錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『紅孔雀』(その1)

2007-02-08 17:31:17 | 紅孔雀

 『紅孔雀』のビデオを久しぶりに全部観た。通しで観ると4時間半ほどになる。一昨日の夜中に第一篇と二篇を、昨日の午後に第三篇・四篇・五篇と立て続けに観た。これで全編見終ったのだが、昨晩また初めから見直し、第三篇の途中まで観た。つまり、二日で『紅孔雀』を一周半観たわけである。今晩も続けて最後まで観るにちがいない。これで二周して、計9時間。このブログに記事を書いている間に、もう一周はするかと思う。もしかすると、さらに一周。いやはや、『紅孔雀』の秘密の鍵をめぐって、私もぐるぐる回っているような気がしてきた。
 こんなことを書くと、子供だましの映画を何度も観て、馬鹿じゃないか、と思う人もいるだろう。実は、私自身も内心そう思っている。しかし、『紅孔雀』という映画は、何度見ても面白い。飽きずにぶっ通しで観ることができる。それが不思議である。
 ストーリーは幼稚で馬鹿げている。が、この映画を観ていると、どうしたわけか、この年になっても意外にワクワク、ドキドキしてしまう。なぜなのか。もちろん、今の私は、子供の頃の純真な気持ちにはもう戻れない。落語の小言幸兵衛ではないが、映画を観てはケチばかり付けている不良中年である。錦之助への憧れも昔とは違う。
 思い出せば、私が那智の小天狗に成りすまし、チャンバラごっこをしていた子供時代は、半世紀も前のことである。私にとっては『笛吹童子』より、何と言っても『紅孔雀』だった。押入れにある唐草模様の大風呂敷を引き剥がし、それを身に纏って、那智の小天狗を気取った。錦之助の小天狗がそれに似たような柄物の着物を着ていたからである。輪ゴムをはめてチョンマゲを作り、おもちゃの刀を振り回して、家の中や裏庭や道路で遊んだ。近所の仲間のガキたちもそれに加わった。昔の思い出話はともかく、こうした原体験があるからなのだろうか、今でも、『紅孔雀』の奇想天外な冒険活劇の世界には、のめり込む。観ているうちにいつの間にか夢中になっている。ところどころで、『何だ、これは!』と感じ、馬鹿馬鹿しくなってハッと我に返る、というわけである。

 この二日間でタイトルバックに流れるあの主題歌はもう8回も聴いている。歌詞もメロディも耳にこびり付いて離れない。「まだ見ぬ国に住むと言う、紅き翼の孔雀鳥……」という例の歌である。『笛吹童子』の主題歌は物悲しく胸にしみるメロディだが、『紅孔雀』の「まだ見ぬ国に」は浪漫的とでも言おうか。どちらも作詞は原作者の北村寿夫、作曲は福田蘭童である。
 登場人物の顔と姿も頭に焼き付いている。いや、もう一度鮮やかに焼き付け直したと言った方が正確かもしれない。『紅孔雀』は、錦之助の那智の小四郎、高千穂ひづるの久美、東千代之介の浮寝丸、大友柳太朗の五升酒の猩々といった主役たちはもちろんだが、脇役たちの印象も強烈だった。まず、毛利菊枝が扮した黒刀自(くろとじ)という妖婆がすさまじい。仁王立ちして、小さな体を伸び上げながら大きな数珠を振り回し、呪文を唱えるあの姿は、忘れたくても永久に忘れられないだろう。子供の頃もそう感じたのだが、あの狂ったような姿を見るとこちらまで呪われたような気持ちになる。吉田義夫の網の長者(後半ではあこぎ大夫)も印象的だった。彼の異様な顔は見飽きない。妖術使いの信夫一角(しのぶいっかく)は、三条雅也にしては珍しく主演級の大役だったが、印象度から言うと今一歩か。憎憎しさは出していたが、個性的な悪役陣に囲まれると、見劣りがした。河合軍大夫(青柳竜太郎)とか鬼鮫(団徳麿)は悪役だが、ひょうきんで面白かった。
 味方では、風小僧(山手弘)とお艶(植木千恵)が断然可愛らしかった。ほかに、巨漢の坊主役を岸井明がやっていたが、昔なら笑えただろうが、今はどうだろうか。女優では、楓の和田道子と小四郎の姉の西条鮎子が出番も多く、いい役だった。が、高千穂ひづるのあの妖艶な輝きに圧倒されて、影が薄くなってしまったと思う。麻耶の星美智子もまあまあと言ったところか。
 話がそれて脇役陣のことばかり書いてしまったが、錦之助を初め、主演の面々については次回にお話したい。(つづく)