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内田吐夢の大作『大菩薩峠』(昭和32年、33年、34年)のビデオをぶっ通しで観た。データによると、第一部119分、第二部105分、第三部(完結篇)106分とあるので、全部で330分、つまり5時間半観たわけだ。夜の11時半ごろから見始め、見終わった時にはもう夜が明けていた。が、見終わってこれほどの充足感に満たされたことも久しぶりだった。今更ながらこれは凄い映画だと思った。
『大菩薩峠』の第一部だけはどこかの映画館で観た記憶があった。確か封切りの時ではなく、リバイバル上映の時だったと思う。その頃私は小学生であり、こうした映画を鑑賞できる年頃でもなかった。暗くて気味の悪い映画だったという印象しか残っていない。ただ、四十数年経った今でも幾つかのシーンは覚えていた。たとえば、机竜之助が奉納試合の相手の許婚を縄でしばり汚辱するシーンや、亡霊を払おうと狂ったように御簾に切りかかるシーンなどである。が、これは子供心にショッキングだったから覚えていただけの話で、たいしたことではない。
『大菩薩峠』の凄いところは、完全に従来の東映時代劇を越えていたことにある。この映画は、カッコいいヒーローが登場する勧善懲悪の娯楽時代劇ではない。片岡千恵蔵扮する机竜之助という主人公は決して観客が感情移入できるヒーローではない。共感も抱けなければ、同情のかけらも感じられない殺人鬼である。無抵抗な老人や女を単なる気まぐれで斬り殺すような狂人である。彼が生き地獄へと落ちていくのも自業自得と言える。こうした主人公に魅力を感じる人がいるとしたら、異常で危ない人なのではないかと思う。
では、なぜこのような残酷非情な狂気の物語にわれわれはえも言われぬ感動を覚えるのか?この映画を見終わって、しばらくの間私はその理由を考えてみなければならなかった。まず何よりも私が心を揺さぶられたのは、生死の境を行くあてもなくさまよう孤独な男(机竜之助)がいやがおうにも巻き込まざるを得ない女たちの生きざま、そして死にざまであった。この男が生きている限り、何かの宿縁で係わっていく女たちが現れ、極限状況にある男と女の間にドラマが生じる。竜之助にすがり、ほんの一時期でも関係を持った女たちは、さまよえる殺人鬼に身も心も捧げようとする。自分の住む社会から見捨てられ、行き場のない女たちなのである。地獄の果てまで男に付いて行く覚悟をした女はすさまじい。
竜之助と深い関係を持つ女たちは、指折り数えてみると、お浜、お豊、お絹、お銀、お徳の五人いる。なかでも第一部で登場するお浜(長谷川裕見子)は強烈な印象を与え、その残像が頭にこびりついた。お浜は、武家の娘で、竜之助の試合相手となった宇津木文之丞の許婚であったが、竜之助に試合に負けてくれるよう頼みに行って、女の操を奪われてしまう。それを知った文之丞からは足蹴にされ、離縁状まで突きつけられる。しかも文之丞は試合で竜之助に打ち殺される。お浜の生きる道は、自分を奪った竜之助にすがりつき、この男に自らの運命をゆだねるほかにない。お浜はすべてを投げ打ち、竜之助とともに放浪の旅に出る。そして、竜之助との間に子供を産む。人目を忍ぶ窮乏生活のなかでの子育て、次第にお浜は不満を募らせ、竜之助の甲斐性のなさを罵り始める。お浜の最後はあわれだった。義理の弟になるはずだった宇津木兵馬(中村錦之助)を助けようとして、竜之助に刺し殺されてしまうのだ。
お豊(長谷川裕見子が二役を演じる)もあわれな女で、男と心中を試みたが運悪く生き延びてしまう女だった。薬の入った印籠をくれた竜之助がお豊にとっては地獄に仏で、これが縁でお豊は竜之助に深情けをかけることになる。病身に鞭打ち旅籠の女中までして竜之助に尽くしていたが、悪旗本に見初められ、犯されてしまう。お豊は自害する。
お銀(喜多川千鶴)は名家の娘だが、顔に醜いアザがあるため、嫁に行けない女だった。名刀の鑑定で竜之助を訪ねたことが縁で、目の見えなくなった竜之助に身をゆだねる。お銀は初めてこの上ない女の至福を味わったことで、竜之助のそばを離れられなくなる。
お絹(浦里はるみ)は無聊をかこつ妾であり、お徳(木暮美千代)は幼少の息子をかかえた山里の後家だった。
もちろん『大菩薩峠』には、直接間接、主人公机竜之助にかかわる老若男女さまざまな人間が登場する。しかし、竜之助とこの女たちの濃密なドラマに比べれば、他の人間模様はうす味である。兄の仇である竜之助を追いかける宇津木兵馬(錦之助)と竜之助に殺された巡礼の孫娘お松(丘さとみ)とのロマンスは、この狂気の物語に並行するサブ・ストーリーとして描かれるが、淡い印象しか残さない。とはいえ、この濃淡あざやかな描写があるから、作品に重層的な厚みが加わったと言えなくもない。濃密だが殺伐としたドラマだけでは、きっと見飽きてしまっただろう。喩えは悪いかもしれないが、私がこの大作を見終わって感じた充足感は、贅沢なコース料理を食べた後の満腹感に似ていた。メインディッシュはこれまで味わったことのない濃厚なゲテモノ料理だったが、うす味の各種サブディッシュを添え、消化良く食べさせてもらったような気がした。
『大菩薩峠』三部作は、『宮本武蔵』五部作に匹敵する東映映画史上の傑作であった。その両方を内田吐夢が監督して作ったという偉業はどんなに評価してもしすぎることはないと思う。
余談になるが、『大菩薩峠』を観て、内田吐夢という監督は、女性に相当苦労した男だったのではないかと察した。女性を持て余し、女性を内心恐れていた男だったのではないか。机竜之助が、ある意味で吐夢の分身だとするならば、女との修羅場で、竜之助の態度にその様子が伺えた。お浜に悪態を付かれた竜之助が「おまえとは悪縁だ!」と叫ぶ場面は、妙に生々しく感じた。また、子供が仏壇から飛び出したネズミに首を噛まれ、お浜が医者を呼んで来てほしいと竜之助に必死で懇願する場面があるが、この時、面倒くさがってごろ寝を決め込む竜之助の態度は、吐夢自身の体験をもとに演出しているように思えてならなかった。きっと吐夢は恐妻家だったのだろうと思ったほどだ。
最後に出演者たちのことに触れておこう。
片岡千恵蔵の机竜之助は、私にはどうしてもはまり役と思えない部分を感じた。立ち回りはさすがに迫力満点で見ごたえがあった。また、狂乱して剣を振り回す姿や盲目になった後のうらぶれた姿も良かったが、何気ない普通の場面での千恵蔵の演技には私は不満を覚えた。ありふれた好々爺に見えてしまうところがあって、いただけなかった。たとえば、お徳の子供を抱きかかえる場面があるが、その時の竜之助など、単なる子煩悩なおじさんにしか見えなかった。たとえ一時的に正気に戻っていても竜之助は常人とは違うわけで、絶えず虚無的な雰囲気を漂わせてほしかった。
長谷川裕見子は最高の演技だった。お浜とお豊の二役だったが、違いもうまく表現し、存在感がひと際目立っていた。お浜の睨みつけるようなあの恨めしい目は、今でも私の脳裏から離れない。セリフ回しといい、立ち居振る舞いといい、長谷川の色気とその芸達者ぶりにはいつも感心してしまう。女優陣では、ほかに喜多川千鶴のお銀が良かった。
錦之助の宇津木兵馬は、錦之助ファンから見れば、不満であろう。精神的に未熟な若い剣士の役では、錦之助の良さも発揮できず、正直言って私はあまり魅力を感じなかった。錦之助自身、この役にはどうも打ち込めないと漏らしていたと言う。 それと、お松(丘さとみ)の親代わりになる怪盗役が月形竜之介だったが、若い兵馬とお松のロマンスを常に遠くから見守っている姿が印象的だった。大河内伝次郎の剣豪島田虎之助は、貫禄十分、立ち回りも際立っていたことを付け加えておこう。
洋画に比べ、邦画の評価が低いのは、昔からのことで、これは日本人の欧米志向が強いせいでしょうね。邦画も欧米人が褒めた作品は評価が高い傾向があります。黒澤や小津の映画がそうですよね。一方、時代劇は、黒澤や溝口の作品以外は不当に評価が低い感じがします。東映全盛期のチャンバラ時代劇、とくに錦之助の映画には、名作がたくさんありますので、若い方にもぜひ観てほしいと思っています。案内役としてお役に立てれば嬉しい限りです。