錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

長谷川裕見子さん……

2010-07-31 01:03:17 | 監督、スタッフ、共演者
長谷川裕見子さんが亡くなった。
いろいろな思いが胸を締めつけている。
悲しい……
せめてもう一度お会いしたかったし、楽しいおしゃべりが聞きたかった。
昨夕(29日)、湯河原のお寺へお通夜に行ってきた。丘さとみさんといっしょに。
雨が降っていた。お通夜は6時からだったが、遅れてしまい、着いたのは6時半過ぎだった。
報道陣がたくさん来ていた。お花もたくさん飾ってあった。ずらっと芸能人の名前が並んでいた。その名前は、裕見子さんより船越英一郎さんの関係者の方がずっと多かった。
焼香を済ませて、私は脇の廊下に立っていた。
弔問客が途絶えて、親しい方たちはお座敷へ行ってしまった。
丘さんは、石井ふく子さんのところへ挨拶に行った。私は遠慮して、お棺の近くにいた。
しばらくすると、お棺のそばに誰もいなくなり、裕見子さんが置き去りにされてしまった。
横の方では、報道陣に囲まれて、喪主の船越英一郎さん、奥さんの松居一代さんのインタビューが行われていた。
お棺の中で静かに眠っている裕見子さんのお顔を何度も眺めた。綺麗なお顔だった。
裕見子さんにいろいろ話しかけた。返事が聞こえるようだった。
北大路欣也さんがいらしたので、丘さんを呼びに行き、三人でしばらく裕見子さんのおそばにいた。
裕見子さんはもう笑顔も作れなかったが、喜んでいるようだった。

裕見子さんと私が最後にお話したのは確か7月1日だった。携帯で30秒ほどお話した。
入院中で、相当お身体が悪いようだった。お声もまったく違っていて、息も苦しそうだった。
「ほんのちょっとだけでもお見舞いにお伺いしようと思っているんですが……」と私が言うと、
「もう会えないの……悪いけど」と、小さなお声でおっしゃられた。
私は手短に用件を伝えた。内田吐夢監督の上映会のことだった。
「支援してくださる皆さんの中に、裕見子さんのお名前も入れていいですか?」
「いいわよ」
優しいお言葉だった。
「ありがとうございます!裕見子さん、早く治ってくださいね」
これで終わりだった。
「いいわよ」という短いお言葉が最後だったが、私に対する励ましの気持ちが含まれているような気がした。勝手な解釈ではあるが……。


裕見子さんとはいくつか約束したことがあったが、結局どれも果せなかった。
心残りだが、もう仕方がない。
裕見子さんの本を出すこと。「叔父・長谷川一夫、夫・船越英二、そして私」という本。
この本を私が作ることは、裕見子さんから承諾を得ていた。娘さんの平野洋子さんからも是非作ってほしいと頼まれていた。裕見子さんは「そんな本、できるの?」とおっしゃっていたが、本当は楽しみにしていたにちがいない。「あなたが、まとめてくれるのなら任せるわ。しゃべるだけなら得意だから」とまで言われていた。
娘さんの洋子さんの力になること。裕見子さんから頼まれたことだ。これも中途半端なまま、洋子さんが自らの命を絶ったことで終ってしまった。あれは、確か昨年の5月だったと思うが、洋子さんが「梅一夜」という本を出版された時、裕見子さんから「出版のこと、洋子にいろいろ教えてあげてよ」と言われた。電話で裕見子さんとおしゃべりをしている時だった。それで、早速、湯河原のお宅へ伺って、洋子さんと会い、いろいろアドバイスした。
裕見子さんは寝室のベットで横になっていた。背骨が折れて休んでいたのだった。それが裕見子さんにお会いする最後になるとは、その時、思いもしなかった……。
その後、洋子さんの本のために私もできることをした。書店で注文をとったり、平積みにした本の上に置くポップを作ってあげたりした。洋子さんは、そのポップを持って、小田原の書店を回った。ブログにも嬉しそうにそのことを書いていた。

それから、三ヶ月に一度ほど裕見子さんのところへ私から電話をして、お話をした。いつも1時間くらいの長話だった。
「痛いのを我慢してずっと暮らしていると、痛みにも慣れてくるのね」
「あたしの骨はもう弱ってきたけど、頭のほうはまだ四十代だって、お医者さんが言ってたわ」
そんなことをおっしゃっていたことが今も私の耳に残っている。

最後に裕見子さんと電話で長話をしたのは、昨年の暮だった。
ポータブルのDVDプレーヤーをプレゼントにお送りした。寝ながらDVDを観られるので便利だと思ったからだった。私が作った「ダジャ単ライブ」も送った。退屈しのぎに観てくださいと私は言った。年が明けたら、お宅に伺いますから待っていてくださいとも言った。
洋子さんが亡くなって、行けなくなってしまった。洋子さんのお葬式にも間に合わなくて行けなかった。二日後にお宅に電話して、裕見子さんのお姉さまにお悔やみを申し上げた。

それから、もう一度、裕見子さんのお宅へ電話した。お手伝いさんが出て、裕見子さんは入院しているとの話だった……。

裕見子さんと約束したことはまだある。
ディアゴスティーニから裕見子さんのお宅へ「鳳城の花嫁」のDVDを2枚送ってきたので、今度会ったら1枚は私にくださるとおっしゃっていた。私が「鳳城の花嫁」の裕見子さんが大好きだと言っていたのを覚えてくれていらしたのだった。
湯河原の旅荘「船越」に泊まって、いっしょに食事をすること。
また、「船越」で錦之助映画ファンの会の有志を募って、上映会を行うこと。

裕見子さんが亡くなった時(27日未明)、私はちょうど吐夢さんの記念本を完成させ、パソコンから印刷所にデータを入稿したところだった。最後の3日間はほぼ徹夜だった。その前に裕見子さんが亡くなっていたら、私はお通夜にもお葬式にも行けなかったと思う。きっと、裕見子さんが、「あなた、仕事の区切りがついたでしょ。湯河原まで会いにいらっしゃい」とおっしゃっているように思えてならなかった。
その日の午後、丘さとみさんから電話があり、丘さんは朝、裕見子さんが夢に現れたとおっしゃっていた。それで、丘さんといっしょにお通夜へ行くことにした。丘さんは、「裕見子ねえさん」と裕見子さんのことを呼んでいて、東映時代ずいぶん可愛がってもらったそうだ。先輩の女優さんでは裕見子さんが一番好きだったという。

錦之助十三回忌の記念本「一心錦之助」に載せる裕見子さんのインタビューをとりに、湯河原のお宅へ伺ったのは、一昨年の12月29日のことだった。大晦日の2日前で、私は車で行ったのだが、小田原から湯河原へ向かう道路で大渋滞に巻き込まれてしまい、午後2時ごろ会う約束がまったく間に合わず、裕見子さんに何度も電話して状況を説明した。最後には、途中の早川の駅で車を駐車し、電車で湯河原へ行き、それからタクシーで裕見子さんのお宅へ向かった。着いたのは3時過ぎだった。裕見子さんは、ニコニコしながら「大変だったわね」とおっしゃてくださった。それから延々2時間以上、インタビューというか、お話をした。これが裕見子さんとの初対面だった。
「一心錦之助」に掲載したのはごく一部である。その時録音したカセットテープは約100分ある。
裕見子さんが亡くなった日、私はそのテープを出して、聴いてみようとした。が、どうしてもまだ聴く気になれないでいる。

内田吐夢の上映会のチラシにも、パンフレット(記念本とは別に制作した)にも、支援してくださる皆さんの中に、長谷川裕見子さんのお名前が入っている。
裕見子さんは、「大菩薩峠」の時、吐夢監督にとても気に入られたそうだ。一度もダメ出しがなかった。完結篇では、アザのあるお嬢様(喜多川千鶴が扮した)の役までやらないかと言われて、「内田先生、それは不自然で、おかしいんじゃないんですか」と言って断ったという。

裕見子さん!あの世でご主人の船越英二さんと娘さんの洋子さんにお会いできましたか?

今日(30日)のお昼過ぎ、裕見子さんは仏になった。




最新の画像もっと見る

コメントを投稿