錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『真田風雲録』

2006-04-29 04:53:37 | 美剣士・侍

 加藤泰(1916~1985)が亡くなって早20年余りになるが、今また彼の映画を再認識しようというムードが盛り上がっているようだ。つい最近、東映ビデオから「DVDボックス加藤泰篇」(全5作品)が発売された。そして、「渋谷シネマヴェーラ」という映画館(今年1月渋谷に開館したばかりの邦画中心の名画座)では、「激情とロマン 加藤泰映画華」というキャッチ・フレーズで、約三週間にわたり彼の監督作品を計15本上映するのだという。その中に錦之助主演の映画が3本含まれていることを知って、急に私は嬉しくなり、早速そのうちの1本『真田風雲録』を観てきた。(他の2本は『遊侠一匹 沓掛時次郎』と『瞼の母』で、両方とも私はビデオでは何度も観ている作品だが、映画館で上映するとなれば、また渋谷へ行かなければなるまい。)
 『真田風雲録』(1963年)を観るのは実は今度が三度目で、昔、封切りのとき映画館で観て、そのずっと後(十数年前)またビデオで観たことがあった。が、二度とも私の感想はまあまあだった。今度はどう感じるだろうと思い、映画館で観ると違うかもしれないと内心楽しみにして見に行ったのである。これが三度目の正直なのだが、前よりもずっと面白く感じた。また、映像的な観点で新しい発見がたくさんあった。この映画に慣れたのであろうか、それとも見方を変えたせいなのか、今ならこの異色作を客観的に評価したり批判したりすることができるような気もしている。

 この映画を初めて観た時には期待はずれで非常にガッカリした覚えがある。小学校五年か六年の頃だから、単に錦之助が主演だということと、タイトルに惹かれて見に行ったのだと思う。当時は、映画というのは監督の名前で観るのではなく、まず主演者が一番、次にタイトルや宣伝文句が面白そうだと感じたら、見に行っていたわけで、『真田風雲録』の監督が加藤泰で、原作と脚本が福田善之であることすら知らなかった。なぜ、ガッカリしたかと言えば、真田十勇士が登場するにもかかわらず、手に汗握る攻防や思いもかけない策謀のある娯楽時代劇とはまったく違っていたからだ。多分少年の夢を託した十勇士のイメージを壊されたような気持ちがしたのだろう。それに、猿飛佐助に扮した錦之助もなんだかいつもと違っていて、ぱっとしない印象を受けた。現代風のへんちくりんな衣装で(茶色の丸首シャツに黒いチョッキ、首には赤いスカーフを巻き、細い黒ズボンに短靴を履いていた!)、しかも忍術ではなく超能力を使うのだから、佐助ファンも錦之助ファンも納得がいかなかったのは当然だったと思う。
 二度目に観たときもほぼ同じ感じがしたのだが、今回もう一度観て、初めて好ましからぬ第一印象を拭うことができた。変な期待をしないで観たのが良かったのかもしれない。つまるところ、この作品は真田十勇士を格好良く描きたかったわけではなく、十勇士はただ、挫折した青春群像を描くための「だしに使った」に過ぎなかった。そう考えてみると、違和感を覚えた登場人物たちの振舞いや言葉も面白おかしく感じられるようになったから不思議である。

 『真田風雲録』は、福田善之の戯曲で、大阪冬の陣・夏の陣で豊臣家に味方した真田十勇士の闘いを1960年の安保反対闘争になぞらえて戯画的に描いた作品だった。私は彼の戯曲を読んだこともなければ、当時大ヒットしたと言われる舞台(俳優座の公演で、重鎮千田是也が演出したそうだ)も見たことがない。だから、演劇に関してではなく、あくまでも映画の感想を述べるに過ぎないことをお断りしておく。
 ところで、60年安保闘争をなぞらえたと言っても、この映画には、政治色が希薄で、左翼的な思想性もなければ、挫折に対する自己批判のようなものも込められていなかった。ただ自分を生かし、自分のために闘って、格好良く死にたい、そんな共通意識で真田幸村の下に集まった真田党が、負け戦とは知りながらも自らの意志で戦い、味方に裏切られても挫けず、最後は格好悪く散っていく。映画『真田風雲録』は、こうしたストーリーをからっと明るくコメディ風に描いていた。戦乱時代劇の装いを借りた現代劇みたいなもので、セリフも現代的、衣装も佐助に限らず人物によっては現代風であった。アピールする思想が希薄だという点では、毒にも薬にもならない映画だったが、逆に枠にとらわれないハチャメチャさが、奔放なアイデアを生み、映像的な実験を試みる自由をもたらしたとも言える。たとえば、猿飛佐助は、赤ん坊の頃、隕石の放射能にあたり、超能力を持つに至ったのだが、この超能力の発揮の仕方が面白かった。佐助の目が青くなってその視線を投げると、不思議なことが起こるのだ。ミッキー・カーチスの爪弾くギターにその青い視線があたると、その音楽に超能力が伝わり、敵の侍たちがリズムに合わせ踊り出し、そのまま水の中へ進んでみんな溺れ死んでしまう場面など、馬鹿馬鹿しくて笑ってしまった。「ハーメルンの笛吹き男」から借りたアイデアなのだろう。ほかにもミュージカル風で、面白い場面があった。大阪城に立てこもった若者たちが男女入り乱れ、ポピュラーなダンス音楽に合わせて踊り狂っている。そこへ、淀君率いる合唱隊が現れ、健全な音楽とはこういうものだと言って、みんなに聴かせるところも笑ってしまった。歌声喫茶の諷刺なのだ。
 映像的な試みとしては、加藤泰独特のカメラ・ワークもふんだんに見られた。ロー・アングル、クローズ・アップ、フレーム内での焦点の前後移動など。ロング・ショットでは、瓦屋根の上で、猿飛佐助と服部半蔵(原田甲子郎)が戦うシーンが圧巻だった。このシーンの錦之助はカッコ良かった。また、スチール写真の挿入、ストップ・モーションも多く使っていた。特に、真田幸村(千秋実)がずっこけた瞬間、死んだ敵の槍に突き刺さって格好悪く死ぬ場面や、大野修理(佐藤慶)が炎上する大阪城の部屋で焼け死ぬ寸前、熱くて飛び上がる場面でのストップ・モーションは効果的だった。また、コマ落とし(ジェリー藤尾が隊列を交通整理するシーンがおかしかった)もあり、セリフの字幕を入れるところもあって、サイレント映画の手法も取り入れていた。
 この映画は、加藤泰のフィルモグラフィーの中でもひと際異色な作品だが、あの不器用なほど生真面目な監督が、柄にもなく、よくもまあこんなものを作ったなーという感じなのだ。良く言えば、自由奔放、映像でしか表現できない実験精神あふれる映画、悪く言えば、行き当たりばったりの思いつきで悪ふざけしているような映画だった。だから、非常に面白いと感じた場面もたくさんあったし、観ている方が白けてしまい苦笑いをするほかない場面もたくさんあった。
 出演者に関しては、主役の錦之助はシリアスな演技で、相手役の渡辺美佐子(お霧といい、霧隠才蔵が女で、佐助の恋人役なのだ!)もそうだったが、この二人がちょっと映画の中では浮いているような印象を受けた。ほかの十勇士(ジェリー藤尾、常田富士男、米倉斉加年など)が漫画的で深みがなく、軽い役だったから余計目立ったのかもしれない。それと、これはミーハー的な見どころだが、錦之助と渡辺美佐子のキス・シーンがあった。しかも二人の唇が接するところをクローズ・アップで撮っているのには驚いた。目立った出演者としては、本間千代子(懐かしいな!)の千姫が愛嬌満点、花柳小菊の淀君がとぼけていてユニークだった。

*『真田風雲録』の映画化は東映のプロデューサーが企画し、初めは沢島忠が監督する予定だったそうだ。それがどういうわけか流れて、加藤泰のところに話が回ってきた。加藤泰は、その前に劇場公演を見て面白く思っていたので、喜んで引き受けたという。(『世界の映画作家14 加藤泰&山田洋次』(キネマ旬報社刊)所収のインタヴュー「加藤泰・自伝と自作を語る」より)






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2 コメント

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組織と個と (どうしん)
2006-05-02 15:14:39
この映画は、テレビの放映で観たのが最初。

「なんだ!これっ!」って感じで、3倍画像

のため、映りも悪くて良くわからなかったし

錦ちゃんもこんな映画に出演していたのかと

思った位でしたが、何度かビデオを観たり

大画面で観ている中に、大変ユニークで

めちゃめちゃの中に、組織の中で生きて行けない青年の孤独を佐助を通して感じた。

錦之助自身、本に良くなかったように書いて

いたと思うけれど、今の時代になって見直されている映画の一つかもしれませんね。
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4度目 (背寒)
2006-05-02 20:21:33
映画館で観てから、またビデオで観ました。4度目なんですけど、ビデオは発色も悪いし、画面も小さくてダメですね。

この映画をスクリーンで観た若い人に意見を聞いてみたいなーと思います。

でも、この作品は、錦ちゃんの出演作の中ではベスト20にも入らないと私は思います。
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