東京里山農業日誌

東京郊外で仕事のかたわら稲作畑作などをしていましたが、2012年4月に故郷の山口県に拠点を移して同活動をしています。

柳井市 伊保庄周辺ウォーキングの下見(2/3)

2017年03月01日 | 歴史探訪他ウォーキング

 厳島神社を過ぎると、柳井湾の強風を受けながら黒島に急ぎました。黒島は今では伊保庄マリンパークと言った方が通用するようです。私が子供の頃も海水浴場として賑やかでしたが、伊保庄マリンパークとして開発されてからは一種のリゾートのようにも思えます。夏は子供や若者で賑やかなようです。ただ、個人的には、発電所が無かった昔の黒島に郷愁を覚えます。

           伊保庄マリンパークとして開発された黒   


 この頃になると天気予報の予告どおり雲行きが怪しくなってきました。冷たい海風が容赦なく吹き付けます。最初見たのは海に向かって扉が開いた祠です。続いて、その後に控えた祠を見ました。不思議な事にこの祠は山側に扉が開いているのです。また、狛犬の左右が反対なのです。意識的に反対に置いたのか、誤って置いたのか分かりません。ただ言えるのは、鳥居からこの祠側を見ると、朝日が上がる東を向くことです。朝日が上がる時にお参りすると縁起が良かったのかも知れません

  海側を向いた祠      反対向きの狛犬      黒島頂上の平和記念塔
  

 朝鮮や中国から暦が伝わる前、当時の古代日本は日の出や日没を暦の替わりにしていたようなのです。つまり今の一年は二年だったとの説があります。春分と秋分は、当時の一年の始まりだったそうです。例えば春分は夏の一年の始まり、秋分は冬の一年の始まりです。数学的に考えられた今の暦よりも、このような古代暦の方が体感しやすく季節感に合っていると思います。

           平和記念塔から黒島神社に向かう


 祠の近くにある広場のテーブルで昼食休憩をしました。しかしながら、冷たい強風のため早々に出発しました。黒島の山道を登って頂上にある平和記念塔に向かいました。半ば藪の中にある記念塔です。広場があることと言い、形や大きさが忠魂碑にとてもよく似ています。忠魂碑を作り変えて平和記念塔にしたのでしょうか。平和記念塔から藪の中を通って、半ば獣道を抜けると黒島神社に向かう山道が続いていました。その道を降りていると下の方に黒島神社が見えてきました。


  木陰の黒島神社       道路改築の碑      お堂となった城念寺
  

 黒島神社を見終わると、巨大な道路改築の碑を見学しました。その碑の中に私の親戚の名前が刻んでありました。私の祖母の父親の兄の奥原松五郎です。つまり私の曽祖父の兄です。今は老朽化で渡れない「あさひ橋」の建設に尽力した人です。私の母親の話によると、渡船の経営者(橋ができると困る)から訴えられて牢に入ったことがあるそうです。牢に入っている間、橋に感謝する人々が次々にやってきたそうです。橋を作るために大変なドラマがあったのですね。 

  城念寺内のお地蔵様    道端の小さなお地蔵様     黒島浜遺跡
  

 次に防陽霊場九番札所城念寺に行きました。このお寺は廃寺になったようで、今は小さなお堂ととして残っています。お堂の中には、念仏を唱える時に信者同志で手回ししたと思われる長い数珠が飾られています。続いて、柳井市街に向けて歩きました。歩いていると、小さなお地蔵様や黒島浜遺跡がありました。黒島浜遺跡に行ってみましたが、何もありませんでした。発掘後埋め戻したのでしょう。

     柳井市街~伊保庄黒島の史跡巡りウォーキングのコース(下見1)

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