ブログ 「ごまめの歯軋り」

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太平記

2020年10月14日 | 書評
京都 知恩院古門前白川

兵藤裕己 校注 「太平記」 岩波文庫
鎌倉幕府滅亡から南北朝動乱、室町幕府樹立における政治・社会・文化・思想の大動乱期

「太平記」 第Ⅰ部(第1巻~第12巻)

太平記 第1巻(年代:1318年-1325年)(その1)

10行にも満たない短文であるので全文をまず記す。「蒙竊かに古今の変化を探って、安危の所由を察るに、覆って外なきは天の徳なり。名君これを体して国家を保つ。載せて捨つる事なきは地の道なり。良臣これに則って社稷を守る。若しその徳欠くる則は、位ありと雖も持たず。所謂夏の桀は南巣に走り、殷の紂は牧野に敗る。その道違う則は、威ありと雖も保たず。曾って聴く、趙高は咸陽に死し、禄山は鳳翔に亡ぶ。ここを以て、前聖慎んで法を将来に垂るることを得たり。後昆顧みて誡めを既往に取らざらんや。」 皇帝は徳の道で国家を治める。徳に欠けるときは位が高かろうが滅亡する。臣は臣たる道を踏み外しては家を保つことはできない。天(王)と地〈臣)の道を全うすることが治平天下の原則である。これが「太平記」の理想とする秩序である。
1、後醍醐天皇武臣を滅ぼす御企ての事
第96代の帝後醍醐天皇の御時、武臣で鎌倉幕府執権北條高時は天皇の徳に従わずそして臣の礼も失ったため、天下は大いに乱れ30年間というもの万民は安心できなかった。鎌倉の右大将頼朝は平家を追討して功があったので66か国の総追捕使を任され、諸国に守護を置き、荘園には地頭を置いた。次いで実朝公、次に頼家卿が征夷大将軍となったが、わずか42年にして三代で源氏の系統は絶えた。頼朝卿の舅遠江守北條平時政が継いで陸奥守義時が執権となって幕府の権力を握った。後鳥羽上皇の御宇に承久の乱で武臣義時を亡ばそうとしたが失敗し、上皇は隠岐の国に流された。その後幕府の執権は、北條泰時、時氏、経時、時頼、時宗よりさらに七代執権が政治を牛耳り武家のものであった。武家の政権というものの徳は貧しい民にも行き渡り、位は親王・摂関家を出なかったが謙虚にして仁恩があり礼儀に欠けることはなかった。承久元年より宮を将軍として鎌倉に送る。二人の北條家一族を南北の六波羅探題として、都以西の政を取り仕切った。鎮西に探題を設け九州の政を執った。そうして日本国中鎌倉幕府の権威に従わないものはなかった。武家は必ずしも公家を侵すものではないが、守護の権威は高く国司は軽んじられた。朝廷は年々衰え武家は日々に盛んとなった。時政以来九代目の得宗平高時に至って、行跡よろしくなく政道正しくなく、放逸にふけって民の弊を顧みなかった。この時の帝、後醍醐天皇は鎌倉の同意を得て31歳で御位についた。孔子の道に従い万民はその徳を楽しんだ。寺社禅律は繁盛し、顕密儒道の者は満足した。1322年大干ばつによって飢饉となった時、帝は検非違使に命じてコメの価格を定めて売買をし、訴訟の記録所に行って直に訴えを聞き治世安民の政治が行われた。
2、中宮御入内の事
1318年8月3日、西園寺太政大臣実兼公の娘、後醍醐天皇の后妃となって弘徽殿に入る。承久の乱以来鎌倉北條家は代々西園寺家を尊崇し、西園寺家は鎌倉の意向を朝廷に伝える媒介人であり、したがって次の天皇メーカーたる名家であった。親王も西園寺家に誼を結ぶことは必要であった。后妃の御年は16歳であった。しかし後醍醐帝は后妃に近づかず、一度も弘徽殿の足を運ばなかった。そのころ阿野中将公康の女で三位殿の御局という者が中宮のお傍にいた。後醍醐帝は康子を寵愛し1335年康子を准皇后にした。このため政道は廃れ天皇の評定や沙汰は准皇后の口入や讒言で決まるような朝廷となった。
3、皇子達の事
後醍醐帝の後宮の女達が多くいて次々と宮が生まれその数16人となった。第一宮中務卿親王(尊良親王)は御子左大納言為世卿の女為子の腹に生まれ、吉田内大臣定房公の養子にして六義の道に長じた。第二宮(宗良親王)も同じ腹の出、妙法院門跡となった。第三宮(尊雲親王)は民部卿三位殿の腹より生まれた。大変聡明なので帝は天皇位を継がせたかったようだが、大覚寺統と持明院統の交代即位の定めであるため梨本門跡(三千院)に入られた。第四宮(浄尊法親王)も同じ腹より生まれた。聖護院(三井寺園城寺の門跡)に入った。その他にも後続・後宮が多い。(これを皇統繁盛の礎というのか)

(つづく)



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