今日は西の寺子屋でした。午後、中央公民館に行って車をお借りしました。私の車とほぼ同じ大きさのデミオでした。大きさがほぼ同じなため以前お借りして運転したハイブリッド車よりもすぐに運転に慣れました。さて、田布施西小学校に午後二時半頃着きました。しばらくすると西の寺子屋の子供達30人位が集まってきました。これから、正信寺と龍泉寺に行きます。私はそのうち3人を車に載せました。
正信寺境内に到着 本堂の仏さまを拝む 紙芝居に登場する観音様
最初、正信寺に行きました。急な上り坂を登って境内前の駐車場に着きました。本堂前で靴を脱ぎ、広い部屋に入りました。そして、別の小部屋で紙芝居に登場する観音様を見学しました。広い部屋に戻ると、子供達は見学した観音様について質問,感想,絵などを用紙に書きました。
観音様に関する質問や絵を書く ご住職様による紙芝居披露
次に、ご住職様による紙芝居の披露です。紙芝居の内容は、このお寺に伝わる観音様に関わる不思議な言い伝えです。このお寺がができたのは400年位前のことです。言い伝えの真意は別として、当時の人達は、仏教や言い伝えそして伝説を信じていたのでしょう。子供達は座って紙芝居を聞いていました。
ご住職様による紙芝居を聞く子供達
正信寺の見学や紙芝居が終わると、本堂前入口で靴に履き替えました。そして、次の龍泉寺に向かいました。龍泉寺は田布施町竹尾最奥部にあります。こんもりした森の中にある静かなお寺です。お寺の前の石階段を登り、紙芝居に登場する山門をくぐって龍泉寺に入りました。
正信寺本堂前で靴に履き替え 龍泉寺前の石階段 龍泉寺の山門をくぐる
龍泉寺本堂に入るとご住職様より、山門,鐘撞堂,タラヨウの木,座禅などについてお話がありました。私はこれまで何度も龍泉寺に来ているため、なつかしくこれらを見聞きしました。説明が終わると休憩です。お母さま方やご住職の息子さんから、子供達にお茶やお菓子が配られました。ありがとうございました。
山門,タラヨウ,鐘撞堂 龍泉寺の本堂 お茶やお菓子が配られる
休憩が終わると、ご住職の奥様より紙芝居の披露がありました。その昔、山門が建てられ、すぐあとに本堂が建てられたそうです。つまり山門が一番古いのです。紙芝居は、この山門の建立に関わるお話です。確か、山門を建てたのは田布施町麻郷鳥越の宮大工です。その宮大工が棟梁として山門を建てたときの言い伝えです。
ご住職の奥様による紙芝居を熱心に聞く子供達
江戸時代から明治時代にかけて、お寺は町や村の文化の中心でした。境内に寺子屋が作られるなど、ご住職は教育者あり名士の一人でした。かつて、多くのお寺に幼稚園や保育園があったのもその名残です。文字が書けるお寺の息子たちは貴重な人材でした。そのため、幕末期にはお寺からたくさんの奇兵隊士が出ました。さらには、お坊さんだけで構成される僧坊隊が結成されるほどでした。
紙芝居を熱心に聞く西の寺子屋の子供達
紙芝居が終わる頃、だいぶ時間が押していました。そのため、タラヨウに字を書く体験はできませんでした。その代わり、家に持ち帰るタラヨウの葉がお土産として子供達に配られました。この葉の裏をひっかいて字を描くと、数分後にその字が黒く浮き上がってくるのです。この木はハガキの木として、各地の郵便局に植えてあることが多いそうです。
配られたタラヨウの葉 山門前の石段を下りる さようなら!田布施西小にて
龍泉寺を出ると、子供達を載せて出発地の田布施西小学校に戻りました。田布施西小学校に着くと、子供達は車を降りランドセルを取りにいったん校舎に入りました。そして、校舎を出たところで各自解散しました。さようなら。私は車を社協に返して、我家に帰りました。
西の寺子屋のお世話をされた方々や保護者の方々、お疲れ様でした。
今回、西の寺小屋で訪問した正信寺と龍泉寺
今日は、それほど体を動かしたわけではないのに疲れました。朝、中央公民館に行き、その後少年少女発明クラブ員の作品がある田布施西小学校に行きました。そして、2階に置かれた30個以上の作品を、何度か往復して1階に下しました。そして、その大量の作品を隙間なく車に積み込みました。少し汗が出ました。積み込み終わると、山口県の発明協会がある山口市へ運搬しました。
作品をいったん1階に下す 作品を車に詰め込む 隙間なく積まれた作品
発明協会があるビルに着くと、キャスターをお借りしました。そして、数回往復して10階まで作品を運び上げました。この頃になると晴天となり、にわかに体が暑くなり汗が出ました。運び終わると、発明協会の方々に作品を説明しました。この大量作品の説明が思った以上に大変でした。
発明協会が入るビル 荷物用エレベータで運搬 作品を積んだキャスター
一番困ったのは、思ったように動作してくれない作品が少なくなかったことです。モーターが動かない作品や、動いても所定の動きをしてくれない作品がありました。そのため、説明が冷や汗ものでした。そして、分からない説明書がいくつかありました。例えば、図がないためどう操作するのかどう動かすのか分からないのです。悩みながら説明しました。
すべての作品を所定の会議室に運び込む
作品を説明するにあたり、普段から子供達一人一人と接してその子の作品を知っていれば良かったと思います。とは言え、30人以上の子供全員の作品すべてを知っておくのは至難の業です。とにかく今回は、私自身の反省点が少なからずあった発明工夫展出品でした。k先生、y先生本当にお疲れ様でした。
梱包を外し、説明書を片手に作品を動作させ説明
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初夏にキャベツの種まきをして芽生えた小さな苗をボットに植え替えしました。そうして育苗したキャベツの苗を真夏に植え付けしました。しかしながら、この猛暑の日照りで水やりをさぼるなど育て方が悪かったようです。移植したうちの約半分が枯れてしまいました。そのため、新たに苗を購入し、枯れてしまった植穴に植え付けました。
枯れた場所に苗を補充移植 前回植え付けた苗
前回植え付け時は日差しが強い夏でしたので、黒の寒冷紗をかけておきました。しかし、今は秋になり日差しが緩んだため外しました。ところで、前回植え付けてから草刈りをしなかったため、周りは雑草だらけになっていました。仕事が忙しいことを言い訳にして心苦しいのですが、真夏に野菜を育てるのは並大抵ではないことを思い知らされました。お米を育てたり一年中野菜を作って生計を立てているお百姓さんには本当に頭が下がります。
黒寒冷紗を外しキャベツ苗を補充移植したキャベツ畝
我家の山際を歩いていると、足元にたくさんのいがぐりが落ちていました。そう言えば、今は栗を収穫する季節です。すっかり忘れていました。去年も今頃栗を収穫しました。すぐに、足元に落ちていた栗の実を拾いました。栗は、一度にたくさん食べる木の実ではありません。甘みを楽しみながらお菓子のように食べます。食べ過ぎると、その甘みのため飽きがきます。
栗の枝のいがぐり 落下した栗の実 獣に食べられた栗の実
ところで、いがぐりの数はとても多いのに、栗の実が少ない事に気が付きました。地面に落ちた栗の実を探していると、周辺に食べ残した栗の実が散乱していました。獣が落ちた栗の実を食べているようです。キツネや野犬は栗を食べないので、食べ残しからみて狸,ハクビシン,またはアライグマではないかと思います。栗の実は野生動物にとって貴重な食料のひとつなのでしょう。
今回収穫した栗の実、明日のおやつに
少年少女発明クラブ発明工夫展へ出品する作品工作は、今日が最後です。作品は、4月に工作を開始して8月の夏休みを含む5ヶ月間で作りました。長丁場でした。作品を完成させると、分かりやすい説明書を書かなければなりません。いくら立派なものを工作しても、ちゃんとした説明書を書かないと審査員に理解してもらえませんので。
出品物の動作確認 最後の半田付け 出品物最後の調整
子供達は工作が大好きですが、説明書を書くのは苦手のようです。特に3年生には難しかったようです。「〇〇を作りました。」だけではなく、「なぜこの作品を作ったのか、何を工夫して、どんな所に苦労したか、何をヒントにして解決したか、そして何の役に立つか」などが書いてあると良いです。そんなことを思いながら、子供達が書いた説明書の添削をしました。そして、末尾に指導員のコメントを入れました。
完成した出品物を前に、班ごとに写真撮影
今年は去年の倍のクラブ員数でしたので、最初圧倒的に指導員の数が足りませんでした。そのため、4月から5月にかけて私の知り合いなどのうち大工や工作が好きな友達を誘って指導員になっていただきました。ありがとうございます。できれば来年も子供達の工作指導員となっていただけたらと思っています。
みんなで説明書を書く 難しいかな説明書 ほぼ書き終えた説明書
出品物の工作が完成し説明書が書き終わると、作品だけの写真を撮りました。続いて、作品を手に持った写真も撮りました。それが終わると、出品物が移送中に壊れないように、プチプチで包装しました。さらに、万が一部品が外れても無くならないように大きなビニール袋で包みました。そして、その袋に名前を書きました。子供達が精魂込めて作った作品は、13日に山口市に持って行きます。そして、審査される予定です。
ところで、10月からは新しい企画の工作が始まります。
子供達やお母さん達が協力して、ブチプチやビニール袋などでみんなの作品を梱包
10月から郷土館で真空管関連の歴史展を開催予定です。その準備として、真空管装置を持ち込んだり動作確認をしています。今回は、私が持ち込んだ真空管レシーバの動作確認をしました。何年も倉庫にしまっていたオーディオ装置のため動作するか心配しました。電源を入れると、やっぱりでした。なお、この製品はTRIO 1961製(今から55年前)のようです。
持ち込んだ真空管式レシーバ 重い上蓋を外して真空管を観察
スピーカーを取り付けましたが、さっぱり音が出ません。とても古い装置ですので、やはりとは言えがっかりです。上蓋を外して、すべての真空管が点灯しているか調べました。すると、すべての真空管がほんのりと点灯していました。
裏蓋を外して、テスターで電圧をチェック
次に裏蓋を外してみました。そして、テスターでヒーター電圧やB電圧をざっとチェックしました。B電圧は200V以上あるため、誤って感電しないように注意しなければなりません。チェックの結果、特に異常と思われる電圧ではありませんでした。
ところで、音量を最大にしてもスピーカーからハム音が聞こえてきません。雑音さえ聞こえません。
横置にしてチェック 1MHzの電波を発信 レコードを回す
続いて、DIPメーターから1MHzの電波を発信してチューナの動作確認をしました。すると、スピーカーから音は聞こえないのですが、受信するらしくマジックアイがピクピク動きました。チューナは正常のようです。そこで、今度はPhono入力にプレーヤからのコードをつないでレコードを回してみました。すると、出力トランスからわずかに音が漏れて聞こえてくるのです。
接触不良のスピーカ側スイッチ ガリがひどい左右音量つまみ
出力回路は正常に増幅しているようです。そのため、どこかスイッチ類の接触が悪くないかガチャガチャ回しました。また、スピーカに接続する端子などもいろいろ変えてみました。すると、モノラルだと音が出ることが分かりました。位相反転スイッチの接続が特に悪く、時々無音状態になることが分かりました。
モノラルだけとは言え、とにかく音が出るようになって少し安心しました。レコードを回して曲を流してみました。次回は接触不良を直したり、ステレオで音が出るように修理しようと思います。
動作を確認したり接続不良チェック中の、真空管オーディオシステム
一日食べる分のナスとピーマンを収穫しました。例年ならばもっとたくさん収穫できるのですが、今年はとても少ない収穫量です。その理由は、夏の猛暑でほとんど草刈りをしなかったためナスとピーマンがは雑草に埋もれてしまったからです。
収穫中の、色が良くないナス 緑色が薄いピーマン
まだ一ヶ月以上は収穫できるため、雑草を刈り取り、肥料を与えるなどの世話をすれぱ回復すると思います。一方で、秋冬野菜の種まきをしなければなりません。大根、小松菜、タマネギなどの種は買ってありました。いつ種まきしようか考えています。今年はいろいろ忙しいので、野菜の種類と量を減らそうと思っています。
今回収穫した、一日食べる分のナスとピーマン
クリーン作戦に備えて、我家のあちこちを草刈りしています。一ヶ所だけ、黄色い花が咲き乱れている箇所がありました。菊芋の花です。菊芋は地下に芋ができるそうで、福神漬けに使うそうです。しかし、我家では福神漬けなど作りません。そのため、半ば雑草化しています。勢力が強いので、刈っても刈っても伸びてきます。退治する良い方法はないようです。
半ば雑草化して咲き乱れている菊芋の花
潤田の道に出ると、ひたすらお地蔵様に向かって歩きました。潤田は圃場整備中なのかトラックやシャベルなどの工事車両が通っていました。これらの工事車両を避けるようにしながら歩きました。しばらく歩くと潤田地区最奥部の集落に着きました。その集落の端っこに薬師堂があります。その薬師堂の中にお地蔵様があるのです。
潤田地区最奥部の集落にある薬師堂
その薬師堂の板に「四国八十八ヵ所大興寺 第六十七番」と記載されていました。過去に四国八十八ヵ所大興寺を訪れた方がいて、この板に掲示したのではないでしょうか。薬師堂のお地蔵様を拝むと、いったん道を戻って西山地区に行きました。そして、山陽本線の下をくぐるトンネルを抜けて原地区に行きました。
西山のお地蔵様 原地区のお地蔵様 原集会所近くのお地蔵様
原地区に入ると、そのまま城南公民館に戻ろうと思いました。ここで、近くにある防陽八十八ヵ所霊場の三十五番稱名院を思い出しました。少し時間を取りますが、行ってみました。原地区から光市の三輪に入り15分位歩くと着きました。
光市三輪の防陽八十八ヵ所霊場の三十五番稱名院
稱名院は今、入口の門とお地蔵様が何体か残っています。木造の薬師如来坐像と阿弥陀如来坐像は、光市の指定文化財で集会所の中に安置されています。その坐像を見学したい場合は、区長にその旨をあらかじめ伝えておくとよいそうです。
稱名院のお地蔵様 稱名院の入口門 旧城南郵便局
稱名院を見終わると、再び三輪から原地区に戻りました。そして、ひたすら城南公民館に向かって歩きました。途中、ガソリンスタンド,消防署,旧城南郵便局などの横を通りました。そして、城南公民館に到着しました。城南公民館内に入ると、長椅子に座って足の疲れを癒しました。
今回下見した、犬田~潤田~原の史跡巡りウォーキングルート
11日に田布施町いっせいクリーン作戦が行われます。とは言っても、ほとんどの道脇は前日までに草刈りされています。私も家の周りを草刈りしました。当日クリーン作戦時は、刈り残した場所をみなさんと一緒に綺麗にします。
我家の道に生えた草を綺麗に刈り取り
この夏は例年以上に猛暑でしたので、草刈りがなかなかできませんでした。そのため、道端は草が伸び放題でした。我家の通りは草刈りしたので、舗装道路に面した麦畑をいつか草刈りしようと思います。農作業のほぼ半分は草刈りで、本当に疲れてしまいます。今年は、仕事がいろいろ入ったため、草刈りにさける時間がなかなか取れません。
草刈した我家の庭に通じる坂 庭横の柱の下も草刈り
石階段を登り切ると三輪神社が見えました。さらに、手水石などがある場所の石段を登りきると本殿がありました。長い上り坂や長い石段を登ってきたため、汗だくでした。そのため、しばらく立ったまま休憩して息を整えました。そして、息が整うと本殿内を見学しました。
三輪神社本殿正面 本殿の周りを見学 本殿内を見学
三輪神社の本殿を見学し終わると、広場で昼食休憩を取りました。長い坂で疲れたため、多めに休憩時間を取りました。休憩が終わると、潤田(うるーだ)地区に向かいました。いったん光市の三輪地区を通って山陽本線のトンネルをくぐると閏田地区です。
山陽本線のこのトンネルをくぐると、向こう側は潤田地区
潤田地区と光市は、境界線が複雑に入り組んでいます。どこが境界線か私にはよく分かりません。その潤田地区に入ってからしばらく歩いて、荒神様に着きました。集会所がありその外側に荒神様がありました。その荒神様から妙福寺への行き方が分かりませんでした。そこで、たまたま近くにおられた地元に方に教えていただきました。ついでに、同級生のNkさんとNrさんのことをお聞きしました。Nkさんは、残念ながら数年前に亡くなったそうです。
潤田集会所入口の鳥居 集会所後ろの荒神様 妙福寺に到着
教えていただいた通りに道を進むと、妙福寺がありました。さっそく挨拶して本堂を見学させていただきました。妙福寺は光市にあるのですが、門徒の方は、真殿方面など、田布施町の方が少なくないそうです。江戸時代、城南と大和町は同じ熊毛宰判だったからではないかと思います。
妙福寺の本堂内 遺跡の発掘現場を見学
妙福寺に着いた時、近くに田布施町役場の車が駐車していることに気が付きました。この付近で発掘しているようです。そのため、妙福寺の見学が終わると発掘現場を探しました。すると、発掘調査の方々が、斜面の竹藪の中で休憩しておられました。挨拶するとAさんがおられました。この発掘現場について少しばかり教えていただきました。休憩中のところありがとうございました。発掘現場からいったん迂回して潤田の道に出ました。そして、潤田最奥部にあるお地蔵様に向かいました。
今回下見した、犬田~潤田~原の史跡巡りウォーキングルート
今年も少年少女発明クラブチャレンジコンテストがありました。私は、去年と同様に走行中の採点をしました。最初に、チャレンジコンテストの前に走行車両の車検をしました。子供たちが作った車両が50cm x 50cm x 50cmの大きさに収まっているか検査するのです。1cmでもオーバーしていると出場できないのです。
出場者を前に、会長によるチャレンジコンテスト開催挨拶
無事車検に合格すると、車体に車検証が張られます。これで晴れてチャレンジコンテストに出場できます。全員が合格しました。次にコンテストの順番をじゃんけんで決めました。コンテストは10時40分頃に始まりました。それまで、各自練習をしました。うまく動くでしょうか。
車検に合格すると車検証 出場の順番をじゃんけんで決める
コンテストのポイントは、いかに後続車を連結して、障害物を避けながら、1分以内にゴールに到着するかです。早く動かすためにはギヤ比を少なくして車輪の回転数を上げます。しかし、走行車の速度は早くなりますが操作が難しくなります。一方、ギヤ比を多くして速度を落とすと、操作は容易になりますが速度が遅くなり1分以内にゴールに着くことが難しくなります。
規定をすべてクリアした走行車と連結車
今回規定をクリアした車両は一台だけでした。他は1分以内にゴールに着かなかったり、操作が難しくて連結ができなかったり、障害物に当たり減点された車両などです。簡単なようで、なかなか奥の深い、速度や重さなどの原理が体現できるコンテストだったように思います。
惜しい!数秒超過した車両 動きがやや遅い車両 ゴールで見守る家族
チャレンジコンテストに参加する車両作りは7月半ばにスタートしました。夏休みを使うなどして、とても短い期間で作りました。そのため、コンテスト中に壊れてしまったもの、電気がショートして走行中に熱くなり電池切れしてしまったもの、操作が難しくなかなか連結できなかった車両などがありました。保護者や兄弟達はきっとハラハラしたに違いありません。
審査員の採点を計算するスタッフ 出場者全員に表彰状授与
走行は各自二回としました。その二回のうち、最も良かった点数を採用しました。なお、走行前に故障したことが分かった場合、順番を次に回しました。走行中に故障して動かなくなった場合はリタイヤとしました。
コンテストが終わると、採点表を集めて合計点を計算しました。そして、順位を決めて表彰しました。
表彰が終わった後、会長による講評
大岩に彫られた磨崖仏
やはりこの大岩に磨崖仏が彫られていました。そして、この磨崖仏の前に茂る木の枝を避けると、大岩に「一番」の文字が彫られていました。つまり、かつてはこの磨崖仏が一番個所だったのです。
磨崖仏隣に彫られた「一番」 再び順礼ルートに戻る 変わった形の地蔵尊?
過去の資料によると、明治初期の社寺統合時にこの磨崖仏の近くにあった般若堂が廃止されたそうです。その時、般若堂にあった仏像などが犬田大師堂に安置されたそうです。その般若堂廃止時に、八十八箇所のルートが今のルートに移設されたとのこと。
八十八番目のお地蔵様、向こう側から見ると背中が見える
般若堂が廃止される前は、この磨崖仏を一番として北の山に向かって吉井側への巡礼ルートがあったようです。その元の古いルートを辿ってみようとしましたが、竹藪が茂っていて辿れませんでした。地元でも忘れ去られた幻の巡礼ルートです。
三輪神社への入口 荒れた参道に石柱2本 長い石階段を登る
ん
磨崖仏から巡礼ルートに戻りました。そして、今の「一番」がある犬田大師堂に戻りました。途中、八十八番目のお地蔵様に着きました。そのお地蔵様の後ろに二十番位の巡礼ルートがあるではありませんか。二十番目位を巡礼している時に見えたお地像様の背中は、実は八十八番目のお地蔵様の背中だったのです。この巡礼コースは二十番目位と八十八番番目で交差していることが分かりました。
犬田大師堂に戻ると、光市の三輪地区に行きました。三輪地区の道を歩いていると、三輪神社の入口に着きました。荒れた参道を通って三輪神社に行くことにしました。
参道を登りつめた場所に、三輪神社が鎮座
荒れた参道を進んですぐ、二本の石柱がありました。この参道は最近誰も通らないのか、草がひざ上までびっしり生えていました。途中から車道に切り替えて登りました。そして、長い石階段を歩いて登りました。石階段を一段ずつ登っていると、上の方に三輪神社が見えてきました。
今回下見した、犬田~潤田~原の史跡巡りウォーキングルート
今月25日予定の城南 犬田~潤田~原の史跡巡りウォーキングの下見に行ってきました。計画した8月は猛暑ため下見に行く気力が失せていましたが、数日前に急に涼しくなったため快適な下見をすることができました。下見のスタートは城南公民館です。いつもの3人が10時に集まり、最初は犬田(いんだ)に向かって歩きました。
最初に目指した犬田大師堂、右は犬田地区の集会所
最初に行ったのは犬田大師堂です。この大師堂は昭和50年に失火により炎上したそうです。たくさんの仏像や巻物、そして天井絵などが灰になったそうです。しかし、半年後に再建されたとのこと。江戸時代の記録「防長注進案」によると、江戸時代は小庵だったそうで200年以上の歴史があります。
歴代和尚の墓地 犬田大師堂内 八十八箇所を探索
犬田大師堂の裏山で八十八箇所巡りができます。今回その八十八箇所巡りをしてきました。お寺の裏山にある同じような八十八箇所巡りは小規模です。しかし、犬田の八十八箇所は一周1km以上はあります。巡礼中一番困ったのは蚊が多いことです。蚊を払いながら歩きました。そして、巡る人が少ないのか、道が蜘蛛の巣だらけだったことです。そのため、先頭を歩く人は木の枝を振りながら行きました。
道脇にあるお地蔵様 五番のお地蔵様 背を向けたお地蔵様
八十八箇所をどんどん進んでいると、背を向けているお地蔵様があることに気が付きました。しかし、その時は背を向けている理由が分からずどんどん巡礼道を進みました。そして、30番位のお地蔵様でパタリとお地蔵様が消えてしまいました。次の番号のお地蔵様はどこにあるのか探しました。
30番位でパタリと無くなったお地蔵様
次の番号のお地蔵様が探していると、巡礼の道がその場所で西に大きくターンしていることに気が付きました。そのターンしている道を行くと、次のお地蔵様が見えました。次の番号のお地蔵様を見ながら歩いていると、右手の向こうに大岩が見えました。その時、この犬田の巡礼ルートが明治初期に今の位置に移転したことを思い出しました。その移転時に、大岩に掘られた麻磨崖仏だけが巨大すぎて移動できなかった史実を思い出しました。その磨崖仏が彫られた大岩ではないかと直感しました。それを確認するため元来た道を引き返しました。
今回下見した、犬田~潤田~原の史跡巡りウォーキングルート
8月1日から開催していた「田布施町 江戸~昭和の自然災害に学ぶ」展が無事終了しました。今回はその最後の日でした。展示会開催当初、新聞記事で紹介されたり、町内の災害対策に力を注いでいると思われる町会議員さんや消防団関係者にPRしたり、広報に載せたり、各所に掲示したりするなどしてPRしました。
自然災害のパネルを一枚ずつ外す 自然災害の年表を取り外す
8月が夏休みだったせいもあるでしょうが、7月よりも入館者が数倍多かったように思います。明治以降の自然災害は、台風や土砂崩れなどと相場が決まっています。しかし、江戸時代の自然災害のトップは飢饉、次に天然痘を代表とする疫病です。共に死亡率がとても高い自然災害である事に特徴があります。来館された方々には、それらのことを理解していただいたのではないかと思います。
掲示ボードから次々にパネルなどを取り外す
ところで、今回撤去した自然災害に関するパネルや年表は、9月に東田布施公民館で展示されます。今回見逃した方々は東田布施公民館で見ていただこうと思います。なお、今回使った展示ボードは、別の部屋で9月6日から開催される「おおばのフォトクラブ写真展」で使います。一度解体した後、写真展示する部屋に持っていき再度組み立てました。解体・撤去を手伝っていただいた方々、大変ありがとうございました。
明治から昭和にかけての自然災害展示物も撤去
10月からは心機一転、「真空管に関わるオーディオ装置,ラジオ,無線機などの歴史展」を開催します。そして、真空管を使った歴代の懐かしいラジオや無線装置などを展示します。また真空管を使ったオーディオシステムで懐かしいレコードを鑑賞できるように考えています。9月はその準備で忙しくなりそうです。
掲示ボードを解体・移動 東田布施公民館に行くパネル 写真展の準備