ブログ 「ごまめの歯軋り」

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大木毅著 「独ソ戦争―絶滅戦争の惨禍」

2021年08月20日 | 書評
 栃木県渡良瀬遊水池 西展望台

大木毅著 「独ソ戦争―絶滅戦争の惨禍」 

岩波新書(1940年11月初版)

第1章 独ソ不可侵条約から独ソ開戦へ (第1章の1)

1941年5月30日、来日していたソ連の新聞社の特派員であった諜報部員、ゾルゲの秘密報告にスターリンは目を通した。また駐日ドイツ大使オットは、ドイツの対ソヴィエト攻撃は6月後半に確率95%以上で開始されるとの報を日本に伝えた。ソ連のスパイ網が伝えた独ソ戦開始の情報は百件以上を超えたが、スターリンは情報を却下し、ドイツに対峙する部隊に対して警戒措置を取らないばかりか沈静を命じたという。その理由は根強い対英不信からきている。1939年に独ソ不可侵条約を締結しポーランド分割をしたばかりで、まだドイツを信じていた。英仏独伊は1938年のミュンヘン会議でチェコの領土割譲を決めたミュンヘン会議いらい、英国はソ連に敵対的な態度を取り、ソ連をドイツと闘わせようとしていると信じ込んでいた。1939年から40年にかけてソ連はフィンランドに侵攻しソ連は冬将軍に苦戦していた。その苦戦の理由は1937年の「大粛清」を行ったため3万人の将校を追放し、高級統帥(将軍)を銃殺した結果、大幅な戦力低下をきたしていたからだ。経験の浅い、弱い軍隊に変質していたからである。ヒトラーはイギリスを同盟国もしくは中立国に置いたうえで、チョコ、ポーランド、フランスなどを段階的に妥当し、対ソ戦に着手してソ連を絶滅させ、その地にゲルマン民族の東方植民地帝国を築くプログラムを練っていたといわれる。これはあくまで「プログラム論」であって、諸因子を無視しヒットラー中心に事が運ぶわけではない。しかし1940年の対仏戦争で思いがけない大勝利を得て、イギリスを孤立化する目論見が成功するかに見えた。ヒトラーは海軍にイギリス本土上陸作戦指令を出したが、実行不可能であることが分かり空軍にイギリス本土空襲を実行させた。英国は迎撃戦を展開し戦局ははかばかしく動かなかった。そこでヒトラーは対ソ戦を決意するに至ったが、その契機は1940年7月31日国防相会議において、英国がソ連を参戦させることを望んでいるとかんがえ、その前にソ連を転覆させるべきという意見をヒトラーが述べた。1940年9月27日ヒトラーは野戦師団180個の編成を指示した。1940年11月12日ソ連モロトフ外相がベルリンに招かれ、ドイツ外相リッペントロップより日独伊ソ四か国同盟を持ち掛けらたが、モロトフは乗り気ではなかったので、ヒトラーはソ連戦を決意した。ドイツのソ連侵攻が正式に決定されたのは1940年12月18日であった。ドイツは西方作戦が終了後、1940年6月26日第18軍司令部に、東部に移動し、ソ連に対する東部国境防衛任務が与えられた。ハルダー陸軍参謀長は「ソ連との紛争」にはルーマニアも含まれることより、国防軍の戦車、航空機の多くはルーマニアの石油で動いていたので、ルーマニアの油田を守るためには対ソ戦もやむなしと判断したようだ。これにはソ連軍の実力に対する信じがたい過小評価が働いた。こうして国防軍、とりわけ陸軍の首脳部は対ソ戦に傾斜していった。ヒトラーが対ソ戦を決意し命令を下す前から、ソ連侵攻の準備を進めていた。

(つづく)




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