ブログ 「ごまめの歯軋り」

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森本あんり著 「異端の時代ー正統のかたちを求めて」 岩波新書(2018年8月)

2019年09月27日 | 書評
群馬県館林市大手町 武家屋敷「鷹匠」

世界に蔓延するポピュリズム、それは腐蝕しつつある正統である民主主義の鬼子か異端か  第12回 最終回

終章 今日の正統と異端のかたち

本書は初めに現代政治の変質をどのように理解すべきかという問いで始まった。終わりにこの問いをポピュリズムの蔓延から正統と異端の問題を考えるのである。ポピュリズムは現代の正統なのだろうか、それとも大衆迎合という悪しきポピュリズムが異端なら、民主主義は異端に乗っ取られたのであろうか。ジョージア大学のカス・ミュデによると、ポピュリズムにはそもそもイデオロギー的な理念の厚みが存在しない。従来のイデオロギーには共産主義にしろ全体主義にしろ、政治経済から文化芸術まで社会全体のあるべき姿を描きだそうとした。だがポピュリズムにはそうした全体的な将来構想はない。あるのは雇用・移民・テロなどその時点での課題スローガンしかない。ポピュリズムが社会を分断する結果になるのも同じ理由である。ポピュリズムは社会に多元的な価値が存在することを認めない。投票による過半数を握った時点で彼らは全国民の代表者となり民主主義の正統を僭称するのである。反対するものはすべて腐敗した既存勢力で国民の敵とみなすのである。このように全体を僭称することが、異端の特徴である。社会に複数の中心をおいて権力を分散させチェック&バランスを図る多元主義体制をポピュリズムは煩わしく感じる。自分は常にフリーハンドでいたいのだ。この傾向はファッシズムの権力掌握過程でもあった。常識的な抑制や近郊に対するポピュリストの反発は、しばしば反知性主義と一体になって表現される。そもそも既成の権力や体制派のエリートに対する大衆の反感を梃子にした勢力であるからだ。ポピュリズムが権力を握ると容易に権威主義に転じて、野党やメディアや司法といった批判勢力を封殺するのは、全体性の主張から当然の帰結である。たとえ僅差であってもポピュリストは権力の座に就くと、有権者をすべて「サイレント・マジョリティ」とみなして自己への賛同者に加える。そして自分の声は国民の声というすり替えを行い、反対者を民主主義の名において圧倒するのである。これは20世紀前半に起こった全体主義ファッシズムの歴史でも、欧州や中南米でも見られる社会現象である。ポピュリストに共通の手法である。ポピュリズムの蔓延を理解するには、人々の主観的な熱情を考慮する必要がある。人はどうしてこうも簡単にポピュリズムのうねりにさらわれてしまうのだろうか。これは大衆の一時的な反動に過ぎないのだろうか。いやポピュリズムの持つ熱情は本質的には宗教的な熱情と同じである。社会的な不正義の是正を求める人々は、教会(ほかの組織でもいい)といった組織によって表現活動をした。既成宗教が弱体化して人々の意見を集約する機能を持たない現在、その熱情の排出口に代替え的な手段を与えるのがポピュリズムである。この点でポピュリズムは反知性主義と同じように宗教なき時代に拘留する代替え宗教の一様態である。ポピュリズムの宗教的な性格は、その善悪二元論、異端の選択、原理主義にあきらかである。民主主義の概念は多数決原理は全てではなくその一つに過ぎず、投票による民意は長い時代での大きな多数者を代弁できるわけではない。多数決原理や投票制といった民主主義の一制度が全体を僭称する時、正統性が損なわれる。正統が正統であるためにはそれを支える構造が必要である。それを宗教社会学では「信憑性構造」と呼ぶ。ピーター・バーガーはこの信憑性構造を「主観的現実を維持するために必要とされる特定の社会的基礎と社会的過程」と定義した。世界で最も巨大な権力である大統領にトランプが就任したとき世界は驚愕した。なぜかというと個人の信憑性ではなく、この大統領職が前提とする世界全体の信憑性構造が大きく揺らいだからである。アメリカで信憑性構造の領域にある軍は、ほとんど宗教的な神聖さを持つ。むき出しの暴力機構である軍は、その力の行使には厳格な正統性が求められる。トランプは軍の神聖さを冒涜する言動を繰り返した。核ミサイルの発射命令権を大統領はもつ。大統領の正統性を支える信憑性構造に揺らぎあってはならないのである。軍隊は宗教とは何の関係もないが、政治やイデオロギーの世界認識においては、宗教的な権威構造が社会の公共的な秩序と相似している。トランプ大統領は「アメリカファースト」を掲げ外交も経済も軍事もすべて「取引」として行うといった。取引といった外交・政治・経済・社会・貨幣行為は「契約は守られる」ことを前提としている。この社会の規制力こそ信憑性構造が持つ力である。正統は全体性を特徴とし、異端は明示的で強い主張を特徴とする。正統と異端は社会の両輪であった。公的生活への参加や連帯から切り離された個人は、たやすく操作されて全体主義に取り込まれる。神学者パウル・ティリヒは「個人として生きる勇気」と同様に、「全体の部分として生きる勇気」が大切だという。政治権力と別の価値観をもつ中間団体の多元的存在が社会の安定性に寄与してきた。個と全体を統合する勇気は自己を超える存在(神、社会)に与することで得られる。現代には非正統はあるが異端はない。異端は皆志の強い人々である。知的に優秀で、道徳的に潔癖で、人格的に端正な者だけが異端となる資格を持つ。もし現代に正統の復権が可能だとすれば、それは次世代の正統を担おうとする真正な異端が現れることが必要である。

(完)


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