映画のことからだいぶ離れてしまった。曽我兄弟の仇討ちに関していろいろ調べていくと興味が尽きず、相当深入りしてしまったが、そろそろ締めくくりたいと思う。
昨日、もう一度この映画のビデオをじっくり観た。なんと今年に入って七度目である。これだけ観ても見飽きないのだから不思議なことだ。もちろん映画の出来が素晴らしいからなのだろうが、この映画に対する私の思い入れが大変強いからでもあろう。まだ書きたいことはたくさんあるが、最後にこの映画の登場人物で書き残した出演者のこと、そして監督やスタッフことなどを付け加えておきたい。
この映画には子役が四人出演している。片岡千恵蔵の実子二人、少年時代の一萬と箱王を演じた植木基晴と植木千恵については前にも触れたが、植木千恵は女の子である。二人とも50年代に東映で大活躍した天才子役で、私にとっては思い出深い二人である。昨年の秋に私は池袋の新文芸座で久しぶりに『血槍富士』を観たが、この二人の天才ぶりには舌を巻いた。彼らが兄妹(兄弟)役で登場した映画には、『曽我兄弟』の他に『源義経』があるが、これも懐かしい。錦之助の牛若丸が大蔵卿(中村時蔵)と再婚した母親の常盤御前(山田五十鈴)を訪ねに行き、ここで出会う可愛い弟と妹がこの二人だった。植木基晴は、私が少年時代最も心を躍らせて読み、また映画を観て感動した吉川英治原作の『神州天馬侠』で、主役の鞍馬の竹童をやっていたのが、記憶に残っている。この映画はずっとまた観たいと思っていたのだが、今度フィルムセンターで上映することになり、四十数年ぶりにこの映画が観られるとあって、私は非常に楽しみにしている。植木千恵は、少し大きくなってから『浪花の恋の物語』で、遊郭で働く女中の少女を演じていたが、梅川の有馬稲子にあかぎれした指を出し、包帯代わりに紙を巻いてもらった時の彼女の何ともいえぬ表情が目に焼きついている。この二人の名演は他にもたくさんあったと思う。
次に工藤祐経の息子の犬房丸を演じたのがこれまた50年代の子役・山手弘だった。山手弘と言えば、何と言っても『紅孔雀』の風小僧が有名である。コマ落としで、チョコチョコ駆けていく場面が何度も出てきて、これが忘れられない。
もう一人、源頼家に扮したのが北大路欣也だった。市川右太衛門の実子である。彼は現在でも活躍している俳優だが、この映画の当時は何歳だったのだろうか。勝小吉・麟太郎という親子役で父の右太衛門と共演した『父子鷹』が北大路欣也のデビュー映画だったが、調べてみるとこれも1956年の制作で、してみるとこの『曽我兄弟』は二作目だったようである。北大路欣也は、この映画でもそうだが、子役の頃から演技もしっかりしていたと思う。『父子鷹』(松田定次監督)は私のお気に入りの映画でもあり、何度か見ているが、彼の演技には感心する。
出演者では、他に伏見扇太郎のことを書いておかなくてはなるまい。私が東映映画をよく観ていた少年の頃、錦・千代に続く若手ナンバー・スリーの地位にあったのが「扇ちゃん」こと伏見扇太郎だった。この映画では、仇討ちの場面で錦之助の曽我五郎を取り押さえる役をやっていた。御所の五郎丸である。セリフもほとんどなく、大した役ではなかったが、初め女の着物をかぶって出てきて、着物を脱ぐと後ろから五郎に組み付き、格闘の末、五郎を捕まえてしまう。ラストの尋問の場面でも、大友柳太朗の畠山重忠の後ろに控えていた。伏見扇太郎は、体が弱かったこともあって、一時の爆発的な人気も長くは続かなかった。
最後にスタッフのことを書いておこう。監督は佐々木康である。彼は、東映娯楽映画の巨匠・松田定次に続く二番手だった。オールスター映画も松田監督の次に多く撮っている監督である。秋田出身で、ズーズー弁をしゃべるため、愛称「ズーさん」と呼ばれていた。戦前から昭和27年までずっと松竹でメガフォンを取り、メロドラマや歌謡映画を数多く監督した人だが、東映に移籍してからも娯楽時代劇を中心に大いに活躍する。佐々木康と言えば、東映時代は右太衛門の『旗本退屈男シリーズ』をたくさん撮っていて、私も何本か観て、印象に残っているが、錦之助主演の映画も6本ほど撮っている。『曽我兄弟』の他に、『唄しぐれおしどり若衆』『悲恋・おかる勘平』『新諸国物語・七つの誓い』(三部作)『美男城』『江戸っ子奉行・天下を斬る男』がそうである。オールター映画では『血斗水滸伝・怒涛の対決』にも錦之助が出演していた。ところで、佐々木康にはその自伝に『悔いなしカチンコ人生』という著書があって、これがなかなか面白い本である。その中に、記憶に残っている映画として『曽我兄弟 富士の夜襲』のことが書いてあるので、引用しておこう。
「曽我兄弟物は、最後が悲惨なので、芝居などでも当たったためしがなく、それまで映画でも作られたことはなかった。しかし、マキノさん(マキノ光雄)は、この企画に大いに力を注いだ。それは、中村錦之助と東千代之介の二人を、もっと人気俳優に育てようという目論見があったからである。『いくら金をかけてもいい、撮影は絶対富士の裾野でやるんだぞ』 マキノさんの意気込みはすごかった。私はスタッフをともなって、白糸の滝をはじめ、富士の裾野へロケハンに出かけたりした。しかし、現実には『絶対予算以上の金は出せない』という大川社長の一言で、富士の裾野でのロケは実現しなかった。撮影は滋賀県にある安曇川で行われ、カメラマンの三木滋人の考案した『ポリテバル』(カメラの横の半紙大の画と実景とを合成する特殊撮影の機械)を使って、富士の裾野の感じを出したことを覚えている。」
また、監督としての自分の特長について、佐々木康はこんなことを書いている。
「たとえば、小津さんのような立派な芸術作家には、絶対オールスター映画は撮れないはずだ。なぜなら、芸術作家は自分の思い通りの演技をつけ、自分の個性を強く打ち出さないと、気がおさまらないからである。私の場合は、すべてスター自身が気に入るように演技させた。私は、俳優の個性を引き出す産婆役に徹して、その個性を最大限に生かすように監督したのである。そして、それぞれの個性を、作品全体のトーンやリズムを崩さないよう無難につなぎ合わせ、破綻のない映画を短期間で撮るというのが、私の才能であった。そう思っている。」
佐々木康の言葉にもあるように、『曽我兄弟・富士の夜襲』の撮影はベテラン三木滋人が担当した。彼は錦之助の表情の素晴らしさを最初に公言したカメラマンであり、錦之助にカメラのファインダーを覗かせて映画の勉強をさせたいわば恩師であった。三木滋人は、溝口健二監督の戦前の傑作『浪華悲歌』と『祇園の姉妹』を撮影したことで有名だが、戦後の東映の時代劇でも無くてはならぬ存在だった。あの『笛吹童子』を撮ったのも彼であるし、内田吐夢の大作『大菩薩峠三部作』の撮影も彼が担当した。錦之助の映画では、他に『怪談千鳥が淵』『弥太郎笠』がある。晩年の名作は『日本侠客伝』(第一作)であろう。
『曽我兄弟 富士の夜襲』のスタッフで特に注目すべき人は、加藤泰が助監督で、音楽はベテラン万城目正、美術はその後ずっと活躍する鈴木孝俊といったところである。(おわり)
昨日、もう一度この映画のビデオをじっくり観た。なんと今年に入って七度目である。これだけ観ても見飽きないのだから不思議なことだ。もちろん映画の出来が素晴らしいからなのだろうが、この映画に対する私の思い入れが大変強いからでもあろう。まだ書きたいことはたくさんあるが、最後にこの映画の登場人物で書き残した出演者のこと、そして監督やスタッフことなどを付け加えておきたい。
この映画には子役が四人出演している。片岡千恵蔵の実子二人、少年時代の一萬と箱王を演じた植木基晴と植木千恵については前にも触れたが、植木千恵は女の子である。二人とも50年代に東映で大活躍した天才子役で、私にとっては思い出深い二人である。昨年の秋に私は池袋の新文芸座で久しぶりに『血槍富士』を観たが、この二人の天才ぶりには舌を巻いた。彼らが兄妹(兄弟)役で登場した映画には、『曽我兄弟』の他に『源義経』があるが、これも懐かしい。錦之助の牛若丸が大蔵卿(中村時蔵)と再婚した母親の常盤御前(山田五十鈴)を訪ねに行き、ここで出会う可愛い弟と妹がこの二人だった。植木基晴は、私が少年時代最も心を躍らせて読み、また映画を観て感動した吉川英治原作の『神州天馬侠』で、主役の鞍馬の竹童をやっていたのが、記憶に残っている。この映画はずっとまた観たいと思っていたのだが、今度フィルムセンターで上映することになり、四十数年ぶりにこの映画が観られるとあって、私は非常に楽しみにしている。植木千恵は、少し大きくなってから『浪花の恋の物語』で、遊郭で働く女中の少女を演じていたが、梅川の有馬稲子にあかぎれした指を出し、包帯代わりに紙を巻いてもらった時の彼女の何ともいえぬ表情が目に焼きついている。この二人の名演は他にもたくさんあったと思う。
次に工藤祐経の息子の犬房丸を演じたのがこれまた50年代の子役・山手弘だった。山手弘と言えば、何と言っても『紅孔雀』の風小僧が有名である。コマ落としで、チョコチョコ駆けていく場面が何度も出てきて、これが忘れられない。
もう一人、源頼家に扮したのが北大路欣也だった。市川右太衛門の実子である。彼は現在でも活躍している俳優だが、この映画の当時は何歳だったのだろうか。勝小吉・麟太郎という親子役で父の右太衛門と共演した『父子鷹』が北大路欣也のデビュー映画だったが、調べてみるとこれも1956年の制作で、してみるとこの『曽我兄弟』は二作目だったようである。北大路欣也は、この映画でもそうだが、子役の頃から演技もしっかりしていたと思う。『父子鷹』(松田定次監督)は私のお気に入りの映画でもあり、何度か見ているが、彼の演技には感心する。
出演者では、他に伏見扇太郎のことを書いておかなくてはなるまい。私が東映映画をよく観ていた少年の頃、錦・千代に続く若手ナンバー・スリーの地位にあったのが「扇ちゃん」こと伏見扇太郎だった。この映画では、仇討ちの場面で錦之助の曽我五郎を取り押さえる役をやっていた。御所の五郎丸である。セリフもほとんどなく、大した役ではなかったが、初め女の着物をかぶって出てきて、着物を脱ぐと後ろから五郎に組み付き、格闘の末、五郎を捕まえてしまう。ラストの尋問の場面でも、大友柳太朗の畠山重忠の後ろに控えていた。伏見扇太郎は、体が弱かったこともあって、一時の爆発的な人気も長くは続かなかった。
最後にスタッフのことを書いておこう。監督は佐々木康である。彼は、東映娯楽映画の巨匠・松田定次に続く二番手だった。オールスター映画も松田監督の次に多く撮っている監督である。秋田出身で、ズーズー弁をしゃべるため、愛称「ズーさん」と呼ばれていた。戦前から昭和27年までずっと松竹でメガフォンを取り、メロドラマや歌謡映画を数多く監督した人だが、東映に移籍してからも娯楽時代劇を中心に大いに活躍する。佐々木康と言えば、東映時代は右太衛門の『旗本退屈男シリーズ』をたくさん撮っていて、私も何本か観て、印象に残っているが、錦之助主演の映画も6本ほど撮っている。『曽我兄弟』の他に、『唄しぐれおしどり若衆』『悲恋・おかる勘平』『新諸国物語・七つの誓い』(三部作)『美男城』『江戸っ子奉行・天下を斬る男』がそうである。オールター映画では『血斗水滸伝・怒涛の対決』にも錦之助が出演していた。ところで、佐々木康にはその自伝に『悔いなしカチンコ人生』という著書があって、これがなかなか面白い本である。その中に、記憶に残っている映画として『曽我兄弟 富士の夜襲』のことが書いてあるので、引用しておこう。
「曽我兄弟物は、最後が悲惨なので、芝居などでも当たったためしがなく、それまで映画でも作られたことはなかった。しかし、マキノさん(マキノ光雄)は、この企画に大いに力を注いだ。それは、中村錦之助と東千代之介の二人を、もっと人気俳優に育てようという目論見があったからである。『いくら金をかけてもいい、撮影は絶対富士の裾野でやるんだぞ』 マキノさんの意気込みはすごかった。私はスタッフをともなって、白糸の滝をはじめ、富士の裾野へロケハンに出かけたりした。しかし、現実には『絶対予算以上の金は出せない』という大川社長の一言で、富士の裾野でのロケは実現しなかった。撮影は滋賀県にある安曇川で行われ、カメラマンの三木滋人の考案した『ポリテバル』(カメラの横の半紙大の画と実景とを合成する特殊撮影の機械)を使って、富士の裾野の感じを出したことを覚えている。」
また、監督としての自分の特長について、佐々木康はこんなことを書いている。
「たとえば、小津さんのような立派な芸術作家には、絶対オールスター映画は撮れないはずだ。なぜなら、芸術作家は自分の思い通りの演技をつけ、自分の個性を強く打ち出さないと、気がおさまらないからである。私の場合は、すべてスター自身が気に入るように演技させた。私は、俳優の個性を引き出す産婆役に徹して、その個性を最大限に生かすように監督したのである。そして、それぞれの個性を、作品全体のトーンやリズムを崩さないよう無難につなぎ合わせ、破綻のない映画を短期間で撮るというのが、私の才能であった。そう思っている。」
佐々木康の言葉にもあるように、『曽我兄弟・富士の夜襲』の撮影はベテラン三木滋人が担当した。彼は錦之助の表情の素晴らしさを最初に公言したカメラマンであり、錦之助にカメラのファインダーを覗かせて映画の勉強をさせたいわば恩師であった。三木滋人は、溝口健二監督の戦前の傑作『浪華悲歌』と『祇園の姉妹』を撮影したことで有名だが、戦後の東映の時代劇でも無くてはならぬ存在だった。あの『笛吹童子』を撮ったのも彼であるし、内田吐夢の大作『大菩薩峠三部作』の撮影も彼が担当した。錦之助の映画では、他に『怪談千鳥が淵』『弥太郎笠』がある。晩年の名作は『日本侠客伝』(第一作)であろう。
『曽我兄弟 富士の夜襲』のスタッフで特に注目すべき人は、加藤泰が助監督で、音楽はベテラン万城目正、美術はその後ずっと活躍する鈴木孝俊といったところである。(おわり)