今井正監督の『仇討』(昭和39年)は、作品的には『武士道残酷物語』より優れていたと私は思っている。どちらも暗い映画で、観終わって、何とも言えない殺伐とした気分を味わうが、作品の完成度は『仇討』の方が高かったと思う。
まず、『仇討』は、ストーリーが奇抜だった。同じ藩の武士同士の些細ないさかいから、私闘、決闘、そして一族郎党だけでなく藩全体を巻き込んだ仇討へと状況が深刻化していく。池に投げた小さな石のような小事が、波紋を広げ、取り返しのつかない大事になる。意外性のある話で、観ているうちに私はぐいぐいと引き込まれてしまった。そして、絶えず緊張感を覚えながら観ることができた。
この映画は、橋本忍のオリジナル脚本であるが、さすがに戦後のシナリオライターの第一人者だけあって構成がしっかりしていると思った。『切腹』(昭和37年公開、橋本忍脚本、小林正樹監督)も奇抜な話で素晴らしかったが、『仇討』も甲乙つけがたい出来映えだったと思う。60年代に続々と制作された残酷時代劇や集団時代劇の中では、『切腹』と『仇討』と『十三人の刺客』(昭和38年公開、工藤栄一監督)が三大傑作ではなかろうか。
『仇討』の前年に製作された同じく今井正監督・錦之助主演の『武士道残酷物語』は一種のオムニバス映画だったので、比較するのはやや無理な点があるが、第五話、第六話など無理矢理繋げた感もあって、破綻のある構成になっていた。『仇討』は、場面場面が緊密に繋がっていて、最後のクライマックスへ至るまでの展開も見事だった。登場人物たちの配置も良かった。錦之助の演じた主人公江崎新八をめぐる周りの人物たちの態度や言動も巧みに描かれていたと思う。共演者では、新八の兄を演じた田村高廣が特に良かった。ベテラン俳優では、寺の住職役の進藤英太郎、藩の目付け役の三島雅夫、新八の許婚の父親役の信欣三が目立っていた。
黛敏郎の音楽も独特で、効果を上げていた。撮影は中尾駿一郎、今井正の映画にはなくてはならない名カメラマンだった。
主役の錦之助について語ろう。演技の点で言えば、『武士道残酷物語』の方が役柄も多く獅子奮迅の大熱演だったと思うが、『仇討』の江崎新八もすごい役柄だった。人一人殺してからの、その異様な風貌と、狂気を帯びた目つきは恐いほどだった。これが錦之助なのかと目を疑いたくなった。寺に預けられ、おどおどして異常な精神状態になっている時の新八を演じた錦之助は、表情も動作も、これまで誰も見たことのない錦之助だったと思う。
新八は、死を覚悟することによって心の平安を見出す。自ら仇敵となって相手に討たれる決心をし、城下に戻ることになった前夜のシーンは、嵐の前の静けさのようだった。ここだけは、錦之助がいつもの見慣れた人間らしい表情に戻っていた。無精髭を剃り、さっぱりした顔で庭に置いた大樽の湯船に漬かり、寺の小僧相手に「武者追い唄」を歌うシーンは、ペーソス(悲哀)の漂う唯一の場面だったが、特に印象的で感銘を受けた。静寂の中で河鹿(かじか)の鳴く声が聞こえる。それが一層、生きることの切なさと孤独感を深めていた。
そのあと、この映画は一転して壮絶なクライマックスへと向かっていく。ここからまた錦之助はすっかり人が変わってしまうのだが…、見るに忍びないと感じた人も多かったことだろう。実家に帰ってからの新八は落ち着いた表情だったが、仇討の場所へ赴き、それが見世物になっていることを知ってからは、憤りをぐっと抑えた我慢の表情に変わる。見物人の群衆から石を投げられた時の悔しい表情は何とも言えなかった。そして、その憤りはラストシーンで爆発する。裏切られたと分かってからの新八の形相は目に焼きつく。「助太刀無用!」と大声で叫び、新八が刃引きをした刀で五人の討手たちに必死で立ち向かう場面は、言語を絶するすさまじさだった。
『仇討』で、錦之助は従来のイメージをすべてかなぐり捨てた。その過激な役者ぶりは、東映時代劇の映画スターとしての自爆行為に等しかったと言えるだろう。
この映画は「時代劇」ではあるが、『武士道残酷物語』同様、「反時代劇」であり、「時代劇否定」だった。というのも、「仇討」という行為は、従来の時代劇が美化し、好んで描いてきたことであったからだ。「忠臣蔵」「中山安兵衛」「荒木又右衛門」「曽我兄弟」は言うまでもなく、仇討を話の中心に据えた幾多の時代劇は、仇敵を斬り殺すことを正当化し、仇討場面をクライマックスとして、恨みを晴らすその痛快さを売り物にしてきた。「仇討物」は、時代劇を好む観客にとってカタルシス(精神浄化作用)の役割を果たしてきたとも言える。(これは、東映時代劇衰退後の任侠やくざ映画にも受継がれて行ったと思う。)
もちろん、「仇討」の虚しさや愚かさを描いた時代劇映画はこれまでに何作もあったが(マキノ雅弘監督の『仇討崇禅寺馬場』はその代表作であろう)、橋本忍脚本・今井正監督のこの『仇討』ほど仇討の醜悪さを嫌というほど暴いて見せた作品はなかったのではあるまいか。藩公認のもと、民衆の面前で見世物的に仇討を行わせるその経緯の馬鹿馬鹿しさ、仇討を行わざるを得ない当事者たちの悲憤、関係者たちの詰まらぬ意地や愚劣さなど、これらを主人公江崎新八の内面的な葛藤に反映させながら描き切った作品が、まさに『仇討』だった。
この映画の評価は、大きく分かれるだろう。この作品には、娯楽性もない。ユーモアもない。カタルシスもない。なぜ、こんな映画を作ったのだろうといった批判も多いだろう。しかし、この映画を好む好まないは別として、また時代劇であるかどうかもおくとして、『仇討』は、人を死に至らしめる人間社会の恐ろしさを描いた傑作だったことは間違いない。