
そういう人は保守ではない。
偽装保守のリベラル人士である。
そう思っている。
・・・・・
人には人の思いがあり、
それは人それぞれである。
だが、その現実を認められない人がいる。
自分の気に入らないものは否定するのだ。
しかもたいていは完全否定である。
その辺を判別する。
これは難しいものではない。
実に簡便で分かりやすいのものです。
それが私のリトマス試験紙です。