ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

読書ノート 広河隆一著 「福島 原発と人々」 岩波新書

2011年09月03日 | 書評
日本政府のいう事を信じてはいけない  第1回

 この本を手にとってぱらぱら読み始めると、1/3ほどは写真からなることがわかる。著者がフォトジャーナリストであると巻末に書いてあるのでなるほどと了解した。映像の訴える力はすごい。これも両刃の刃で、映像から作為が見られることもあるし、正反対の主張が見えることもある。著者広河隆一氏のプロフィールをみる。1943年天津生まれで、1967年早稲田大学教育学部卒業後、イスラエルにわたり1970年に帰国した。その後フォトジャーナリストとして中東諸国を取材し、パレスチナ難民キャンプ・レバノン戦争の記録で記録で読売写真大賞を受賞した。ホームページは「HIROPRESS.net]にある。講談社「月刊誌DAYS JAPAN」に、イスラエルのビジネスマン・アイゼンバーグに関する記事や、ダイヤモンド取引の裏側の取材、チェルノブイリの現状、731部隊などに関する報道、ルポ写真などを掲載。再創刊した月刊写真誌「デイズ・ジャパン」発行・編集長、「チェルノブイリ子ども基金」代表、パレスチナの子供の里親運動顧問、日本ビジュアル・ジャーナリスト協会代表。ということで筆者のキーワードは「イスラエル」と「チェルノブイリ」と見られる。この分野の活動に対して2003年土門拳賞を授与された。岩波新書より「パレスチナ 新版」、「チェルノブイリ報告」、岩波ジュニア新書に「チェルノブイリから広島へ」、小学館から「暴走する原発」他多数の著書がある。写真集はいうに及ばず。
(つづく)

環境書評 大島秀利著 「アスベストー広がる被害」 岩波新書

2011年09月03日 | 書評
中皮腫の40年のタイムラグが、アスベスト対策を甘く見た原因 第1回

 アスベストは火に強く、対磨耗性があり、腐食しないなど優れた工業材料や建築用資材として多用された。1950年だおから60年代にかけて既に発がん性指摘されていたが、規制は行なわれなかった。その結果アスベスト中皮腫による国内の死者1999年には年500人だったのが、2009年には1156人に増加した。残念ながらアスベストが大量に使用されていた年代から40年以上経たないと発病しないため、これからも中皮腫による死者は増加するであろうと見込まれる。中皮腫だけがアスベストの害ではなく、統計上は現れにくいアスベストによるがん死がある。煙草が原因とされてきた肺がんは、中皮腫患者が1人出ると肺がん患者も1人出るといわれ、中皮腫と肺がんを併せると年間3000人はアスベストによるがんで死亡していることになる。交通事故による死亡者が2010年で5000人を切っているので、このままでいくとアスベストによるがん死はこれを超すかもしれない。2005年6月兵庫県尼崎ニあったクボタの旧水道管製造工場周辺アスベスト公害が発覚した。工場内の労働者が健康を害されると労働災害であるが、工場外の人が影響を受けると公害という。「クボタショック」といわれて社会問題化し、この工場付近で中皮腫で死亡した人は200人を超えた。この問題が表面化したことで、アスベストに対する法制度の整備が進み、2011年度までの法改正によって、アスベストの輸入・製造・販売・使用などが全面的に禁止された。こうしてアスベスト製品関連産業には歯止めがかかったが、今後の問題はアスベスト製品が分解・解体されたときに出る粉塵による「アスベスト被害第2波」が懸念される。というのは輸入されたアスベストの8-9割は建材として使用され、建築物の耐用年数から解体のピークは2020年ごろと見られる。東日本・新潟地震による建築物倒壊も非常に大きなリスクである。筆者の大島秀利氏は毎日新聞記者で、約10年前からアスベスト問題を取材し記事にしてきた。クボタショックと法制度の整備でアスベスト問題は終ったのではないという危機意識が本書を書かせたようである。なお大島秀利氏はアスベスト取材報道により2006年科学ジャ-ナリスト賞を、2008年新聞協会賞を受賞した。
(つづく)

文芸散歩 金 文京著 「漢文と東アジア」 岩波新書

2011年09月03日 | 書評
漢文文化圏である東アジア諸国の漢文訓読みの変遷と文化 第8回 最終回

2)韓国の訓読の歴史

 韓国は現在ほぼハングル文字専用になっており、文章に漢字を見ることは無い。この章は東アジア諸国、中でも古代朝鮮語(新羅語)による漢文の訓読の歴史を見ることである。しかし私はハングル、古代朝鮮語に関して全く知らないの、何を言われても実感がわかない。そこで著者の結論を簡単に紹介するに留めたい。実証の過程の議論を判断できないからだ。ハングルは「訓民正音」といい1446年李王朝の世宗が創始したものといわれている。それ以前は朝鮮語を記述するのに、日本の仮名と同じく、漢字を表音的に用いて、さらに仮名字形を簡略化したものが使われていたという。朝鮮王朝時代には漢文を読むときは漢語を音読して、意味の切れ目に助辞などを挟む「口訣」(くけつ)という読み方が確立した。漢字とハングルによる、朝鮮語に翻訳した「諺解」(げんかい)が行なわれていた。これは日本語による訓読にほぼ対応するという。日本語と朝鮮語の文法が殆ど同じだからである。漢字を音と訓で読む「文選読み」(あめ天、つち地、くろい玄、きいろい黄)という方法が日本と韓国で共通するのには意味がありそうだ。高麗以前の訓読法が、1973年に仏像胎内から発見された新羅の「旧約仁王経」に振られた訓読記号から明らかになった。「仁王経」は「法華経」、「金光明最勝王経」とあわせ護国三部経と呼ばれ、国家鎮護仏教の重要経典であった。日本では奈良時代に相当する時期である。仁王会は高麗王朝が滅ぶ14世紀末まで朝鮮王朝で盛んに行われた。この訓読法と日本の訓読との類似点、及び朝鮮と日本仏教の密接な交渉の事実から、朝鮮半島の仏典訓読法が日本に与えた可能性が濃厚である。新羅では仏教諸宗派のうちとりわけ「華厳宗」が盛んで、新羅に多くの日本の僧が修学に出かけ華厳経を学んできた。日本の書記の訓読と新羅の関係を示す資料として、東大寺の円超の著作(914年)に写本「華厳文義要訣」があり、新羅の僧表員の作であるといわれる。「華厳文義要訣」の訓点と角筆記号は実に複雑な当時の規格であったようだ。朝鮮の新羅と日本の奈良王朝の関係は、華厳宗を通じた交流が見られる。7世紀までの朝鮮半島は高句麗、百済、新羅の三国時代で、仏教は372年に高句麗に伝わり、384年に百済へ、527年に新羅に伝わった。日本には百済を経て6世紀半ばに伝わったとされる。668年三国が新羅によって統一されると新羅仏教は最盛期を迎える。唐の義浄の「大唐西域求法高僧伝」によるとインドに渡った求法僧60人のうち8名が新羅僧で、日本僧はひとりもいなかった。
(完)

筑波子 月次絶句集 「秋夜聞砧」

2011年09月03日 | 漢詩・自由詩
河西茜染日将沈     河西茜に染り 日将に沈まんとし 

稲穂蜻蛉秋意深     稲穂に蜻蛉 秋意深し

墟月商聲桐葉落     墟月商聲 桐葉落ち

蒼然暮色客聞砧     蒼然たる暮色に 客砧を聞く


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(韻:十二侵 七言絶句平起式  平音は○、仄音は●、韻は◎)
(平仄規則は2・4不同、2・6対、1・3・5不論、4字目孤平不許、下三連不許、同字相侵)