花好き・旅好き80代北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり、今は外国行きは見合わせている。

「ウズベキスタンの旅」(4)

2014年05月28日 | 海外旅行「中央アジア」ウズベキスタン

≪タシケント観光≫(1)

「タシケント」のホテルで1泊後、翌朝食事を早めに済ませて友人とホテルの近くを散歩した。
ホテルの前は樹木が生い茂る広い公園になっていて、公園を抜けると、幅が広い幹線道路があり、一角に銀行が立ち並んでいた。
道路を渡るとスーパーマーケットや洋品店があり、「KAPAOKE」(カラオケ)店もあった。(キリル文字では、Pは英語のR、Yは英語のUと同じである)
カラオケ店の裏には、ソ連時代に建てられたと思われる7階建て程の古いアパートがあった。

 

 

ホテルに戻ると、バスが来ていて、運転手がスーツケースを積んでいた。バスは40人乗りで運転席が1階、客席が2階と分かれている珍しいバスだった。窓ガラスも綺麗に拭かれていて気持ち良かった。



いよいよ首都「タシケント」市内の観光に出発した。
この町の人口は250万人。この日の気温は予想より高い37℃だったが、「大陸性気候」なので7月には45~48℃にもなり、冬は-25℃に下がるという厳しい土地だ。
古くからシルクロードのオアシスとして色々な民族が行き交ったために、現在も多民族国家である。

1865年から帝政ロシアに支配され、ロシア人の入植が続いた。
1966年に起きた大地震で古い城壁やロシア人街とウズベク人街との境界も崩れ去った。
その後、ソ連から3万人以上の労働者が送り込まれて、町の復興に当たった。1977年には地下鉄を建設している。

①「日本人墓地」
バスで先ず向かったのは「日本人墓地」だった。
ソ連の領土だった第二次世界大戦後、ソ連の捕虜となり、タシケントに送られて強制労働させられ亡くなった日本人79名が、ムスリムの墓地の奥に眠っていた。
亡くなった人は福島県の出身者が多かったのか、墓地内に1990年5月に建てられた慰霊碑があり、その表には「永遠の平和と友好 不戦の誓いの碑」「碑建立実効委員会、日ソ親善協会福島県支部」、その裏側にはここに眠っている人たちの名前が刻まれていた。

(5月30日付けの朝日新聞「世界発」の記事によると、厚生労働省の資料では旧ソ連での抑留者は約561,000人。その内約23, 000人がウズベキスタンに連行され、運河やダム、水力発電所、劇場建設の他、炭鉱や農業にも従事したという。約900人が死亡した。ウズベキスタン国内には13の日本人墓地があると書いてあった)



  (小さい画像は、クリックすると拡大します)

現在墓地を管理してくれている「Xyppam」(フラム)さんの祖父が、日本人墓地の造成に尽力し、できてからは家族で代々管理しているという。私たちは手を合わせてからそれぞれ感謝の印に彼に寸志を渡した。私は握手後、一緒に写真を撮り、サインをしてもらった。
私にとっては、26年前に「ハバロフスク日本人墓地」を訪れて以来の旧ソ連領にある日本人墓地参拝だった。



現地ガイドの説明では、この国の墓は個人々々に造られ、墓石に生前の写真を参考に肖像を刻む習慣があるそうだ。隣の墓地には亡くなった人の顔や全身を刻んだ墓石が多かった。


コメント (2)
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