『ダークナイト・ライジング』についての最終考察、その一の続きです。
映画『ダークナイト・ライジング』の最終考察は本作の監督であり、脚本も手掛けているクリストファー・ノーランの心境にアプローチすることから始めたいと思います。
脚本を書くにあたってノーランの頭の隅にあったのは『バットマン』の次期シリーズのことではないか、そう思うのです。
『バットマン』の次期シリーズ?そんな話、聞いたことがないぞ、と思われるかもしれません。確かに自分も聞いたことはない。今の段階ではそれは自分の妄想にすぎません。
しかしながら実現する可能性のかなり高い妄想だと思っています。
何しろ使われていないエピソードは豊富で、登場していない怪人も多数、製作すればヒットは確実なのですから、いずれは製作されるであろうと考えるのが自然です。
逆に次期シリーズが製作されることは絶対にないと断言される方がいたら、その根拠を伺いたいです。
そしてその次期シリーズは極彩調のアメコミ的な作品になることも間違いありません。
まぁ当然ですよね、ノーランが『ダークナイト』三部作でリアルアクション路線を極めたのですから、その反動で対極的な作品になるであろうことは疑いようがありません。
自らが復活させ、新世代の、リアルなヒーローとして世に送り出したバットマンが再び旧世代のアメコミ的なヒーローに回帰することをノーランはどう思ったでしょうか。
耐えられない、と思います。少なくとも自分がノーランの立場であったら耐えられないですね。
ノーランは何としても次期シリーズの始動を阻止したかった。
そしてそのための効果的な手段をノーランは有していました。
そう、これから製作される三作目でバットマンことブルース・ウェインを葬ればよい。
それが可能であるのは言うまでもなく彼だけです。彼だけが地球上で唯一、ブルース・ウェインを葬る資格を持つのです。
もちろん製作サイドとしては絶対にそんなことを認めるわけにはいきません。
旧シリーズにおいて主人公が亡くなったからといって、必ずしも新シリーズをスタートさせることが出来ないわけではないですが、ファン心理を考えれば主人公が亡くなっていない方がいいのは言うまでもありません。
ブルース・ウェインを葬りたいノーランとブルース・ウェインには生きててもらわないと困る製作サイド、その妥協点がブルース・ウェインの生死がはっきりしないという『ダークナイト・ライジング』の結末だったのではないでしょうか。
ブルース・ウェインの生死をはっきりさせてはならないという密約をノーランは受け入れました。そしてほくそ笑んだはずです。
何しろ脚本を書くのは彼自身ですから、そこらへんのさじ加減は自由自在です。
一見するとブルース・ウェインは生きているかのように思える赤いニシン(間違ったヒント)を何匹か放ち、その実細部を検証すればブルース・ウェインは死んだのだという結論に達する脚本にすればよい。
言葉にすれば簡単ですが、それは至難の業だったと思います。
しかしそれをノーランはやり遂げました。
ノーランの計算ミスがあったとすれば、彼のミスリードがあまりに巧みで、ブルース・ウェインは生きていたのだ、という誤った結論に達した観客があまりに多かったことではないでしょうか。
けれど、作品の細部を検証していけば自ずと答えは一つしか出ません。
では妄想はこれぐらいにして、検証に移りましょう。
物語のクライマックスにおいてブルース・ウェインはミランダ・テイトに深くナイフで刺されています。この一事においてブルース・ウェインは死んだのだ、と結論付けてもいいぐらいです。
何言ってるんだ、そのあとバットマンは何事もなかったかのように動き回ってるじゃないか、そう仰る方もいるかもしれません。
そうです、確かにブルース・ウェインは鋼鉄の精神力で何事もなかったかのように振る舞っています。
しかし本当に何事もなかったはずはなく、あの傷は自然に止血するような浅いものではありません。バットスーツの下は血塗れだったはずです。
バットの操縦中、ブルース・ウェインは既に瀕死の状態であった、意識が朦朧としてバットを操縦するのが精一杯で脱出について考慮する余裕などなかった、そう考えるのが自然です。
これはただの奇遇ですが、『ダークナイト・ライジング』と同じ年に公開された『ドライヴ』という映画があり、この二本の映画は結末が近似しています。
映画『ドライヴ』において主人公ドライバーは悪役に深く腹を刺されます。しかしそのあとドライバーはその悪役を始末すると何事もなかったかのようにその場から愛車で去っていきます。
実際ドライバーが死に至る描写はありませんが、あの映画でドライバーが生き残った、無事だった、解釈する人はいないでしょう。
この二本の映画は結末が極めて似ていた、違いは意図的にミスリードされているかどうか、だと思うのです。
最終考察、その3へ
映画『ダークナイト・ライジング』の最終考察は本作の監督であり、脚本も手掛けているクリストファー・ノーランの心境にアプローチすることから始めたいと思います。
脚本を書くにあたってノーランの頭の隅にあったのは『バットマン』の次期シリーズのことではないか、そう思うのです。
『バットマン』の次期シリーズ?そんな話、聞いたことがないぞ、と思われるかもしれません。確かに自分も聞いたことはない。今の段階ではそれは自分の妄想にすぎません。
しかしながら実現する可能性のかなり高い妄想だと思っています。
何しろ使われていないエピソードは豊富で、登場していない怪人も多数、製作すればヒットは確実なのですから、いずれは製作されるであろうと考えるのが自然です。
逆に次期シリーズが製作されることは絶対にないと断言される方がいたら、その根拠を伺いたいです。
そしてその次期シリーズは極彩調のアメコミ的な作品になることも間違いありません。
まぁ当然ですよね、ノーランが『ダークナイト』三部作でリアルアクション路線を極めたのですから、その反動で対極的な作品になるであろうことは疑いようがありません。
自らが復活させ、新世代の、リアルなヒーローとして世に送り出したバットマンが再び旧世代のアメコミ的なヒーローに回帰することをノーランはどう思ったでしょうか。
耐えられない、と思います。少なくとも自分がノーランの立場であったら耐えられないですね。
ノーランは何としても次期シリーズの始動を阻止したかった。
そしてそのための効果的な手段をノーランは有していました。
そう、これから製作される三作目でバットマンことブルース・ウェインを葬ればよい。
それが可能であるのは言うまでもなく彼だけです。彼だけが地球上で唯一、ブルース・ウェインを葬る資格を持つのです。
もちろん製作サイドとしては絶対にそんなことを認めるわけにはいきません。
旧シリーズにおいて主人公が亡くなったからといって、必ずしも新シリーズをスタートさせることが出来ないわけではないですが、ファン心理を考えれば主人公が亡くなっていない方がいいのは言うまでもありません。
ブルース・ウェインを葬りたいノーランとブルース・ウェインには生きててもらわないと困る製作サイド、その妥協点がブルース・ウェインの生死がはっきりしないという『ダークナイト・ライジング』の結末だったのではないでしょうか。
ブルース・ウェインの生死をはっきりさせてはならないという密約をノーランは受け入れました。そしてほくそ笑んだはずです。
何しろ脚本を書くのは彼自身ですから、そこらへんのさじ加減は自由自在です。
一見するとブルース・ウェインは生きているかのように思える赤いニシン(間違ったヒント)を何匹か放ち、その実細部を検証すればブルース・ウェインは死んだのだという結論に達する脚本にすればよい。
言葉にすれば簡単ですが、それは至難の業だったと思います。
しかしそれをノーランはやり遂げました。
ノーランの計算ミスがあったとすれば、彼のミスリードがあまりに巧みで、ブルース・ウェインは生きていたのだ、という誤った結論に達した観客があまりに多かったことではないでしょうか。
けれど、作品の細部を検証していけば自ずと答えは一つしか出ません。
では妄想はこれぐらいにして、検証に移りましょう。
物語のクライマックスにおいてブルース・ウェインはミランダ・テイトに深くナイフで刺されています。この一事においてブルース・ウェインは死んだのだ、と結論付けてもいいぐらいです。
何言ってるんだ、そのあとバットマンは何事もなかったかのように動き回ってるじゃないか、そう仰る方もいるかもしれません。
そうです、確かにブルース・ウェインは鋼鉄の精神力で何事もなかったかのように振る舞っています。
しかし本当に何事もなかったはずはなく、あの傷は自然に止血するような浅いものではありません。バットスーツの下は血塗れだったはずです。
バットの操縦中、ブルース・ウェインは既に瀕死の状態であった、意識が朦朧としてバットを操縦するのが精一杯で脱出について考慮する余裕などなかった、そう考えるのが自然です。
これはただの奇遇ですが、『ダークナイト・ライジング』と同じ年に公開された『ドライヴ』という映画があり、この二本の映画は結末が近似しています。
映画『ドライヴ』において主人公ドライバーは悪役に深く腹を刺されます。しかしそのあとドライバーはその悪役を始末すると何事もなかったかのようにその場から愛車で去っていきます。
実際ドライバーが死に至る描写はありませんが、あの映画でドライバーが生き残った、無事だった、解釈する人はいないでしょう。
この二本の映画は結末が極めて似ていた、違いは意図的にミスリードされているかどうか、だと思うのです。
最終考察、その3へ
彼らのバットマンが子供向けっぽかったのは時代の影響が強く、またノーランが導いたリアル路線をやすやすと無視できるほど甘くはないでしょう。
アベンジャーズの存在も無視できません。
マーベル勢もリアル路線で出てきてますのでよりシリアスなストーリー展開を好むDCコミックキャラ勢には商売上引くことはできないでしょう。
それからアメコミでは主人公が死ぬことはよくあることなのでライジングで死んだところで新たなシリーズを始めるなら何の問題もなく始められるはずです。
制作的には今後のスーパーマンからジャスティスリーグに続く展開を考え、ライジングの世界観を受け継ぐかどうかを選択肢に残しておくためとしての密約の可能性を疑いますね。
なるほど、と思いました。
『ダークナイト』三部作でリアルアクション路線は極まったのだから、次回作はその反動で対極的な作品になるだろうと読みましたが、確かにそうなるとは限らないとですね。
どちらにせよ、『マン・オブ・スティール』及び『ジャスティス・リーグ』次第という意見もそうだと思います。
本文記事を書いたときは知らなかったのですが、一説では『ジャスティス・リーグ』は2015年、さらに『バットマン』の新作は2017年に公開されるらしいですね。
http://www.cinematoday.jp/page/N0049650
ノーラン的なリアルアクション路線を引き継ぐか、バートン的なアメコミ調の作品になるか、どちらになるか楽しみですね(自分も希望は前者です。でも予想は後者です。)。
>それからアメコミでは主人公が死ぬことはよくあることなので
アメコミではよくあることなのかもしれませんね。歴史も長いですから、それぐらいのことがないと読者に飽きられてしまいますから。
でもアメコミ原作の映画ではどうです?映画で主人公が死んだ、という話は自分は耳にしたことがないですけれど。
やっぱりより大きな市場を狙う映画の中で主人公を殺すことはリスキーすぎると思います。
結局一番重要なのは『ダークナイト』三部作の次期シリーズがリアルアクション路線を継続するか否かではなく、ノーランが次期シリーズが製作されることを望むかどうかだと思います。
次期シリーズがリアルアクション路線を継続したとして、それがどうしようもなくくだらない駄作だったとしたらと゜うでしょうか?
ノーランは果たしてそれを喜ぶでしょうか?
喜ばないと思います。
自らが伝説にまで昇華させたシリーズが愚にもつかない作品に墜ちてしまったら、快くは思わないはずです。
逆に『ダークナイト』三部作を越えるような超絶的傑作となったらどうでしょう?
やはり、面白くはないと思います。
それまで『バットマン』といえばティム・バートンの代表作でした。それをノーランは自分自身の手で奪い取ったんです。今では『バットマン』と聞いて最初にティム・バートンの作品を思い出す人はいません。
それを別の人間に奪い取られたら?
心が狭いと言われるかもしれませんが、愉快ではいられないはずです。
つまり、次期シリーズの出来に関わらず、製作されること自体がノーランにとっては面白くないと思います。
これがサム・ライミであれば問題はないと思うんですよね。
彼は自分の作品に愛着やこだわりを持っているようには思えないので。
でもサム・ライミならオッケーでノーランならNGだろうというのはさすがに説得力を欠くだろうと思って本文では書きませんでした。
ノーランだったら、次期シリーズが製作されることを快くは思わないだろうと考えるのって自分だけですかね。。。