錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『曽我兄弟 富士の夜襲』(その12)

2007-02-07 02:11:11 | 曽我兄弟
 映画のことからだいぶ離れてしまった。曽我兄弟の仇討ちに関していろいろ調べていくと興味が尽きず、相当深入りしてしまったが、そろそろ締めくくりたいと思う。
 昨日、もう一度この映画のビデオをじっくり観た。なんと今年に入って七度目である。これだけ観ても見飽きないのだから不思議なことだ。もちろん映画の出来が素晴らしいからなのだろうが、この映画に対する私の思い入れが大変強いからでもあろう。まだ書きたいことはたくさんあるが、最後にこの映画の登場人物で書き残した出演者のこと、そして監督やスタッフことなどを付け加えておきたい。
 
 この映画には子役が四人出演している。片岡千恵蔵の実子二人、少年時代の一萬と箱王を演じた植木基晴と植木千恵については前にも触れたが、植木千恵は女の子である。二人とも50年代に東映で大活躍した天才子役で、私にとっては思い出深い二人である。昨年の秋に私は池袋の新文芸座で久しぶりに『血槍富士』を観たが、この二人の天才ぶりには舌を巻いた。彼らが兄妹(兄弟)役で登場した映画には、『曽我兄弟』の他に『源義経』があるが、これも懐かしい。錦之助の牛若丸が大蔵卿(中村時蔵)と再婚した母親の常盤御前(山田五十鈴)を訪ねに行き、ここで出会う可愛い弟と妹がこの二人だった。植木基晴は、私が少年時代最も心を躍らせて読み、また映画を観て感動した吉川英治原作の『神州天馬侠』で、主役の鞍馬の竹童をやっていたのが、記憶に残っている。この映画はずっとまた観たいと思っていたのだが、今度フィルムセンターで上映することになり、四十数年ぶりにこの映画が観られるとあって、私は非常に楽しみにしている。植木千恵は、少し大きくなってから『浪花の恋の物語』で、遊郭で働く女中の少女を演じていたが、梅川の有馬稲子にあかぎれした指を出し、包帯代わりに紙を巻いてもらった時の彼女の何ともいえぬ表情が目に焼きついている。この二人の名演は他にもたくさんあったと思う。
 次に工藤祐経の息子の犬房丸を演じたのがこれまた50年代の子役・山手弘だった。山手弘と言えば、何と言っても『紅孔雀』の風小僧が有名である。コマ落としで、チョコチョコ駆けていく場面が何度も出てきて、これが忘れられない。
 もう一人、源頼家に扮したのが北大路欣也だった。市川右太衛門の実子である。彼は現在でも活躍している俳優だが、この映画の当時は何歳だったのだろうか。勝小吉・麟太郎という親子役で父の右太衛門と共演した『父子鷹』が北大路欣也のデビュー映画だったが、調べてみるとこれも1956年の制作で、してみるとこの『曽我兄弟』は二作目だったようである。北大路欣也は、この映画でもそうだが、子役の頃から演技もしっかりしていたと思う。『父子鷹』(松田定次監督)は私のお気に入りの映画でもあり、何度か見ているが、彼の演技には感心する。
 出演者では、他に伏見扇太郎のことを書いておかなくてはなるまい。私が東映映画をよく観ていた少年の頃、錦・千代に続く若手ナンバー・スリーの地位にあったのが「扇ちゃん」こと伏見扇太郎だった。この映画では、仇討ちの場面で錦之助の曽我五郎を取り押さえる役をやっていた。御所の五郎丸である。セリフもほとんどなく、大した役ではなかったが、初め女の着物をかぶって出てきて、着物を脱ぐと後ろから五郎に組み付き、格闘の末、五郎を捕まえてしまう。ラストの尋問の場面でも、大友柳太朗の畠山重忠の後ろに控えていた。伏見扇太郎は、体が弱かったこともあって、一時の爆発的な人気も長くは続かなかった。
 
 最後にスタッフのことを書いておこう。監督は佐々木康である。彼は、東映娯楽映画の巨匠・松田定次に続く二番手だった。オールスター映画も松田監督の次に多く撮っている監督である。秋田出身で、ズーズー弁をしゃべるため、愛称「ズーさん」と呼ばれていた。戦前から昭和27年までずっと松竹でメガフォンを取り、メロドラマや歌謡映画を数多く監督した人だが、東映に移籍してからも娯楽時代劇を中心に大いに活躍する。佐々木康と言えば、東映時代は右太衛門の『旗本退屈男シリーズ』をたくさん撮っていて、私も何本か観て、印象に残っているが、錦之助主演の映画も6本ほど撮っている。『曽我兄弟』の他に、『唄しぐれおしどり若衆』『悲恋・おかる勘平』『新諸国物語・七つの誓い』(三部作)『美男城』『江戸っ子奉行・天下を斬る男』がそうである。オールター映画では『血斗水滸伝・怒涛の対決』にも錦之助が出演していた。ところで、佐々木康にはその自伝に『悔いなしカチンコ人生』という著書があって、これがなかなか面白い本である。その中に、記憶に残っている映画として『曽我兄弟 富士の夜襲』のことが書いてあるので、引用しておこう。
「曽我兄弟物は、最後が悲惨なので、芝居などでも当たったためしがなく、それまで映画でも作られたことはなかった。しかし、マキノさん(マキノ光雄)は、この企画に大いに力を注いだ。それは、中村錦之助と東千代之介の二人を、もっと人気俳優に育てようという目論見があったからである。『いくら金をかけてもいい、撮影は絶対富士の裾野でやるんだぞ』 マキノさんの意気込みはすごかった。私はスタッフをともなって、白糸の滝をはじめ、富士の裾野へロケハンに出かけたりした。しかし、現実には『絶対予算以上の金は出せない』という大川社長の一言で、富士の裾野でのロケは実現しなかった。撮影は滋賀県にある安曇川で行われ、カメラマンの三木滋人の考案した『ポリテバル』(カメラの横の半紙大の画と実景とを合成する特殊撮影の機械)を使って、富士の裾野の感じを出したことを覚えている。」
 また、監督としての自分の特長について、佐々木康はこんなことを書いている。
「たとえば、小津さんのような立派な芸術作家には、絶対オールスター映画は撮れないはずだ。なぜなら、芸術作家は自分の思い通りの演技をつけ、自分の個性を強く打ち出さないと、気がおさまらないからである。私の場合は、すべてスター自身が気に入るように演技させた。私は、俳優の個性を引き出す産婆役に徹して、その個性を最大限に生かすように監督したのである。そして、それぞれの個性を、作品全体のトーンやリズムを崩さないよう無難につなぎ合わせ、破綻のない映画を短期間で撮るというのが、私の才能であった。そう思っている。」
 佐々木康の言葉にもあるように、『曽我兄弟・富士の夜襲』の撮影はベテラン三木滋人が担当した。彼は錦之助の表情の素晴らしさを最初に公言したカメラマンであり、錦之助にカメラのファインダーを覗かせて映画の勉強をさせたいわば恩師であった。三木滋人は、溝口健二監督の戦前の傑作『浪華悲歌』と『祇園の姉妹』を撮影したことで有名だが、戦後の東映の時代劇でも無くてはならぬ存在だった。あの『笛吹童子』を撮ったのも彼であるし、内田吐夢の大作『大菩薩峠三部作』の撮影も彼が担当した。錦之助の映画では、他に『怪談千鳥が淵』『弥太郎笠』がある。晩年の名作は『日本侠客伝』(第一作)であろう。
 『曽我兄弟 富士の夜襲』のスタッフで特に注目すべき人は、加藤泰が助監督で、音楽はベテラン万城目正、美術はその後ずっと活躍する鈴木孝俊といったところである。(おわり)



『曽我兄弟 富士の夜襲』(その11)

2007-02-06 23:06:39 | 曽我兄弟
 河津三郎が伊東祐親の身代わりとなって殺されるのは1176年10月のことである。この頃頼朝は流された伊豆でまだくすぶっており、どうやら豪族伊東祐親の庇護を受けていたようだ。刺客に狙われたこの伊豆での狩りは祐親が催したもので、多数の東国武士に混じり、頼朝も招かれて加わっているからだ。三郎が殺されたといっても、祐親は健在で、伊東の地に加え、三郎の領地・河津も祐親が代わって支配することになったようだ。頼朝はまだ力もなく、工藤祐経も京都で役所勤めをしている弱小武士にすぎなかった。映画のように工藤が頼朝に取り入って領地を奪い、母・満江と一萬と箱王を故郷から追放したわけではない。また、母子が流浪の果てに、曾我の里に落ち延び、曾我祐信の世話になったのでもない。祖父の伊東祐親が曾我祐信に満江を再婚させ、二人の子を養わせたのである。
 ところで、この前年に頼朝は祐親の娘で美女の八重姫を見初め、関係を持って千鶴という名の男子まで産ませている。しばらくの間、祐親はそれに気づかなかったようだが、京都で平家の恩義を受けていた祐親は娘が源氏の嫡流頼朝の子を産んだことを知るや激怒し、その子を川に沈めて殺した上に、頼朝を討とうとする。頼朝は命からがら伊豆山へ逃げ込む。どうもこの辺は、頼朝と伊東祐親の仲を裂こうとした北条時政の謀略であるような気がしてならない。なぜなら、その直後、頼朝は北条時政のところに庇護され、娘の政子を妻にさせられてしまうからである。これが1177年のことらしい。
 その3年後の1180年、頼朝は朝廷の御旗を掲げ源氏の総大将として挙兵する。これには北条時政も全面的に協力する。しかし、平家側の大軍によって石橋山の合戦で敗れてしまう。この時平家側に付いて頼朝の敵に回ったのが伊東祐親だった。頼朝の遺恨というのは、祐親の二度にわたる追討に対してである。頼朝は真鶴から海を渡り、房総の安房の国へ逃れ、そこから陣形を立て直して、再度出軍する。この時には東国の有力武士達が頼朝の下に参集し、大勢力となって進軍し、ついに頼朝は鎌倉に入って関東一円を支配するまでに至る。その間、伊東祐親は頼朝に討たれて殺されたとも言われ、また一年半ほど捕らわれの身にあったが、1182年政子懐妊(この子が頼家である)による恩赦を拒否し最後は自害したとも言われている。
 この頃、曽我兄弟が捕らえられ由比ガ浜で処刑されそうになるところを畠山重忠による頼朝への助命嘆願で救われる出来事が起こるが、このエピソードは曾我物語の作り話であるようだ。
 さて、その後の頼朝が義仲・義経の力を利用して平家を滅ぼし、日の出の勢いで鎌倉の軍事政権を築いていく過程はご存知の通りである。1192年頼朝は征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉幕府が確立する。
 工藤祐経が頼朝の信任を得て、伊豆の領地を回復し勢力を張っていくのは、ちょうど伊東祐親の死んだ1182年頃からである。工藤は若い頃京都の役所に勤めて頭角を現したエリートで、その才覚と京都仕込みの経験を頼朝に買われてめきめき出世したようだ。工藤は曽我兄弟に1193年5月に討たれるまで10年近くにわたって頼朝の側近として重用されていたことになる。(つづく)


『曽我兄弟 富士の夜襲』(その10)

2007-02-06 22:53:13 | 曽我兄弟
 映画では、工藤祐経(すけつね)が兄弟の父である河津三郎祐泰を殺した理由が単純化され、かなり粗略に描かれていたと思う。また、河津三郎の死後、なぜその領地が召し上げられ、遺族の母子三人が追放されなければならないのか。これもよく考えると疑問の残る点だった。、また、映画は工藤祐経を悪者扱いし、工藤が頼朝に取り入って伊豆の領地を奪ったみたいな話にしていたので、頼朝が工藤にだまされているような印象を受けた。もちろん、頼朝はそんな単純な男ではないし、工藤祐経も実際はそれほどの悪者でもなかったようだ。
 映画は娯楽向きに作られる。特にこの当時の東映の映画はそうだった。仇討ちの正義を強調し、善玉と悪玉をはっきり区別するストーリーに仕立ててあったので、人物描写もずいぶん適当だったと思う。映画は分かりやすさと面白さが大切なのでそれで良いのかもしれないが、フィクション性の高い時代劇とは違い、昔から伝わる有名な歴史物語を題材とした映画はもう少し原典に忠実に描いた方が無難だったのではないかとも思う。曽我兄弟の仇討ちについて最近私なりに勉強していろいろなことが分かり、すっきりした気分にもなった。が、その一方で映画が物語を改変したいくつかの箇所が目に付き、気になってしまった。なかでも問題があるなと感じたところは次のようなことである。
 まず、兄弟の父・河津三郎が殺された時、映画では、伊豆の伊東・河津・宇佐美の地方はすべて父の領地だったとしていたが、これは明らかに変えすぎだった。河津三郎の領地は河津だけで、主要地の伊東は兄弟の祖父の伊東祐親(すけちか、河津三郎の父で工藤祐経の叔父)の領地だった。そして、工藤祐経は、もともと自分の父の領地だった伊東の地を奪い返そうとして、刺客を差し向けたのだが、実は狩りの帰り道で殺そうとした相手は伊東祐親の方だった。しかし、刺客の放った矢は河津三郎に命中してしまい、三郎が身代わりになって死んでしまう。そもそもこれが曾我物語の発端だった。

 映画では、どうもこの伊東祐親の扱い方に困り、行き詰った様子である。結局、問題のこの人物は登場させず、曽我兄弟の父・河津三郎によって一本化してしまった。領地争いをめぐるこの辺の経緯は複雑なのだが、映画はどう見ても誤魔化した感じを受けた。あとで、伊東祐親の名前だけ出すくらいなら、最初のシーンでも祐親を少しだけでも登場させて欲しかったと思う。畠山重忠が頼朝に幼い兄弟の助命を嘆願する場面で、頼朝が兄弟の祖父・伊東祐親が叛逆したことを述べ、その遺恨を苦々しく語るわけだが、よく考えると、なぜここで急に祐親の名前が出てくるのか、不思議でもあった。映画を観ている時には、頼朝に扮した片岡千恵蔵があの口ごもった独特の口調で重々しく語るので、妙に納得させられてしまったが…。

 実は『曾我物語』では、工藤祐経と伊東祐親の関係、それに伊東祐親と源頼朝の関係が大変重要であり、仇討ちに至る曽我兄弟の運命をすべて左右していたと言える。物語の前半を読むと、祖父伊東祐親という人物のことが非常に悪く描かれている。曽我兄弟に関する一連の出来事の元凶は、実はこの人物の行動にあったと言ってもよい。
 もともと祐親は、河津(伊東の南にある地域)だけの領主で、河津次郎祐親と言ったのだが、工藤祐経の父の祐継(遠戚ではあるが伊東祐親の兄にあたり、一門の総領だった)が死ぬと、嫡子祐経が幼いこと(九歳で、幼名を金石と言った)をいい幸いにその領地の伊東を横領する。そして、伊東の領主におさまり、伊東祐親と名乗り、それまで支配していた河津の地を息子の三郎に与えてしまう。この三郎が、曽我兄弟の父・河津三郎である。
 工藤祐経はどうなったかと言うと、少年時代は叔父の伊東祐親が後見人かつ親代わりになって養育していた。そして、工藤が15歳になると祐親自身が烏帽子親になって元服させ、娘の一人を彼に嫁がせることまでしている。が、その後祐親は工藤を京都に連れて行き、そのまま武者所(宮中の警護所)に残してきてしまう。いわば単身留学させる形で、伊豆から放逐してしまうのだ。工藤はここで孤独に耐え、成績でトップになるほど勉強に励む。将来を嘱望されるエリートになるわけだ。
 伊東祐親と工藤祐経の関係というのは、想像するに、愛が憎しみに転じた複雑な関係だったようである。叔父と甥、養父と養子、烏帽子親と烏帽子子、舅と婿、という縁の深い関係が一転して、敵対関係に変わる。それは、工藤が母親にけしかけられて、父親の領地だった伊東の返還を伊東祐親に求めてからのことである。工藤祐経は、京都で正式に訴訟を起こす。それに対し、伊東祐親は京都のお偉方に賄賂をばらまき、ウヤムヤになるように仕向ける。が、理は当然工藤の方にあるので、結局、領地を折半するという裁定が下り、工藤は伊豆に領地を得る。しかし、この裁定にはどちらも納得がいかず、両者の争いは激化していく。伊東祐親は工藤のことを恩知らずと思い、工藤は祐親のことを強欲オヤジと罵ったことだろう。祐親はなんと嫁にやった娘を工藤と離縁させ、違う男に嫁がせてしまう。領地を返さない上に、妻を無理矢理奪われた工藤は面目丸つぶれで、怒り心頭に達したにちがいない。「糞オヤジ、殺してやる」ということになって、側近の家来二人を刺客に差し向けるのである。(つづく)


 

『曽我兄弟 富士の夜襲』(その9)

2007-02-02 17:27:29 | 曽我兄弟
 『曾我物語』を読むと、この兄弟の仲の良さが非常に強く印象に残る。弟が箱根の山を抜け出し、兄を頼って里帰りして以来、兄弟の縁が深まったようである。北条時政のところへ連れて行き、五郎を元服させ、危うく坊主にさせられそうなところを男にしてやったのも兄の十郎だった。大磯の遊女の館へ初めて弟を連れて行ったのも兄だったようだ。そのうち、二人で女遊びを続けるようになるのだが、私が不思議に思うのは、遊ぶ金がどこから出ていたのかということである。曽我の家は貧乏で、母親はもちろん、継父からも小遣いをせびるわけにはいなかない。もしかすると、大物の北条時政あたりがパトロンになっていたのかもしれない。
 北条時政と曽我兄弟の関係は、『曾我物語』には説明がほとんど出ていない。兄の十郎が以前から時政の屋敷に出入りしていたことが書いてある程度である。曽我兄弟の伯母が時政の先妻だったようで、また兄弟の叔父も時政が烏帽子親だったため、兄弟はその縁を頼って彼に近づいたらしい。継父の曽我祐信が弱小武士であまりにも力がないこともあり、有力者の後ろ盾を必要としたのだろう。時政と言えば、頼朝の妻・政子の父で、この頃すでに頼朝の参謀役になっていた。伊豆・駿河の守護にもなり、伊豆以西に一大勢力を持っていた。
 ところで、映画では、北条時政は全く登場せず、ただ元服する時の五郎のセリフの中に、その名前が出てくるだけだった。幼い頃から目をかけてくれた北条時政公の名前をいただき、時致(ときむね)と名乗りたいと五郎に言わせるのだが、突然、時政の名前が出てくることに違和感を覚えなくもなかった。烏帽子親として時政を登場させるとストーリーが煩雑になると脚本家の八尋不二は思ったにちがいない。だから、五郎の実名・時致の由来だけに触れて済ませたのだろう。
 
 話が逸れるが、曽我兄弟の仇討ちには、黒幕・北条時政による頼朝暗殺説というのがある。時政が兄弟を利用し、工藤祐経の仇討ちと同時に、頼朝までも暗殺させようと謀ったというものである。この説を主張している歴史家も数多くいるようだ。古くは中世史の碩学・三浦周行(ひろゆき)がその先鋒だったらしいが、中央公論社刊の『日本の歴史』(第7巻 鎌倉幕府)を読むと、著者の石井進・元東大教授もこの説を有力視している一人である。
 要点はこうだ。工藤祐経の仇討ちを済ませた後、なぜ曽我五郎が頼朝の居る本陣まで乗り込んでいったのか、頼朝に諫言するためというのはどうも変で、頼朝を殺すのが真の目的だったと考えられなくもない。北条時政と曽我兄弟の関係はかなり濃密で、権謀術数にたけた時政なら、若い兄弟をうまく利用することも十分可能だったというわけである。1192年に源頼朝が征夷大将軍に任ぜられた時、北条時政は頼朝の舅として参謀的役割は担っていたが、その地位は決して高くなく、権力の中枢にあるわけではなかった。そこで、頼朝を倒し、政子と嫡子でまだ幼い頼家を操って幕府の実権を握ろうとしたのではないか。1193年、曾我兄弟が仇討ちを行った富士の裾野での巻狩に際しても、北条時政は設営と警備を任されていた責任者であったから、工藤祐経の仮屋も頼朝の本陣の様子も当然知っていたはずで、時政が曽我兄弟に詳しい情報を流したのではないか、というわけである。
 こうした観点から見てしまうと、曽我兄弟が鉄砲玉に利用されたやくざのチンピラみたいで、仇討ちの美談もまるで仁義なき戦いなって、血なま臭い暗殺事件になってしまう。
 時政・黒幕説は認めても、頼朝暗殺まで時政が謀ったということはあり得ないと考える学者もいる。最近になって曽我兄弟に関する本を二冊書いた坂井孝一創価大学教授がそうである。先日私はこの二冊の本、『曽我物語の史実と虚構』と『物語の舞台を歩く・曽我物語』を買い求め通読してみたが、記述も詳しく興味深い本だった。それによると、時政が狩場で曽我兄弟に工藤祐経を討たせる手引きをした可能性は極めて高いが、仇討ち前後の経緯から観て、頼朝の後見人の立場にあった時政が頼朝暗殺まで画策したとは考えられないという意見だった。
 いずれにせよ、曽我兄弟の仇討ちは、純情で一途な二人の兄弟の悲しく感動的な物語として長い間語り継がれて来た。出来れば、このまま美談の形で残しておきたいと思う。鎌倉時代の史料は乏しいし、いろいろ推理を働かせても決して真相は判明しないことなのではあるまいか。まあ、私のような歴史の素人が言うことでないかもしれないが、映画を観て好奇心に駆られ、仮名本の『曾我物語』を拾い読みし、歴史の本を何冊か読んでみて、私はただそう感じたまでのことにすぎない。(つづく)