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花好き・旅好き80代北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり、今は外国行きは見合わせている。

米国札幌総領事館にビザの面接に行った

2016年03月09日 | 海外旅行「北アメリカⅡ」ニューヨーク、ワシントン・ボストン

過日、パソコンによるビザ申請をした結果、昨日が米国が決めた面接の予定日だった。
10時からだったが、場所が直ぐには分からないかもしれないと考え、早めに家を出て札幌駅に向かった。駅からは手稲方面行きのバスに乗った。
運転手に目的地を話し、近い停留所で降りた。そこから5~6分歩いたが、それらしい場所が見つからない。うろうろしながら人に聞き、予定時間の10分前にようやく辿り着いた。

待合室で待つこと10分弱。名前が呼ばれ、X線による手荷物検査を通り、やっと面接室へ入った。既に待っている人がいた。
私の番になり、先ず、ガラスでできた仕切りの手前に置いてある機械に指を置いて、両手の指10本の指紋を取る段になった。
ところがなかなかOKされないのだ。何度かやり直しをさせられた。
後で指を見たら、どの指も指紋が薄くなっていたのだ。今まで気づかなかったが、年齢のせいだろうか。

また、申請書の一部の記載を私が間違えていたので、面接官に申し出て訂正してもらった。
それから隣の面接官に「パスポート」を渡し、「昨年10月に「イラン」旅行をしたので、ビザを取りに来ました。」と言うと、「イランはどんな国でしたか。」と聞かれた。「綺麗な国で、ホームレスの様な人は見当たりませんでした。」と答えた。
次に「ビザの事はどうして知りましたか。」と聞かれた。「ツアーに参加を申し込んだ旅行社から、2月7日に連絡が来たので、それから申請書を作りました。」と返事した。
最後に「アメリカには何時行きますか。」と聞かれたので、「今月〇日に旅行する予定でしたが、面接日が今日なので間に合いそうに無く、予定を4月に変更しました。」と言うと、「そうですか。済みませんでした。」と言われた。
最後に、「1~2週間以内にパスポートを郵送します。」と言われて面接は終った。
渡されたプリントを見ると、「パスポート」は一旦東京の米国大使館に送られ、そこから自宅に返送されるとの事だった。

その後、札幌駅で妹と待ち合わせをし、「イタリアンレストラン」で食事をした。
妹には私が旅行に出る時は、伯母に何かあった場合の連絡先を引き受けてもらっている。それで、お礼を兼ねて旅行の土産「ドライマンゴー」「ココナッツオイル」と「(スリランカ製)ディルマの紅茶」 を持参して渡した。妹は紅茶が好きなので、パック50個入りの紅茶は喜んでくれた。1時間半程楽しくおしゃべりをしてから、JRで帰宅した。

前日に旅行社からビザについて問い合わせがあったので、帰宅後、面接が済んだという報告の電話をした。
また、一緒にアメリカ旅行に同行する予定の友人にもメールで伝えたら「オメデトウ」という返信が来た。

正直な所、電子ビザを完成させるまで精神的に大変だったが、同行を予定していた友人がいたからこそ最後まで諦めずにできたと思っている。
面接が済んで本当にホッとした。




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「アメリカ入国ビザ」の申告書作成で疲れ果てた

2016年02月19日 | 海外旅行「北アメリカⅡ」ニューヨーク、ワシントン・ボストン

3月末に行く「アメリカ旅行」のツアー参加を申し込んでいた。
ところが2月7日に旅行社から「〔イラン・イラク・シリア・スーダン〕への渡航暦がある人には、3月1日以降のアメリカ入国に当たり、電子ビザ「ESTA」ではなく、正式な「ビザ」が必要になった」という連絡が入った。そう決まったのは1月下旬らしい。
多分、ISなどによるテロの不安が高まったからだし、アメリカはISに対抗するために「シリア」を「フランス」「イギリス」「ドイツ」「トルコ」「ロシア」と共に空爆に踏み切っているから、報復のテロなどを恐れて、入国者を厳しく取り締まる一環なのだろう。

私は昨年10月に「イラン」に渡航した。そのため私にもビザの取得が義務付けられたので、その日から3日間、朝から夜までずっとパソコンの前に座って、アメリカ政府のビザ発行部署が出している「DS-160」というパソコンによる申請用紙と格闘した。

きちんと数えた訳ではないが、質問は全部で160項目程あった。
(前に「インド」のビザ申請をやはりパソコンでした時は72項目だった。その時にも苦労をしたが、今回はその比ではなかった)
画面の最初にある「使う用語」を「日本語」にする。そうして英語で書かれた質問をクリックすると、簡単な日本語和訳が出て来るが、回答は全て英語で答えなければならない。英和辞典を片手にしながらだが、文字が小さいので拡大鏡を使って読んだ。疲れた。

そして、質問項目が全部最初から画面で見える様にはなっていない。
例えば、「あなたは職業を持っていますか」という質問では、「ハイ」とか「リタイヤした」と答えると、その下に隠れていた質問が飛び出す仕掛けになっているのだ。
この場合は、「勤務期間」「会社名」「上司の名前」「副上司の名前」「会社の郵便番号」「住所」「電話番号」「あなたが担当した仕事」「その主な内容」という訳だ。
次々と質問が飛び出して来るので、全体を見通す事ができない訳だ。終着点が分からないので、精神的に不安だし疲れる。

また「父親の名前」「父親の出生地」「母親の名前」「母親の出生地」などなど、日本で生活していたら絶対に聞かれない事柄も次々と質問されるのだ。(私の父は既に60年も前に、母も40年以上前に死去していてもだ)

一番困ったのは、「アメリカ滞在中の身元証明先」で、旅行社に問い合わせて「現地の手配会社」を教えられたが、それでは駄目だという。2度目に問い合わせて教えられた「レストラン」の名前と住所、郵便番号、電話番号を入力したら、OKだった。

終りの方の質問では、29項目の「安全」「健康」上の質問に答えるのである。
例えば、「テロの組織の一員になった事があるか」「違法な麻薬などを持ち込もうとした事があるか」「人権を侵して拘束された事があるか」「子どもや女性を金銭で売買した事や、それに手を貸した事はあるか」「特定の感染症になっているか」「臓器を売買する組織や人に手を貸した事はあるか」などなどだった。

私の記憶では、同じ質問がページを変えて3回なされ、全ての質問に3回回答したので、結果的に物凄い時間と体力を要した。

質問が終ると「電子プロフィール写真」の取り込みと編集が続く。
大きさが600px(5cm)×600px(5cm)ピッタリで、背景が白かオフホワイトの写真を指定された画面に取り込むのだ。顔の位置と大きさも決まっているから難しい。
私の場合は半日あれこれやったが上手く行かず諦めかけていた時、「あなたの写真は条件に合わないので、面接時に改めて持参して下さい」という画面が出て来て、やっと次に進むことができた。

進むと「料金の支払い」画面だ。「取得するビザの種類」を選ぶと金額が出てくる。私の場合は「ツーリスト」で「19,200円」だった。
その次が「支払い方法」だ。銀行振り込みなど色々あるが、私は「カード支払い」にした。
画面には「一度支払ったお金は、どんな事があっても戻されません」と警告が出た。

支払い手続きが済むと「面接の予約」画面に変わった。
日本に数箇所あるアメリカ大使館や領事館の内、希望する場所と時間を選ぶのだが、面接は毎日行われるのではなく、月に2回なのだ。
最後に「あめでとうございます。あなたの面接は〇月〇日〇時に決まりました」という画面が出た。

しかし、私には問題があった。一番早い2月下旬の面接日には丁度予定している旅行とぶつかっていく事ができないのだ。
止むを得ず3月の初めの面接日を選んだが、ビザの取得が3月下旬のアメリカ旅行の出発に間に合うかどうかが不安で、問い合わせのメールを2回、それに必須の「理由書面」を作製し添付してビザ発行部署に送ったが、今の所、拉致があかない。
悩んだが仕方なく、結局は出発予定を後にずらす事にした。旅行費用も高くなったし、国内線飛行機の往復予約と帰国後一泊する成田のホテルの予約をし直した。

結局、ビザ取得が必要だという連絡を受けてから一昨日まで、画面との格闘が続いた。肩は凝るし目は霞むし熟睡できないし、本当に大変だった。
私の場合、勤めていた職場で最後の5年間程、パソコンで仕事をする事になって以来、パソコンを曲がりなりにも使って来た。ブログを始めてからは、写真の取り込みや編集もして来た。この経験があったから、今回のビザ申請を自力でする事ができた様に思う。
その時は面倒だと思っても、どこでその経験が役立つか分からないから、人生には幅広い経験が大切だと改めて実感する事ができた。

面接に必要な写真は、改めて「証明写真」のボックスで撮った。疲れもあったとしても、年月の経過が私の写真にはっきりと見て取れて愕然とした。
また、ここまで苦労したのだから、ビザが取れたら「有効期限5年間」の間に、まだ行っていないアメリカの地域やアメリカの国際空港で他国に行く航空機に乗り継ぐ旅行をしたいと考えるが、正直な所、この先何時頃まで私自身の体力、気力、経済力が持つかが気になり始めている。

昨日、東京の「文書配達センター」から「レターパック」が届いた
中には私の面接場所である「アメリカの札幌総領事館」宛の「レターパック」だけが入っていた。
今朝からは「DS-160」の必要書類を印刷し、「パスポート」のコピーをして送付する準備をしている所だ。(途中でプリンターのインクが無くなり、車で買いに走って来た。やれやれだ)
                    

コメント (6)
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《7》 アメリカ、カナダ

2007年02月23日 | 海外旅行「北アメリカⅡ」ニューヨーク、ワシントン・ボストン
 アメリカ東海岸を訪れた8月の旅では、ニューヨークの近代美術館に次いで行ったボストン美術館で、素晴らしい日本美術の部屋の展示に感動しました。

 また、小学1年の時に雑誌の写真を見て以来、ずっと憧れだったナイヤガラの滝で「霧の乙女号」に乗って滝壺の近くまで行きました。夜は、アメリカ側から渡りだした橋の途中で、お金を払って国境を越える手続きをし、カナダ側に渡り、綺麗にライトアップされた姿と轟音を堪能しました。
 ホテルがあったナイヤガラの傍の町で、当時の北海道ではまだ見かけない大型ショッピングモールを初めて見ました。

 翌日はバスで国境を越え、カナダ東部のケベックに行きました。ケベックの公用語は英語とフランス語ですが、歴史的にフランス移民の生活感情が残っていて、アメリカからの独立運動も何度も行われて来た独特な気風の土地である事を知りました。
 
 また、当時、アメリカは、日本製電気製品をたたき壊すなど、挑戦的な日本製品バッシングをしていましたが、その国内には根深い民族問題や深刻な経済格差を抱えていました。
 私は、アメリカは自国の問題には目をつぶり、どうして日本には内需拡大の他、国政に対する細かな要求を強行に迫れるのか、不思議に思ったりしました。

 
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