ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

兵藤裕己 著 「後醍醐天皇」 岩波新書(2018年6月)

2019年12月16日 | 書評
鬼怒川より富士山の夕焼けを見る

鎌倉時代から南北朝動乱へ、室町期における政治・社会・文化・思想の大動乱期  第13回

松村剛 著 「帝王後醍醐」(中公文庫 1981年) 第7回

5) 湊川の戦いから吉野行幸 南北朝時代の戦い (その1)

建武の中興は天皇親政の建前から公卿を多数国司に任命し、在来の地頭武家の勢力と対立した。新田はとても武家の立場を代弁できる立場ではなかった。現実には中興の政治といっても、鎌倉以来の武家政治と摂関政治の折衷的なもので、矛盾ばかりが吹き出す始末であった。いつ崩壊してもおかしくは無い政治状況であったので、楠木正成は後醍醐帝を守るにはむしろ尊氏との妥協を図る公武合体論を主張した。建武3年(1336年)2月15日、持明院統の光厳上皇よりの使者日野賢俊が義貞追討の院宣を持って尊氏の陣営に到着した。新田義貞は播磨まで進んだが京に引き返した。このへんの詰めの甘さが新田の命取りとなるのである。2月20日尊氏は下関に着いて、小弐頼尚の出迎えを受けた。尊氏がはるばる九州まで落ち延びたのは、小弐、大友、島津の援助を期待したからである。大宰府の権師および大弐は京にいた名前だけの不在官吏であったので、小弐一族が実権を握っていた。尊氏は博多に上陸して菊池武敏と阿蘇大宮司惟直の軍を3月2日多多良浜で破った。3月20日新田義貞は西へ向かい、3月30日白旗城に籠る赤松一族を攻撃した。義貞は包囲戦に手間取り、一隊を福山に向けた。尊氏は4月11日門司→5月1日厳島→5月5日尾道→5月10日福山鞆浦に到着した。海陸両面で東上する尊氏軍に対して、義貞軍は5月18日福山を撤兵して援軍を待った。水軍の上陸地は兵庫と予測されるので、楠木正成が正面軍として兵庫へ進んだ。正成には正面衝突の騎馬戦に勝算は全くなく、死に地を求めた観が強い。正成は戦略上の退却と京の明け渡をし主張し、帝は再度比叡山に御幸し、正成軍は河内に籠って京の背後を突く戦術であったが、朝議はこの策を一蹴した。こうして帝が墓穴を掘ったのである。湊川の戦いは楠木正成にとって義のための戦いとなり、正成と正行の桜井の別れは涙を誘うのである。尊氏の水軍は須磨に、陸上軍は塩屋に構え(平家の須磨の戦いと義経の鵯越の再現である)5月25日湊川の戦いが火蓋を切って落とした。6時間の白兵戦で正成軍は全滅した。5月27日帝は比叡山へ逃げ、29日足利直義が京に入った。6月5日から叡山へ総攻撃が開始され、6月20日まで攻撃が行われたが、尊氏軍の損傷が大きく直義は全軍を撤収し三条口に司令部を移した。叡山では千種忠顕が戦死している。6月30日叡山を下りた新田軍と名和軍は京へ入り東寺八条口で挟撃され名和長年は討ち取られ、義貞は虎口を辛うじて脱した。叡山を封じ込め疲弊させるには琵琶湖の水路を断つことであるので、尊氏は小笠原貞宗に近江路を攻撃させ、近江在住の佐々木高氏と協力し琵琶湖東岸を押さえた。高師泰は山崎から摂津をおさえて尊氏軍の兵糧を確保した。8月15日尊氏は光厳上皇の奏請して豊仁親王の践祚に踏み切った。北朝第1代天皇光明院の出現である。8月22日より叡山より新田義貞は全面攻勢に出たが失敗して、帝側の最後の攻撃となった。叡山で帝らが冬を越せるわけはなく、10月10日和議が成立して後醍醐帝は京に降りた。尊氏は帝に退位と光明院への神器の授与、後醍醐帝の皇太子の東宮と両皇統迭立の復活、帝の廷臣の身分保証を提案した。新田義貞は承服できず恒良親王と尊良親王を守って叡山を脱出し敦賀へ向かった。洞院実世、世尊寺行房が同行した。11月2日帝から神器が返され、帝には上皇の尊号が贈られ、成良親王が皇太子になった。11月7日尊氏は幕府を室町に開き「建武式目17条」を制定した。新上皇は花山院に幽閉し12月10日光明院は室町御所に入った。12月21日伊勢にいた北畠親房が画作して後醍醐帝を吉野に脱出させた。こうして北陸にいた恒良親王を南朝第1代天皇とする南北朝時代が1337年から1392年までの55年間続くのである。

(つづく)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿