民喜と貞恵
繊細な精神は過酷な運命を生きた 死と愛と孤独の文学 第5回
Ⅰ.梯久美子著 「原民喜ー死と愛と孤独の肖像」 岩波新書(2018年7月) (その3)
2.愛の章
原民喜は慶応大学文学部予科フランス語クラスに入った。原と同じクラスには山本健吉、瀧口修造、北原武夫、芦原英了、厨川文夫、庄司総一らがいた。最も親しい友人が山本健吉(評論家)であった。そして本科は西脇順三郎教授の英文科に進んだ。山本健吉は原民喜と熊平武治が文学に通暁して読書もかなり進んでいることを知って驚いたという。1926年に熊平武治と早稲田大学に進学した長光太らと詩の同人誌「春鶯囀」を始めた。同人は「少年詩人」メンバー、熊平の兄清一と山本健吉が加わった。原はダダ風を避けて、俳句風の感傷的抒情詩を寄稿した。「春鶯囀」は資金がなくすぐに廃刊し、「四五人会雑誌」を始めた。原稿を綴じただけの回覧雑誌であった。熊平武治は広島の金庫製作所次男として生まれ、原と同じ広島師範学校付属小学校・同江東師範学校附属中学校から慶応大学と全く同じコースを歩んだ詩人で詩集「古調月明集」を刊行し、広島に戻って家業を継いだ。熊平は「早熟な擬悪家」と評され、死の恐怖を吹聴し快楽主義を唱えたと言われるが、原が熊平と行動を共にしたのは死の想念と共通点を持つ原の心情と通じる所があったのかもしれない。原は学生時代、親から仕送りを受け高級煙草を吹かすデカダン的要素と幼児からの自閉症的内向性がない雑じった不思議な生活をしていた。家族以外のコミュニティを得て酒もはいるとそれなりに無駄口も聞くこともあった。友人長は原のこの性格を「酒が入ると舌も手も自由になることの原因は、すべての原因が心にあることを示す」と見ていた。長が言う「幼少期の心の傷」とは、父や姉ら肉親を早くなくしたことにあるのだろう。原が左翼思想に接近するのは、長光太や山本健吉と共に20歳から21歳にかけてのことであった。このころ原は昼夜逆転の生活をしていて授業に出ていなかったので学部に進級することができず、留年を繰り返して予科に5年間在籍した。1929年慶応大学文学部英文科に進み、マルクス主義文献読書会や宣伝活動を行った。原が所属したのは日本赤色救援会東京地方委員会城南地区委員会であった。広島にオルグにゆき地方委員会の設立をやったりしたが、検挙された経験をきっかけにして原は活動を止めた。左翼運動した時期は原が能動的に働きかけた唯一の時期であった。この運動の挫折と娼妓の問題で原は人間不信となり、自殺未遂事件を引き起こした。ちょうどそのころ広島の実家より原の縁談が持ち込まれ、結婚しなければ仕送りを止めると言われ、父の17回忌に帰って6歳下の永井貞恵という女性と見合いをした。1933年3月17日広島市内で挙式し、原は27歳、貞恵は21歳であった。貞恵は尾道高等女学校卒、実家は広島市三原で米穀業、肥料問屋と酒造業を営んでいた。3歳下の弟に原の終生の理解者だった佐々木基一氏がいる。2人は池袋で新生活を始めた。新居を訪ねた長光太は相好崩した原を観察して「原は貞恵さんを通して日常を学びなおし、常識の世界に渡りをつけようとしている」と書いた。貞恵を追想した連作「美しき死の岸に」、夫の執筆を励ます妻の姿が描かれている。「忘れがたみ」には原の書いた原稿を別室で読んでいる妻の物音がする。よく賭けた時は妻の顔も晴れやかで、いいものが書けないときは台所でコトコト包丁でたたく音に憂鬱が籠っていたという。結婚当時は原は同人誌に投稿する文学青年に過ぎず、稼ぎの無い定職を持たない彼に実家は仕送りをつづけた。それでも妻は文学に専念できる環境を整えた。アパートを池袋から北新宿に移したころ、2人の昼夜逆転の生活は近所の人の不信を招き警察に通報され、夫婦そろって警察に拘留されたがすぐ釈放された。近くに住む山本健吉まで拘留され左翼運動を疑われたので、原は山本と絶交し千葉市のアパートに引っ越した。絶好状態は14年間続いてが遠藤周作の仲介で戦後1948年に和解したという。千葉での穏やかの生活で心身共に安定を得た原は精力的に執筆に打ち込み、三田文学に寄稿するようになった。先輩作家佐藤春夫に作品の批評をお願いしにゆくときも妻貞恵が付き添い、無口な原の代弁を買っている。こうしてまだ21歳だった貞恵は原の母親のような存在になっていた。千葉時代の原は小説の執筆の傍ら、精力的に句作をおこなった。俳誌「草茎」の会員に妻とともになり、「原杞憂」という俳号で投句した。1944年妻貞恵が病死した後の句に「心呆け 落ち葉の姿 眼にあふる」がある。妻との「夢のような暮らし」によって、安心して幼い頃の記憶が立ち返ってきた。貞恵と死別した後の原は、彼女に呼びかける文章を書き続けることになる。貞恵が肺結核を発症したのは結婚6年目の1939年9月のことであった。貞恵は千葉医科大学付属病院に入院した。貞恵が自宅療養、再入院を繰り返し病床で過ごすようになって、原の三田文学への投稿がその数が次第に減っていった。1942年より原は船橋中学校で英語の嘱託講師になった。結婚後初めて職に就いた。連合軍との間で太平洋戦争が始まった1941年12月より原には「崩壊の予感」が現実的なものになって、原は貞恵の病室に行く時だけが心安らいだ。文壇の大物たちが慰問団となって中国や南方で活躍する中、原は1944年三田文学に「弟へ」という6篇の短文を発表した。常套句を使わず、声高にならず、平易な文章で何でもない日常を描く、それは非日常の極みである戦争への原の静かな抵抗であった。1944年自宅で療養生活をしていた貞恵の枕元で原は貞恵に支えられて生活していたが、9月28日貞恵は死去した。享年33歳、結婚してから11年半が経っていた。死の直前まで意識は清明で、最後に「あ、はやい、はやい星・・・」と言って昏睡となった。貞恵の死後も原は彼女への思いを詩に書きつけた。1944年―1945年の散文詩「小さな庭」に書かれている。貞恵の看病をしていた義母は郷里に帰った。1944年11月よりB29による東京空襲が始まったので、原は千葉の家をたたんで広島の長兄信綱のもと疎開した。原は自分の書いたものを整理して義弟佐々木基一に託した。鞄ごと佐々木の実家(貞恵の実家でもある)の蔵にしまわれて焼失を免れた。
(つづく)
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