ベルガモを観光後、バスで2007年世界遺産に登録されたミラノの東南東の町、マントバに向かった。
この町は紀元前からあり、ローマ時代に栄え、601年にロンバルディア公国の支配下に入った後も自治都市として栄えた。
13~18世紀にはゴンザーガ家の居城・ドゥカーレ宮殿が置かれた。
15世紀末にゴンザーガ家のフランチェスコ2世と結婚したイザベラ・デステが、多くの文化人、芸術家を支援した事により、ルネッサンス期の代表的な町の一つになったという。(彼女は、絵「モナリザ」のモデルかも知れないと言われている)
レストランで昼食を終えてから、先ずドゥカーレ宮殿があるソルデッロ広場に向かった。
直径が7~8cmもある丸い石を敷き詰めた歩きにくいローマ時代の石畳の道路① を進むと、同じ石畳のソルデッロ広場に出た。
広場を囲んで、ドゥカーレ宮殿(②の右の建物)、ドゥオーモ(サンタ・バルバラ教会)(②の正面の建物)があり、宮殿の奥にはサン・ジョルジョ城もあった。
宮殿には全部で500以上の部屋と多くの美術品があると言われているが、私たちはラファエロがデザインしたという素晴らしい大型タペストリーが並んで掛けられている部屋やベルサイユ宮殿に似た華やかな鏡の間、星座が描いてある宇宙の間などを見た。写真撮影は禁止されていた。
ドゥオーモの内部は、明るく華やかだった。③
① ②
③
マントバ観光を終えた後、バスでその日の宿泊地である181km北のアルプスに近いボルツァーノまで3時間走った。途中、交通の要所として、またロミオとジュリエットの故郷として名高いヴェローナ郊外を抜けた。
4日目の観光は、まず、ボルツァーノの市内散策から始まった。
この町は現在、ボルツァーノ自治県の主都である。
ウィキペディアによると、ボルツァーノ自治県は、中世までは神聖ローマ帝国の一部になっていたが、1363年ハプスブルグ家(スイスに元を置いたドイツ系貴族)のルドルフ4世の領土になってからは1918年までハプスブルグ家に受け継がれて来ていて、チロル地方の内、南チロルでは、イタリア語を話す人もいたという。
第一次世界大戦でイタリアは、1918年、南チロルに軍隊を駐留させた。1919年9月10日、南チロルは正式にイタリア領となった。
1922年に誕生したムッソリーニ政権はイタリア化政策を進め、ドイツ語系住民にドイツ語を禁止した。
1939年ヒットラーは、ドイツ語系住民にドイツへの移住か、ドイツ語を捨ててイタリア化するかの選択を迫った。
第二次世界大戦後の1948年、この地域に自治が保障されたが不完全だったため、1950~60年代にはテロ活動も激化したという。
1969年、オーストリアと自治権拡大とドイツ語の地位向上で合意が成立した。
現在人口482,000人、コムーネは116、ドイツ語住民は25%だという。
このような複雑な歴史を持った地域だけに、チロル風の建物が目を引いた。
教会の屋根は色タイルを並べてデザインされていたし④、壁に絵を描いて装飾している建物が幾つもあった。⑤
④ ⑤
公用語としてイタリア語とドイツ語が通用する町のため、様々な標識が両方の言語で表示されていた。
小さな広場に並んでいた市では、近郊の豊富な農産物や果物が売られていた。⑥ 手作りと思われる野菜のコサージュには温もりを感じた。⑦
また、この町の近郊で1991年に発見された「アイスマン」のミイラを保管している博物館の壁には、研究の結果、想像される猟師姿のアイスマンの垂れ幕が下がっていた。⑧
⑥ ⑦
⑧
アルプスに近い地域に住んで来た人たちは、常に戦争があれば支配者が変わるという歴史を受け入れて来たようですね。言葉まで支配国に強制されるのは辛かったでしょうね。
マサエさん、こんにちは。
住民を支配する広大な領土を持つ貴族は、今の私達には考えられないような財産と権力があって、信じられないような豪勢な宮殿を建てて生活していたんですね。
でもそれも人類の文化遺産だと考えれば、許す気もして来ますが。
唐辛子とニンニクで素敵な飾り物を作るのは、農家の女性なんでしょうね。
「モナリザ」のモデルは、マダム・ジョコンドだという説が有力ですが、他にもいろいろな説があるようですねー。
宮殿、きれいなんでしょうねー。一度見てみたいです。
市場の野菜、新鮮で美味しそうですね。野菜のコサージュもステキです。
チロルと言うと、チロリアンハットやチロリアンテープとか民族衣装が印象的で、牧歌的で明るいイメージが強いです。
こんなに複雑な背景があるのですね。意外でした。