ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文語訳 旧訳聖書 Ⅰ 律法(モーゼ五書)岩波文庫

2020年02月03日 | 書評
夜明け前の筑波山 2019年2月14日 午前5時40分

旧約聖書全39書のうち律法は、モーゼ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)を収める  第1回

1) 総 序
1-1) 旧約聖書とは


旧約聖書といえば、私は岩波文庫で関根正雄訳の「創世記」(1956年版)、「出エジプト記」(1969年版)、「ヨブ記」(1971年版)、「エレミヤ書」(1959年版)、「詩篇」(1973年版)を現代語訳で読んだ。岩波文庫出版の関根氏訳旧約聖書はこれだけであり、膨大な全39書の現代語訳は日本聖書協会より「口語訳 旧約聖書」(1955年版)から発刊されている。今回私が読んだ岩波文庫「文語訳 旧約聖書Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ 全4巻39書」(明治20年)は敢えて文語訳である。文語訳といっても「源氏物語」を読むのではなく、明治時代の文章であるので、誰でも素直に読むことができる。宗教書としては文語調の方が格式が高そうだという効果もある。日本聖書協会の「口語訳 旧約聖書」が入手が出来なかっただけのことである。しかし電子書籍版で読むことはできる。電子書籍版は著作権フリーの「口語訳旧約聖書」から見ることができます。岩波文庫「文語訳 旧約聖書全4巻」hは、1887年(明治20年)に訳され、翌年刊行された文語訳の旧約聖書を四分冊として納めている。本書は第1分冊めの「律法」の部にあたる。明治時代にキリスト教と聖書を日本で広めるため、聖書委員会が設置された。翻訳委員会の新約聖書は1917年に改訳された。同時期に旧約聖書は改訳されなかった。本書の底本はこの明治版による。旧約聖書はもともとユダヤ教の聖典である。AD2世紀ごろにキリスト教においてはキリストの教えを新約として新約聖書が作成され、それまでの神の約束は旧約聖書と称した。旧約聖書はおもにヘブライ語で書かれている。そこに収められた文書は、「律法」、「預言者」、「諸書」の3部にわかれる。しかし紀元前3-1世紀の作成されたギリシャ語訳では「律法」、「歴史」、「諸書」、「預言」と四区分と順序が定められた。各部の文書は次の表に観る諸巻が収められた。「文語訳 旧訳聖書」岩波文庫に収録された文書を整理すると、以下である。全39文書である。
Ⅰ 律法: 創世記、出エジプト記、レビ記、民数機略、申命記
Ⅱ 歴史: ヨシュア記、士師記、ルツ記、サムエル記前後、列王記略上下、歴代志略上下、エズラ書、ネヘミヤ記、エステル書
Ⅲ 諸書: ヨブ記、詩篇、箴言、伝道之書、雅歌
Ⅳ 預言: イザヤ書、エレミヤ記、エレミア哀歌、エゼキエル書、ダニエル書、ホセア書、ヨエル書、アモス書、オバデア書、ヨナ書、ミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼパニア書、ハガイ書、ゼカリア書、マラキ書

ザビエルによって1549年に開始されたキリスト教の日本伝道によって、旧約聖書の話は各地に伝えられた。1553年のクリスマスには修道士シルヴァにより、人間の創造と原罪、ノアの洪水、ヨセフの話、モーゼの十戒など旧約聖書の話が朗読された記録がある。キリスト教が禁教になって以降も根強く旧約聖書の話は流布した。密入国した宣教師シドッチを尋問した新井白石は「西洋紀聞」を著してシドッチから聞いた旧約聖書の話を伝えた。平戸の松浦藩主が集めた蘭書の中には、ヘンリーの聖書註解書があり旧約聖書も含まれていた。江戸幕府の蕃書調所の箕作阮保甫は旧約聖書を読んでいた。隣の中国ではプロテスタント伝道者モリソンが「旧遺詔書」(旧約聖書のこと)を1823年に刊行した。1843年にはアメリカ人宣教師ブリッジマン、カルバートソンによる「新約全書」、「旧約全書」が刊行された。この中国語訳本が後に日本の聖書翻訳に大きな影響を与えることになった。1858年日米修好通商条約の結果、日本で最初のプロテスタント宣教師M・ウイリアムス、ヘボン、ブラウンらが来日した。1872年にはヘボンは十戒を含む「三要文」を翻訳した。ウィリアムスは1877年に「十戒問答」を刊行した。多くの教派の宣教師が来日し1872年に聖書翻訳委員会が組織され、委員としてヘボン、ブラウン、グリーンらが選ばれた。聖書日本語翻訳は1874年から開始された。1876年、横浜聖書翻訳委員会が新約聖書の翻訳に集中しているので、旧約聖書の翻訳のために東京聖書翻訳委員会が設けられた。タムソン、コクラン、バイパー、ワデルの四人が委員に選ばれた。タムソンを除くとイギリス系宣教師たちであった。こうして1882年より旧約聖書の分冊が次々と刊行され始めた。翻訳はヘボン、ファイソン、フルベッキの翻訳委員が中心となり、中でもヘボン(ヘボン式ローマ字の開発者でもある)の活躍が著しかった。翻訳は1887年(明治20年)までに分冊集として全巻の刊行を終えた。書の題名の漢字表記からして(マラキ書:馬拉基など)いずれも中国語訳訳聖書(ブリッジマン、カルバートソン訳)の題名と同じである。中国語訳聖書に訓点をつけた旧約聖書も日本で出回っていたので、日本人信徒の間で定着してと思われる。「訓点 旧約聖書」だけで理解できる人々も少なくなかった。当然日本語訳聖書の文章もその読み下し文に近いものとなった。ルビが大和言葉で振られているので、聞いただけで内容が分かるようになっていた。1888年旧約聖書の翻訳完成祝賀会において、ヘボンはその経緯を述べた。松山高吉、高橋五郎の日本人助手の功績を高く評価し、新旧聖書の文体が統一されていることを賛辞した。また同年1冊本の旧約聖書が刊行された。文学者の上田敏は「かくも雅馴の文をなししかと驚嘆せしむ」と称賛した。翻訳は英語訳、ドイツ語訳を参照したというが、やはり中国語訳に負うところが大であり、詩篇・雅歌・エレミア哀歌・ヨブ記は詩歌とみられるが、日本語訳では散文との区別がつかないほど全体の格調が高かった。新しい日本語の文体を模索しつつあった近代日本で、この旧約聖書は漢文調であったが、広く思想、文学、社会に与えた影響は大きかった。1917年(大正6年)に新約聖書は改定されたが、旧約聖書は見送られた。戦後になって本格的な改訳作業が行われ、1955年(昭和30年)に口語の旧約聖書が作成された。日本聖書協会の「口語訳 旧約聖書」がそれである。

(つづく)







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